やすゐくわんしやうじ
安井観勝寺
新古今
まとゐして
みれども
あかぬ
藤波の
たゝまく
おしき
けふも
有かな
天暦御哥
安井観勝寺光明院は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より 藤の名所にて崇徳天皇の后妃阿波内侍此所に住せ給ふ。天皇保 元の乱に讃岐圀へうつりまし/\て御形見に束帯の尊影御随 身二人の像を畫てかの地より皇后に送り給へり。其後天皇(讃岐院とも申す) 配所松山に於て大乗経を書写し和哥一首を添給ひて都の 内に納めんとて送り給ふ。 濱千鳥跡は都にかよへども身は松山にねをのみぞなく 讃岐院 然るを少納言入道信西奏しけるは若咒咀の御心にやとて御経を ば返しければ帝大に憤り給ひて大魔王となつて天下を朕がはから ひになさんと誓ひて御指の血を以て願文を書き給ひかの経の箱に 奉納竜宮城と記し堆途といふ海底にしづめ給ふに海上に火 燃えて童子出て舞踏す。是を御覧じて所願成就すと宜へり。夫 より爪髪を截給はず六年を経て長寛二年八月廿六日に 崩御し給ふ。御年四十六。讃州松山の白峰に葬り奉る(已上保元記 に見えたり)。夫より 御霊此地に來て夜/\光を放つ。故に光堂ともいふ。然るに大圓 法師といふ真言の名僧此所へ來つて参籠す。崇徳帝尊躰を 現じ往事の趣を示給へり。大圓これを奏達し詔を蒙りて 堂塔を建立しかの尊霊を鎮め奉り光明院と号しける。佛殿の 本尊は准胝観音なり。御影殿には御水尾院の宸影明正院并に 東福門院の尊牌を安置し奉る。又弘法大師像あり。奥の杜は 崇徳天皇北の方金比羅権現南の方源三位頼政。世人おし なべて安井の金毘羅と称し都下の詣人常に絶る事なし。崇徳帝 金比羅同一躰にして和光の塵を同じうし擁護の明眸をたれ 給ひ利生霊験いちじるしとぞ見えにける。 當寺の門前を新更科と号し中秋には洛陽の騒客こゝに集りて 東山の月を賞す。今は家居繁く建ならびて風景を喪ふ。
新古今和歌集巻第二 春歌下 天暦四年三月十四日藤壺にわたらせ給ひて 花をおしませ給ひけるに 天暦御歌 圓居して見れどもあかぬ藤浪のたたまく惜しき今日にもあるかな
読み:まといしてみれどもあかぬふじなみのたたまくおしききょうにもあるかな 隠削
意味:こうしてなごやかに集まっていくら見ていても飽きない藤の花の、波のように立つではないが名残惜しくて立ち去ることができない今日の春の日だなあ
作者:村上天皇むらかみてんのう926~967醍醐天皇の皇子。摂関をおかず、親政を行い天暦の治と呼ばれた。
備考:天暦四年(950年) 本歌:思ふどちまとゐせる夜は唐錦たたまく惜しきもにぞありける(古今集雑上 よみ人知らず)
安井観勝寺光明院は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より 藤の名所にて崇徳天皇の后妃阿波内侍此所に住せ給ふ。天皇保 元の乱に讃岐圀へうつりまし/\て御形見に束帯の尊影御随 身二人の像を畫てかの地より皇后に送り給へり。其後天皇(讃岐院とも申す) 配所松山に於て大乗経を書写し和哥一首を添給ひて都の 内に納めんとて送り給ふ。 濱千鳥跡は都にかよへども身は松山にねをのみぞなく 讃岐院 然るを少納言入道信西奏しけるは若咒咀の御心にやとて御経を ば返しければ帝大に憤り給ひて大魔王となつて天下を朕がはから ひになさんと誓ひて御指の血を以て願文を書き給ひかの経の箱に 奉納竜宮城と記し堆途といふ海底にしづめ給ふに海上に火 燃えて童子出て舞踏す。是を御覧じて所願成就すと宜へり。夫 より爪髪を截給はず六年を経て長寛二年八月廿六日に 崩御し給ふ。御年四十六。讃州松山の白峰に葬り奉る(已上保元記 に見えたり)。夫より 御霊此地に來て夜/\光を放つ。故に光堂ともいふ。然るに大圓 法師といふ真言の名僧此所へ來つて参籠す。崇徳帝尊躰を 現じ往事の趣を示給へり。大圓これを奏達し詔を蒙りて 堂塔を建立しかの尊霊を鎮め奉り光明院と号しける。佛殿の 本尊は准胝観音なり。御影殿には御水尾院の宸影明正院并に 東福門院の尊牌を安置し奉る。又弘法大師像あり。奥の杜は 崇徳天皇北の方金比羅権現南の方源三位頼政。世人おし なべて安井の金毘羅と称し都下の詣人常に絶る事なし。崇徳帝 金比羅同一躰にして和光の塵を同じうし擁護の明眸をたれ 給ひ利生霊験いちじるしとぞ見えにける。 當寺の門前を新更科と号し中秋には洛陽の騒客こゝに集りて 東山の月を賞す。今は家居繁く建ならびて風景を喪ふ。
新古今和歌集巻第二 春歌下 天暦四年三月十四日藤壺にわたらせ給ひて 花をおしませ給ひけるに 天暦御歌 圓居して見れどもあかぬ藤浪のたたまく惜しき今日にもあるかな
読み:まといしてみれどもあかぬふじなみのたたまくおしききょうにもあるかな 隠削
意味:こうしてなごやかに集まっていくら見ていても飽きない藤の花の、波のように立つではないが名残惜しくて立ち去ることができない今日の春の日だなあ
作者:村上天皇むらかみてんのう926~967醍醐天皇の皇子。摂関をおかず、親政を行い天暦の治と呼ばれた。
備考:天暦四年(950年) 本歌:思ふどちまとゐせる夜は唐錦たたまく惜しきもにぞありける(古今集雑上 よみ人知らず)