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4 方丈記異本と平家物語異本
(1) 平家物語の異本と方丈記
平家物語の異本間の差違と方丈記との関連を見ると、先ず方丈記と類似点が多く、大火の日時、内裏の焼亡箇所以外は他の異本とは異なる合戦状本が上げられ、一番方丈記に近い。しかし、方丈記に一番近いという事は、他の平家物語から一番遠いという事でもある。
中院本は、語り本の中では、一番方丈記の語句を残しており、城方本と類似点が多く、次いで屋代本、百二十句本とも類似している。特に注目すべき語句は、「その費え」として「間」を入れず、「幾十ばくぞ」と方丈記に一致している。しかし、遷都と飢餓では方丈記を採用していない。
百二十句本は、安元の大火では、高野本、九年本、下村本、城方本と近いが、それぞれ異なる部分が、一致している事から、語り本がそれぞれ変化する前の原型を色濃く残していると考えられる。元暦の大地震では、屋代本との高い一致率からも原型を残した結果と考えても良い。
平松家本は、安元の大火において屋代本との共通が多く両本の関係は明かと言える。しかし、屋代本は、元暦の大地震で他の語り本との共通が多い。
同じ真名本である熱田本は、高野本、九年本、下村本と共通語句が多い。
読み本系と語り本系が共に採用しているのが、大火の「廿六日亥刻」。辻風の「四五町十町」、「未申」。遷都の「木の丸殿」を筑紫の里内裏に使用しているもの。大地震の「海漂ひて浜を浸す」は高野本、九年本、下村本、盛衰記、熱田本、「海傾きて浜を浸す」の城方本、百二十句本、長門本は、表現が異なるにも拘わらず、両系統とも採用している。方丈記と同じ「煙の如く」は、高野本、九年本、熱田本、屋代本、百二十句本、長門本、「煙に同じ」は、下村本、城方本、延慶本が採用している。
語り本系として、①高野本、九年本、下村本、熱田本、百二十句本グループと②平松家本、屋代本グループ、③中院本、城方本グループに分かれるが、屋代本は元暦の大地震で①や③とも、百二十句本は②と③と共通する語句を使用して相互に関係してる。
読み本系として、④延慶本、盛衰記、長門本、闘諍録、⑤合戦状本に分かれる。しかしこれも、「海漂ひて浜を浸す」で①グループと同じ盛衰記、内裏の焼亡箇所で①及び城方本と同じ合戦状本など、読み本系も一概に言い得無い部分もある。
これらの四大災害一変事(緒環を含む)をみても、巻ごとに作者と引用した平家物語祖本が異なるという事となった。
(2) 方丈記の異本と平家物語
方丈記の異本と平家物語の差違をまとめてみると、以下の通りとなる。
安元の大火は、平家物語と同じ「牛馬の類」としている前田家本、「三分の一」としている大福光寺本、前田家本、「資財」を使用している大福光寺本、流布本とバラバラの状況にある。
治承の辻風について、合戦状本は大福光寺本、前田家本のほとんどを網羅している。特に、「資財」、「未の方」から大福光寺本、前田家本を参照したのは明かである。しかし、「三四町を掛けて吹きまくる」から前田家本、流布本を、「垣を吹き拂ひて」から大福光寺本、流布本を引用としているとみられ、三異本をそれぞれ参照した可能性がある。
福原遷都は、語り本系が、大福光寺本に無い「その地~高く」を記載しており、前田家本、流布本を参照としている事となる。「内裏は山中なれば」以降は、読み本系、特に盛衰記が参照しており、逆に語り本系は引用は無くなる。「多く直垂を着たり」は、大福光寺本、前田家本の「多く」を長門本が引用している。
養和の飢餓を盛衰記は「秋冬は大風」から流布本を、「あかにつき」からは大福光寺本、前田家本を、「家をわすれて山にすむ」から大福光寺本、流布本を参照としていると考えられる。一方、「聖、数多語らひて」から前田家本、流布本を、「北山」、「四万二千四百余り」からどの本も参照していないか誤写したと考えられる。
元暦の大地震では、「山崩れて」、「ゆく駒」、「立ち昇りて」、「昇らん事難し」と流布本に近い物が多いが、「水湧き上がり」から大福光寺本、前田家本を、「殊なる変をなさず」から大福光寺本、流布本を参照している事から、それぞれの部分はそれぞれの物を参照している事となる。
以上の事から、平家物語の四大災害一変事の部分において、
① 異なる加筆者が、それぞれ異なる方丈記を参照した。
② 現存しない方丈記異本があり、それを参照した。
の二つが考えられるが、短い文章の中に、①のあるときは大福光寺本、あるときは前田家本、あるときは流布本を参照したとするのは無理があり、語り本系、読み本系とも同様な傾向から、かなり早い時期に、②の大福光寺本、前田家本、流布本以外の現存しない異本があったと考える方が合理的である。
大福光寺本の奥にある「親快之を証す」の醍醐寺地蔵院の親快について、平家物語の形成と真言圏の中で麻原美子博士は、横井清氏が発見した醍醐寺地蔵院の深賢の「深賢書状」、山田孝雄博士が発見した「兵範記背表紙」などから、「即ち私は平家物語の成立に関して原態本は天台圏で著述され、これがあるルートを通して真言圏に入り、醍醐寺教圏で管理されて原形態形成されていったのでは無いかと大よその経緯を考えているのである。」として、「伝法の弟子親快は、…、成賢の弟子道教の資であるが、」とし、方丈記と平家物語の関係において、「『方丈記』と『平家物語』との関係は、五大災害の飢餓以外の部分が伝本によって若干の差があるものの、原文に近い形で引用されており」、「この奥書から、親快を通して深賢所持の「平家物語」へ取り込まれたのではないかと想定するのである。」として、深賢・親快が、「その形成に友に参画したと考える方が自然である。」と記している。方丈記と平家物語が同じ醍醐寺地蔵院に所蔵されていたという事実はとても興味深い事である。
しかし、平家物語各本が、大福光寺本だけに拠った物ではなく、特に、真言宗根来寺に伝わった延慶本も「桁梁長押棟」、「四五町十町」、「煙に同じ」、「雷の如く」と既存方丈記三異本に依存している訳では無い。つまり、既に平家物語が、醍醐寺地蔵院に所蔵される以前にこれらの部分が挿入されていたと考える事も出来る。その元平家物語の作者は鴨長明意外には考えられない。