Quantcast
Channel: 新古今和歌集の部屋
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4333

方丈記と平家物語について5 完成版

$
0
0

四部合戦状本

3) 福原遷都
 平清盛は、治承四年六月、一門や多くの貴族の反対を押し切って、摂津國の福原(神戸市兵庫区、北区)へ遷都を強行し、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇の行幸が行なわれた。当時の宋貿易の要である大和田泊港を強化する目的と前年の後白河法皇幽閉の人心一身を狙ったものかと言われる。しかし、平家一門や貴族達の不満、源氏の旗揚げに対応する為、新嘗祭の五節だけ行われ、半年で京都に還幸している。
 賀茂神社は、元々賀茂氏の氏神であったが、平安遷都以降、王城鎮護の神社として代々天皇家の崇拝を受け、皇女を斎院として置くなど、賀茂家は平安京と共に発展してきた。これも諸行無常として、方丈記では災禍と同じく捉えている。
 異本の差違を表3に示す。

 方丈記の福原遷都の記述は、前半語り本系が、後半は読み本系が方丈記を採用し、福原遷都と緒環の筑紫に作った里内裏の両方に利用されている。
 丸殿は、斉明天皇の御時百済救済の西征の際、筑紫、今の福岡県朝倉市山田に置かれた行宮が、粗末な造りにしたとあり、その時皇太子だった天智天皇が、
  朝倉や木のまろ殿にわがをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ(新古今 雑歌中)
の歌を作ったと伝承されており、俊頼髄脳にこの歌があるので、源俊頼の子俊恵の弟子であり、新古今和歌集編纂の為の和歌所寄人であった鴨長明であれば、知って当然の事となる。
 福原の貴族達の樣子は、読み本系の盛衰記と長門本が、後から方丈記の部分を挿入したと考えるべきかも知れない。
 延慶本は、丸殿以外は方丈記を挿入していない。
 なお、大福光寺本には、【その地、ほどはせばくて、でうりを割るにたらず。北は山にそひて高く、】が欠落しており、高野本、城方本、百二十句本、九年本、下村本が記載している事から、大福光寺本を参考としていない事が判る。そのうち、九年本「やまやまにそびえて」、下村本「山々に沿うて」と多少誤写がされている。
 大福光寺本と同じ「南は海ちかくしてくだれり」は、高野本、九年本、下村本、「ちかくて」は城方本、「近うして低ければ」は、百二十句本となっているが、前田家本や流布本の「海に」としているものは無く、微妙だが、異なる表記となっている。
 緒環は、平家の落人の樣子なので、この事を記憶している者は、ほとんど壇ノ浦の海の藻くずと消えた事から、平家物語作者として参考とするものが少なかった為、関係の無い「内裏は」や「十市の里」歌を挿入したのかも知れない。

平家物語平松家本

 安元の大火や治承の辻風で方丈記を多数引用している合戦状本は、福原遷都部分では方丈記を引用しておらず、また巻八を欠く事から、他の異本に見られる通り、巻八に記載があったかも知れないが、今は知るすべも無い。
 方丈記の福原遷都は平家物語への引用部分が少なく、熱田本と平松本は漢文なので行う事は出来無いが、遷都部分では、「南は海に」の微妙な差である送りがなであえて分類すると、①高野本、九年本、下村本、熱田本、平松家本となる。その他の部分では、「内裏は山中なれば」を記載している②城方本、百二十句本と多くの部分が一致している③盛衰記と長門本のみ分類できる。
 方丈記の福原遷都の記述は、前半語り本系が、後半は読み本系が方丈記を採用し、福原遷都と緒環の筑紫に作った里内裏の両方に利用されている。
 丸殿は、斉明天皇の御時百済救済の西征の際、筑紫、今の福岡県朝倉市山田に置かれた行宮が、粗末な造りにしたとあり、その時皇太子だった天智天皇が、
  朝倉や木のまろ殿にわがをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ(新古今 雑歌中)
の歌を作ったと伝承されており、俊頼髄脳にこの歌があるので、源俊頼の子俊恵の弟子であり、新古今和歌集編纂の為の和歌所寄人であった鴨長明であれば、知って当然の事となる。
 福原の貴族達の樣子は、読み本系の盛衰記と長門本が、後から方丈記の部分を挿入したと考えるべきかも知れない。
 延慶本は、丸殿以外は方丈記を挿入していない。
 なお、大福光寺本には、【その地、ほどはせばくて、でうりを割るにたらず。北は山にそひて高く、】が欠落しており、高野本、城方本、百二十句本、九年本、下村本が記載している事から、大福光寺本を参考としていない事が判る。そのうち、九年本「やまやまにそびえて」、下村本「山々に沿うて」と多少誤写がされている。
 大福光寺本と同じ「南は海ちかくしてくだれり」は、高野本、九年本、下村本、「ちかくて」は城方本、「近うして低ければ」は、百二十句本となっているが、前田家本や流布本の「海に」としているものは無く、微妙だが、異なる表記となっている。
 緒環は、平家の落人の樣子なので、この事を記憶している者は、ほとんど壇ノ浦の海の藻くずと消えた事から、平家物語作者として参考とするものが少なかった為、関係の無い「内裏は」や「十市の里」歌を挿入したのかも知れない。
 安元の大火や治承の辻風で方丈記を多数引用している合戦状本は、福原遷都部分では方丈記を引用しておらず、また巻八を欠く事から、他の異本に見られる通り、巻八に記載があったかも知れないが、今は知るすべも無い。
 方丈記の福原遷都は平家物語への引用部分が少なく難しいが、遷都部分では、「南は海に」の送り仮名の微妙な差で分類すると、①高野本、九年本、下村本、熱田本、平松家本となる。その他の部分では、「内裏は山中なれば」を記載している②城方本、百二十句本と多くの部分が一致している③盛衰記と長門本のみ分類できる。
 緒環部分での「内裏は山中なれば」で、①高野本、九年本、下村本、熱田本、百二十句本、「中々優なる様を」記載していない②盛衰記、延慶本、闘諍録に一文ではあるが分類できる。

平家物語熱田本

神戸市生田の森


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4333

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>