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方丈記と平家物語について6 完成版

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(4) 養和の飢饉
 養和(1181年~82年)の飢饉は、天変地異の凶作に加え、源義仲軍、武田軍に包囲され、地方からの食糧の供給が途絶えた事も原因となっていると推察される。
 平家物語では、盛衰記と合戦状本のみ記載があり、その他では、「治承、養和の飢饉、東國、北國の合戦に、人種はみな滅びたりといへども、なほ残りて多かりけるとぞ見えし。」(百二十句本など)、「去る治承・養和の比より、諸國七道の人民百性等、源氏の為になやまされ、平家の為に滅ぼされ、家かまどを捨て、山林にまじはり、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにも及ばず。いかにしてか様の大礼もおこなはるべきなれ共、」(高野本など)などと言ったもののみ記載があるだけである。
 源平の闘いでは、治承四年の富士川の合戦で大勝した源頼朝は、部下の意見を取り入れ、関東軍を直ぐに京に攻め込まず、で生々しい事であるので、娯楽としての平曲には馴染まなかったの寿永二年の木曽義仲の北陸信濃勢に入京を先んじられた。また、疲弊している中で、大軍の食料調達を京中で賄おうとしたため、人心の離反を招き、宇治川の合戦に敗北した一因とも言われる。また、範頼は、軍を京中に置かなかったのも、このためと言われる。このように重要な事態であるにも拘わらず、平家物語で取り上げるものが少なかったのは、あまりに悲惨かも知れず、記載がされず、若しくは削除されたのでは無いかと思う。
 方丈記と合戦状本、盛衰記の養和の飢餓の語句を表4に示す。

 盛衰記では、大福光寺本、前田家本が「秋大風」、流布本は「秋冬大風」となっており、「秋冬は大風」の盛衰記は、流布本を引用していると推察されるが、大福光寺本、前田家本の「あかにつき」、流布本の「につき」と盛衰記の「朱」であり、逆に大福光寺本、前田家本を引用しているのではと思う部分もある。丹は「あか」とも訓じるのでその色だけで表現したのかも知れない。
 「洪水」の大福光寺本、盛衰記、「大水」の前田家本、流布本は、訓で読むと「おおみず」、「疫癘」は、「えきれい」の大福光寺本、前田家本、盛衰記、「えやみ」の流布本とも読み、大福光寺本、前田家本「その頭」、流布本「その死首」、合戦状本は「其首」と、どれも訓は「こうべ」なのでどちらとも言えない。
 大風や洪水は、台風シーズンに起こる事から、冬を入れるというのも、春夏、秋冬の対句表現をしたのかも知れない。
 大福光寺本、流布本の「家をわすれて山にすむ」は、盛衰記の「妻子を忘て山野に住」として、前田家本の「家を分かれて山に住む」を採用していない。
 大福光寺本には無い「聖、数多語らひて」を、合戦状本は「語ヒツ上人ヲ太多」とあり、前田家本、流布本を引用している。 方丈記三異本は、「河原、白河、にしの京、もろもろの辺地などをくはへて」としているが、合戦状本は、「河原、白河、西京、北山以下加ヘ辺地」と北山を加えている。
 仁和寺隆暁法印の餓死者数は、方丈記三異本とも「四万二千三百余り」としているが、合戦状本では、百人増えて「四万二千四百余り」としている。
 養和の飢餓は、前半の合戦状本と後半の盛衰記のみの記載なので、分類は出来無い。

 


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