すべて、世の有りにくき事、我が身と栖との、はかなく、
あだなる樣、かくの如し。いはんや、所により、身の程
に従ひて、心を悩ます事、あげてかぞふべからず。
もし、自づから、身、かなはずして、権門のかたはらに
居る者は、深く喜ぶ事はあれども、大に楽しぶにあたは
ず。歎ある時も、声をあげて泣く事なし。進退安からず、
立ち居につけて、恐れおののく、例えば、雀の鷹の巣に
近付けるが如し。もし、貧しくして、冨める家の隣に居
る者は、朝夕、すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ、出で
入る。妻子・僮僕のうらやめる樣を見るにも、冨める家
の人の、蔑ろなる気色を聞くにも、心念々に動きて、時
として安からず。もし、せばき地に居れば、近く炎上す
る時、その害を逃るる事なし。辺地にあれば、往反わづ
らひ多く、盗賊の難、離れ難し。勢ひ有る者は、貪欲深
く、独り身なる者は、人に軽しめらる。宝あれば恐れ多
く、貧しければ、歎き切なり。人を頼めば、身、他の奴
となり、人をはごくめば、心、恩愛につかはる。世に従
へば、身、苦し。又、従はねば、狂へるに似たり。いづ
れの所を占め、いかなるわざをしてか、しばしもこの身
を宿し、玉ゆらも心を慰むべき。
我が身、父方の祖母の家を伝へて、久しく彼の所に住む。
その後、縁欠け、身衰へて、偲ぶ方々茂かれりしかば、
遂に、跡とむる事を得ずして、三十余にして、更に、我
が心と一つの庵を結ぶ。これを有し住居になずらふるに、
十分が一なり。ただ、居屋ばかりをかまへて、はかばか
しくは、屋を作るに及ばず。わづかについひぢを築けり
と云へども、門(もん)建つるに、たづきなし。竹を柱
として車宿りとせり。雪降り、風吹くごとに、危うから
ずしもあらず。所は、河原近ければ、水の難深く、白波
の恐れもさはがし。
上 車 下鴨神社 下 御手洗川 下鴨神社 鴨長明方丈記之抄 明暦四年版