

安井観勝寺光明院は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より 藤の名所にて崇徳天皇の后妃阿波内侍此所に住せ給ふ。天皇保 元の乱に讃岐圀へうつりまし/\て御形見に束帯の尊影御随 身二人の像を畫てかの地より皇后に送り給へり。其後天皇(讃岐院とも申す) 配所松山に於て大乗経を書写し和哥一首を添給ひて都の 内に納めんとて送り給ふ。 濱千鳥跡は都にかよへども身は松山にねをのみぞなく 讃岐院 然るを少納言入道信西奏しけるは若咒咀の御心にやとて御経を ば返しければ帝大に憤り給ひて大魔王となつて天下を朕がはから ひになさんと誓ひて御指の血を以て願文を書き給ひかの経の箱に 奉納竜宮城と記し堆途といふ海底にしづめ給ふに海上に火 燃えて童子出て舞踏す。是を御覧じて所願成就すと宜へり。夫 より爪髪を截給はず六年を経て長寛二年八月廿六日に


読み:まといしてみれどもあかぬふじなみのたたまくおしききょうにもあるかな 隠削
意味:こうしてなごやかに集まっていくら見ていても飽きない藤の花の、波のように立つではないが名残惜しくて立ち去ることができない今日の春の日だなあ
作者:村上天皇むらかみてんのう926~967醍醐天皇の皇子。摂関をおかず、親政を行い天暦の治と呼ばれた。
備考:天暦四年(950年) 本歌:思ふどちまとゐせる夜は唐錦たたまく惜しきもにぞありける(古今集雑上 よみ人知らず)
