全て、あらぬ世を念じ過しつつ、心を悩ませることは、
三十余年なり。その間、折々のたがひめに、自ずから、
短き運を悟りぬ。
すなはち、五十の春を迎へて、家を出で、世を背けり。
もとより、妻子なけれは、捨て難きよすがもなし。身に
官禄あらず。何に付けてか、執を留めん。空しく大原山
の雲に、いくそばくの春秋をかへぬる。
ここに、六十の露消え方に及びて、更に、末葉の宿りを
結ベること有り。いはば、狩人の一夜の宿を作り、老ひ
たる蚕の繭を営むが如し。これを中比の栖になずらふれ
ば、又、百分が一だにも及ばすと。かく云ふ程に、齢は
年々にかたぶき、栖は折々にせばし。その家の有樣、世
の常ならず。
広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ
定めざるが故に、地を占めて、作らず。土居を組み、打
ち覆ひを葺て、継ぎ目ごとに、掛け金を掛けたり。もし、
心に叶はぬ事あらば、易く外に移さんが為なり。その改
め造る時、いくばくの煩ひか有る。積む所、わづかに二
両なり。車の力を報ふる外は、更に、用途いらず。
上 大原 来迎院
下 大原から北方面
鴨長明方丈記之抄 明暦四年版