(ウェッブリブログ 2008年09月30日~)
11 鶴はツル? 田鶴は鶴ではない
松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
汐越や鶴はぎぬれて海涼し 芭蕉
奥の細道の松島と象潟の段での俳句です。古来松と鶴は長寿の象徴として縁起の良いものと言われ、絵や装飾、歌の題となりました。花札の一月にも描かれております。
しかし、ツルの体重からは松に止まる事が出来ず、コウノトリと言われております。
しかし、鶴は西日本のマナヅル、ナベヅルは冬の渡鳥、北日本のタンチョウも江戸時代は冬場しか北海道から本州に渡って来ない。
コウノトリは成鳥になると鳴かないという決定的な違いがあります。
では芭蕉が夏の東北で見た鶴は何だったのでしょうか?それを検証してみます。
新古今 巻第十 羇旅歌
天平十二年伊勢の国に行幸し給ひける時 聖武天皇御歌
いもにこひわかの松原見わたせば汐干のかたにたづ鳴き渡る
万葉集 巻第六 聖武天皇
藤原広嗣の謀反に軍を発して伊勢の国の河口で
妹尓恋吾乃松原見渡者汐干滷尓多頭鳴渡
この歌は詠んだ年月も分かっている数少ないものです。藤原宇合の長男の広嗣は、橘諸兄らの勢力台頭に太宰府左遷を命じられ、その不満から天平十二年(740年)9月挙兵した旨の報が平城京に届いた。このため伊勢神宮に戦勝祈願の為に聖武天皇が行幸したと伝えられている。これも聖武天皇が謀叛に驚き混乱して、遠い九州の事なのに都を捨て伊賀、伊勢、美濃、近江、山城をさすらったという説もあります。第一報から二十日余りで佐伯常人らが九州に到着し、戦が始まっているのも、陰謀のニオイがしますね。
又謀叛で大騒ぎの最中随分のんびりとした暢気な恋歌を作っていたと思います。
旧暦の十月と言うことで今の11月~12月上旬とぎりぎり飛来時期ですが、伊勢まで来ていたか、不明です。
その他の和歌を見てみると、主に伊勢や和歌山の海にいた事、田んぼにもいる事、通った声で鳴く事、が分かります。
具体的に万葉集における用字、場所、年月を調べてみました。
巻番号 万葉仮名 訓読み 場所 時期
3-352 鶴之哭鳴而 たつがねなきて 湖(みなと) 時期未詳
3-456 蘆鶴之 あしたづの 場所不明 七月二十五日
4-509 鳴多頭乃 なくたづの 三津の浜 時期未詳
4-575 蘆鶴乃 あしたづの 草香江入江 時期未詳
4-760 鳴鶴 なくたづの 竹田原 時期未詳
6-1062 鶴鳴動 たづがねとよむ 難波の葦辺 天平十六年
6-1064 百(白)鶴乃 ももたづの 難波の葦辺 天平十六年
7-1164 鳴鶴之 なくたづの 潟 時期未詳
7-1165 求食為鶴 あさりするたづ 海岸 時期未詳
7-1175 行鶴乃 ゆくたづの 足柄 時期未詳
7-1199 鶴翔所見 たづかけみゆ 妹乃島形見の浦 時期未詳
8-1453 鶴之妻喚 たづがつまふく 難波潟 閏三月
10-2138 多頭我鳴乃 たづがねの 場所不詳 秋の雁の前に飛来
10-2249 鶴鳴之 たづがねの 田居 秋相聞
10-2269 鳴鶴之 なくたづの 場所不詳 秋相聞
11-2768 葦多頭乃 あしたづの 場所不詳 時期不詳
15-3595 多豆我許恵須毛 たづがこえすも 武庫の浦 六月
15-3626 多都我奈伎 たづがなく 葦辺 時期未詳
18-4116 多豆我奈久 たづがなく 奈呉の江 閏五月二十七日
20-4398 多頭我禰乃 たづがねの 難波 二月十九日
20-4399 多頭我禰乃 たづがねの 〃 〃
20-4400 多頭我奈久 たづがなく 〃葦辺 〃
18-4116は、明らかに夏に歌っており、ツルではないとしておりますが、想像とした説もあるそうです。写実的であるので古今以降と違うと言い続けたのに、自分の説に合わないと想像にしてしまう万葉学者もいい加減だと思います。
これで分かるのは、海辺もしくは近くの葦辺に居て鳴く。雁の前後に飛来する。あっちこっちに多くいる。鶴ではない可能性が大きいかと思います。
漏れはあるとは思いますが。句の途中にあると見つけにくいですね。
