4 選者と家集
表1と表2をクロスして表すと表3の通りとなる。
表3 新古今和歌集西行歌の家集と選者
西行歌 通具 有家 定家 家隆 雅経 選者不明
山家集 43 9 29 33 20 2
異本山家集 92 1 16 65 63 48 2
聞書 8 3 7 6 5
残集 1 1
補遺 3 1 1 2
御裳濯河 24 5 14 17 16
宮河 16 5 13 12 9
山家心中集 24 5 17 19 13 2
出典不明 1 1
注)切出歌1首を含む。
そのほとんどは、前述通り異本山家集が多いが、撰者もほぼ異本山家集に依っている。
それ以外の家集で単独撰歌は、前述の雅経撰歌の補遺の「有明はおもひ出あれや横雲の」、「月のゆく山に心を送り入れて」の二首のみである。補遺は、雖入勅撰不見家集なので、所謂出典不明とほぼ同じと考えて良い。出典不明は、前述したとおり、定家の「思ひ置く人の心にしたはれて」となっている。
飛鳥井雅経は、親の難波頼経が、源義経と親しかった事から、鎌倉に対抗しようとした動きを見せた為、源頼朝に睨まれて、親子とも伊豆などに配流されていたが、雅経は頼朝の子、頼家と実朝と親しくなり、頼朝の猶子となった。建久九年に頼朝に許されて帰京した。
このような経緯もあり、代々の歌人の家ではないので、多くの歌人の家集を保有していたとは思えない。正徹物語でも「雅經は新古今の五人の撰者の内に入り侍りしかども、其比堅固の若輩にてありしかば、撰者の人數に入りたる計りにて、家には記録なども有るまじき也。」と著している。とすれば、西行と全く面識も無く、家に各歌集も無いと思われる雅経が、どうして他の撰者も知らないと思われる二首を撰歌できたかと言うと、やはり友人の和歌所寄人になった鴨長明が浮かび上がって来る。
鴨長明は、若い時、当時の歌壇の中心にいた一人の俊恵に和歌を師事し、その縁で当時のレジェンドだった西行を知っていたと思われ、長明は二見の西行のもとを訪れているが、西行は奥州へ奈良の大仏再建勧進の旅に出ていていなかったと伊勢記に記るされている。俊恵が催していた歌林苑の歌会で、今は残っていない西行の歌を知っていた事も可能性としてある。これらの歌集を長明が雅経に見せ、その中から撰んだと言う事は考えられないだろうか。
古今著聞集巻第一に、雅経の面白いエピソードが語られている。京に帰って泣かず飛ばずの雅経が、歌で注目を集めたのは、雅経は賀茂神社へ毎日参拝していた時、ある社司(忘却其名)の夢に賀茂大明神が現れ、雅経の歌を「なきこそわたれ数ならぬ身を、と詠みたる物のいとをしき也。たづねよ」と神験が顕われたので、探したところ、雅経の歌だと分かり、その後出世したとある。ある社司が誰だかは、著者の橘成季が忘れてしまっていて、不明である。拙考としては、その後の雅経と長明との親密さを考えると、長明が一計を図ったとも思える。
定家の出典不明については、西行は定家に宮河歌合の判を依頼しており、その督促を旅先から行い、そこに付していた歌なのではと思われる。
大阪 弘川寺歌碑 仏には桜の花をたてまつれわが後の世をとむらはば(千載集)