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詩歌と気象生物 9 西行と桜1

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(ウェップリブログ 2008年02月05日~) 

(石川県立図書館蔵 異本山家集)

9 西行と桜

ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ
(西行 1118~1190、新古今 巻第十八 雑下 1845b 切出歌、山家心中集、続古今集)

この歌は、西行の代表的な歌で自家歌合の御裳濯河歌合(文治3年1187年別名三十六番歌合)にも撰んだ程の自信作です。

藤原俊成に判を、書を慈円に依頼して伊勢神宮内宮に奉納しました。

当時俊成は千載集の撰歌中で、歌合の判は行わないと誓っていたのを無理に頼み込んだものです。西行が千載集に売り込む為と言われます。

しかし、その前に自信作を俊成に送り付けたものが山家心中集と言われていますので、自分の死期が近付き、自分の歌=人生の評価を当世随一の歌人である俊成に、そして未来の歌人の定家に宮川歌合(1189)の判を依頼したと思われます。

定家はまだ25、6歳の歳で千載集には8首撰ばれてたとはいえ、無名に近い存在で、この有名歌人の判を大変嫌がったそうです。

西行は定家の歌に才能を見出だし、自分の歌の判をさせる事により、歌の心を引き継いで欲しかったかと思います。

結局この歌は千載集には漏れ、新古今に一旦入撰したのですが後鳥羽院により切り出されました。

続古今和歌集(1265年)になってやっと勅撰集に撰歌されました。

この歌「下に」は山家集、新古今とも「したに」と「もとに」の二種類があり、どちらとも決め手はないそうです。

桜の木の根本なら「もと」でしょうが、花の場合は空間があり「した」と読むべきかと思っております。

根拠は薄いですが。

この歌を有名にしたのは、西行が大阪河南町の葛城山の弘川寺で、この歌のとおり二月十六日(この日が満月)に亡くなった事です。

当時この事が京都に伝えられると歌のとおり亡くなったと驚き、俊成は、

円位聖が歌どもを、伊勢内宮の歌合とて判受け侍りしのち、また同じき外宮の歌合とて、「思ふ心あり。新少将に必ず判して」と申しければ、印付けて侍りけるほどに、その年(去年文治五年)河内の弘川といふ山寺にて、わづらふ事ありと聞きて急ぎ遣したりしかば、限りなく喜び遣して後、少しよろしくなりて、年の終の頃京に上りたりと申ししほどに二月十六日になむ隠れ侍りける。
かの上人先年桜の歌多くよみける中に
願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃
かくよみたりしを、をかしく見給へしほどに、ついに如月十六日望月終り遂げけることは、いとあはれにありがたくおぼえで、物に書きつけ侍る
願ひ置きし花の下にて終りけり蓮の上もたがはざるらむ
(長秋詠藻)

藤原定家は、藤原公衡に贈った歌に

望月のころはたがはぬたえなれどきへけんくもの行ゑかなしも

又、寂蓮へは、

君しるやそのきさらぎと云をきて詞にをへる人の後の世
(拾遺愚草)

藤原良経は定家とのやり取りで、

去年のけふ花のもとにて露消しの人の名残のはてぞかなしき(良経)

かへし

花の下の雫にきえし春はきてあはれむかしにふりまさる人(定家)
(秋篠月清集)

とかなりセンセーショナルな事件として都人の間で評判になった事がわかります。

もっとも弘川寺の山奥の事で誰も確認したわけではありませんが、歌に合わせて日付を弟子が京都に連絡したのかも知れませんね。

西行終焉の地は、もう一つ説があり、西行の歌を中心とした西行物語には京都東山雙林寺という事になっています。前述の長秋詠藻にも「年の終の頃京に上りたりと申しし」とあるので可能性はあるのですが、高齢の病み上がりの身で山を下りて京都に向かうのは難しいし、俊成も弘川寺については触れているものの、雙林寺については何も触れていないのはおかしいので弘川寺に間違いなさそうです。

西行の歌は後の新古今調の歌人に大きな影響を与え、後鳥羽院は後鳥羽院御口伝では「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり。」と絶賛しております。

順徳院も八雲御抄で「凡そ中頃より此方は、この道に堪へたる人少し。近くは西行が跡を学ぶべし。」と書いてあります。

西行は、桜花と月が好きで、桜を詠んで残っているものとしては230首にのぼるそうです。

よし野山さくらが枝に雪降りて花おそげなる年にもあるかな(春上 79)

吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ(春上 86)

ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ(春下 126)

世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ(雑上 1470)

吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ(雑中 1617)

西行は、人との接触を憂き事としているかと思えば、寂しいから一緒に住もうとか、この歌の様に客人を待つ様なものもあります。

山家集には、

佛には櫻の花をたてまつれわがのちの世を人とぶらはば

等もあります。

又桜花と月では、

雲にまがふ花の下にてながむれば朧に月は見ゆるなりけり

をなじくは月のをりさけ山ざくら花見夜のたえまあらせじ

と満月に桜が咲いてくれと言っております。

 

つづく


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