八代勅撰和歌集にみえる鶴(たづ)関係ですが、38首あります。
古今
仮名序 山部赤人 和歌浦に潮満ち来れば方を無み葦べを指して鶴鳴き渡る
賀歌 在原滋春 鶴亀も千歳の後は知らなくにあかぬ心にまかせはててむ
恋歌一 よみ人知らず 忘らるる時しなければあしたづの思ひ亂れて音をのみぞ鳴く
恋歌五 兼覧王 住の江の松ほどひさになりぬればあしたづの音になかぬ日はなし
雑歌上 よみ人知らず 難波潟潮満ちくらし雨衣たみのの島にたづ鳴き渡る
雑歌上 藤原忠房 君を思ひおきつの浜に鳴くたづの尋ねくればぞありとだに聞く
雑歌上 紀貫之 あしたづの立てる川辺を吹く風に寄せてかへらぬ浪かとぞ見る
雑歌下 大江千里 あしたづのひとりおくれて鳴く声は雲の上まで聞こえつがなむ
大歌所御歌 よみ人知らず 近江より朝立ちくればうねの野にたづぞ鳴くなる明けぬこの夜は
後撰
秋下 伊勢 菊の上に置きゐるべくもあらなくに千歳の身をも露になすかな
恋一 よみ人知らず 雲ゐにて人を恋しと思哉我は葦辺の鶴ならなくに
恋二 坂上是則 験なき思ひやなぞとあしたづの音になくまでに逢はずわびしき
恋三 勤子内親王 葦田鶴の雲ゐにかかる心あらば世を経て沢に住まずぞあらまし
恋三 藤原師輔 葦たづの沢辺に年は経ぬれども心は雲の上にいみこそ
雑一 在原行平 翁さび人などがめそ狩衣今日許とぞたづも鳴くなる
雑三 よみ人知らず 島隠有磯にかよふあしたづのふみ置く跡は浪も消たなむ
哀傷 伊勢 鳴く声にそひて涙はのぼらねど雲の上より雨は降るらん
拾遺
賀歌 伊勢 千とせとも何か祈らんうらに住む鶴の上をぞ見るべかりける
雑上 よみ人知らず 加古の島松原ごしに鳴く鶴のあななかながし聞く人なしに
雑上 小野宮太政大臣 遅れゐて鳴くなるよりは葦鶴のなどか齢をゆづらざりけん
雑上 愛宮 年をへてたちならしつる葦鶴のいかなる方に跡とゞむらん
雑下 源順 …誰九つの沢水に鳴く鶴の音を久方の雲の上までかくれなみ…
神楽 清原元輔 千とせふる松が崎にはむれゐつゝ鶴さへあそぶ心あるらし
恋一 藤原師輔 さわにのみ年は経ぬれどあしたづの心は雲の上にのみこそ
後拾遺
春上 大中臣能宣 たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀萌えいづる春は来にけり
賀 源重之 いろいろにあまた千年の見ゆるかな小松が原にたづや群れゐる
金葉
雑部上 藤原公教 雲の上になれにし物を蘆鶴の会ふことかたに下りゐぬるかな
詞花
賀歌 清原元輔 松島の磯にむれゐる蘆鶴のをのがさまざまみえし千代かな
雑下 藤原公重 むかしみし雲ゐをこひて蘆鶴の沢辺に鳴くやわが身なるらん
千載
賀歌 二条院 白雲に羽うちつけてとぶ鶴のはるかに千代の思ほゆるかな
雑歌中 藤原俊成 あしたづの雲路まよひいし年暮れて霞をさへやへだてはつべき
雑中 藤原定長 あしたづは霞を分けて帰るなりまよひし雲路けふや晴るべき
新古今
冬歌 藤原道信朝臣 さ夜ふけて聲さへ寒きあしたづは幾重の霜か置きまさるらむ
賀歌 伊勢 住の江の濱の真砂をふむ鶴はひさしきあとをとむるなりけり
羇旅歌 聖武天皇御歌 いもにこひわかの松原見わたせば汐干のかたにたづ鳴き渡る
雜歌上 俊惠法師 難波がた汐干にあさるあしたづも月かたぶけば声の恨むる
雜歌上 前大僧正慈圓 和歌の浦に月の出しほのさすままによる啼く鶴の声ぞかなしき
雜歌下 藤原淸正 天つ風ふけひの浦にゐる鶴のなどか雲居にかへらざるべき
やはりめでたい鳥として賀歌に多いのが判ります。葦鶴が結構多いのも判ります。
滋春の歌は、唯一「つるかめ」と「たづ」とは詠んでおりません。
場所は、和歌浦2、難波潟2、住之江2、奥津浜、松島、伊勢松原、吹飯の浦、加古島、松ヶ崎、近江蒲生野。
場所が不明でも、松原2、葦辺、潟、浦。淡水と思われる沢辺6、川辺。空中が3。
飼っていたもの1
となっております。
季節が特定出来るのは少なく、種の特徴が分かるものは無いのですが、拾遺のよみ人知らずの「鳴く鶴のあななかながし」と長く鳴くものとしてあります。
(未作成)