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5 鴨長明と平家物語その周辺(九条家の人々)
(1) 鴨長明
方丈記の作者である鴨長明は、下鴨神社の祢宜の子として生まれ、幼くして父に死に別れ、歌を俊恵に学び、琵琶は楽所預の中原有安に学びつつ、父代わりとも言うべき交わりをしていた。源家長日記に拠れば、和歌所寄人になってから和歌の催しなどがあれば常に参加し、真面目に勤めたとある。俊頼の子の俊恵直伝の愛弟子であるという自負があったのであろう。
琵琶奏者としてもかなり有名で、方丈記の中にも、「琴、琵琶各々一張を立つ。いはゆる折琴、継琵琶これなり。」や「もし、余興があれば、しばし、松の響きに秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。」とある。なお、「流泉」は、源博雅が逢坂の蝉丸に「啄木」とともに教わったと伝えられる秘曲(今昔物語江談抄他)として、有名である。
この啄木について、秘曲づくしという催しを長明が行い、啄木を弾いたというので、孝道という楽士から密告され、勅答を奏して反論したが、後鳥羽院はやむを得ず配流を決め、長明は耐えきれなくなって出家し、伊勢に落ちのび、二見浦に方丈の庵を建てたと音楽口伝の文机談で書かれている。尤も文治二年に西行の庵を訪ねた伊勢記と日野の方丈の庵の事が、間違って伝えられており、秘曲づくしも後から作られた物語の可能性が大きい。ここでもうひとつ興味深いのは、方丈記(又は伊勢記)が、「件の記録はいまだ世のもてあそぶ物なれば、定めて御らんじたる人もをはしますらん。」と音楽士の間でも広まっていたという事実である。
また、名器「手習」という琵琶を後鳥羽院が所望し、家長を勅して、使いに渡した時に、和歌を撥に書いてあったと家長日記にある。
長明の死去三十六年後の建長四年(1252年)成立した十訓抄では、「方丈記とて仮名にて書き置きけるものを見れば、始めの詞に、行く水の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と、この時代に既に方丈記が読まれ、書写されていた事が窺える。
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(2) 源季広
源季広は、平安末期から鎌倉初期の人で、千載集、新古今和歌集、続後撰、新後撰、続後拾遺、新続古今に各一首、新勅撰に二首撰歌されている歌人で、九条兼実の家司を勤め、藤原定家の日記「明月記」にも所々登場するとのこと。正五位下で下野守を勤め、子孫は信濃小路家を名告ったとのこと。
何故、季広が方丈記と関係があるかというと、新勅撰和歌集 巻第十 釈教歌に
十二光佛の心をよみ侍りけるに、不断光佛 源季広
月影はいる山の端もつらかりきたえぬひかりを見るよしもがな
とあり、これが方丈記の流布本の巻末に記載されている。このため、藤岡朔太郎博士は方丈記偽書説を採られた。
何故流布本の巻末にこの歌が記されたのか不明である。
また、延徳本には別の歌が入っており、これは誰の歌か不明である。
墨ぞめの衣ににたるこゝろかととふ人あらばいかゞこたへむ
(3) 藤原行長
藤原行長は、平家物語作者の諸説の中で、全ての解説書、研究書に先ず記載されていると言って良い、吉田兼好が書いた徒然草に作者と明記されている。葉室兼時の孫、左大弁の行隆の子で、同じく尊卑分脈で作者と擬されている葉室時長とは、従兄弟の関係にあり、両者は共に九条兼実の家司を勤めている。また、下野守を勤めている。
漢詩に精通しており、徒然草でも、「楽府の御論議の番に召されて」と白楽天の新楽府を論じる際に、召されていたと記載があるほどである。
元久二年、九条良経が企画し、後に後鳥羽院も参加した元久詩歌合の出詠者でもある。当初はメンバーでは無かったが、院の参加が急遽決まり、漢詩側の作者として加えられた。後鳥羽院の北面の武士である藤原秀能と番われており、勝敗は残されていない。
この元久詩歌合には、もう一人鴨長明が出詠している。つまり共に身分は低いものの、方や源俊頼・俊恵の和歌の伝統を継承した長明と漢詩については深い知識を有した行長がここで会している事となる。藤原定家の日記である明月記には、歌合の席順などが記されており、身分の低い者は、庭に席が設けられている。共に五位以下である為、両者は顔を合わせている可能性もある。
ただ、学者にとって漢詩は得意だが和歌は弱い。逆に和歌が得意な者は漢詩が苦手。ましてや管弦の才能、有職故事、歴史、仏教までとなると、三舟の才の藤原公任、源経信、慈円、九条良経など、歴史上でも数人しかいない。詩歌、有職故事の行長、和歌、管弦の長明などの才能が結集しないと文化の総合芸術である平家物語は出来ないのである。
徒然草には、失意の出家後、兼実の弟、慈円の保護を受けて、平家物語を書いたとある。
石田吉貞昭和女子大学教授によると、長寛二年(1164年)頃生まれ、長明の11歳下、定家の2歳下と推計している。同氏によると兼実日記の玉葉の建久五年に下野守という役職名で呼ばれ、藤原(三条)長兼の日記の三長記の建久六年は散位とあり、建久五年まで下野で勤めていた事となるとのこと。なお、長兼も九条家の家司を勤めており、元久詩歌合の出詠者である。その後八条院に住む左大臣九条良輔の使いを何度か明月記に記載されている。
行長の出家を石田教授は、一代要記に土御門天皇承元四年(1210年)に
同(三月)十五日、於高陽院殿有楽府問答五番
とあり、「このような特殊な論議が、そうたびたび行われようとも思わない」事から、この論議の後で、主君良輔の死後の健保六年(1218年)と見ている。
しかし、宮地崇邦氏によると、この時代三人も行長がいるというのである。一人はややこしい事に、源行長と言って、兼実のこれも家司をしている。つまり山田孝雄教授や池田教授が指摘している玉葉や三長記の一部は、この源行長であるというのである。そうであるならば、無理に行長の出家の年を良輔の死と整合させる必要は無くなる。
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(4) 藤原範季
徒然草に、「蒲冠者の事はよく知らざりけるにや」とあるが、同じ兼実の家司に藤原範季がいる。
彼は源義朝が討たれた後、子の範頼(蒲冠者)を引き取っている。範頼の範は範季の一字を貰ったと推察されている。つまり、行長は、範季に聞けば良いだけである。
範季は、早くに父を亡くし、兄に育てられ、兄の死後、甥や姪達を養育している。妻は平教盛の娘で、また育てた姪の範子が平時子の弟の能円と結婚している。
また、兼実の玉葉には元暦元年(1184年)九月三日に、「早旦範季朝臣来たる。不思議の事を示す。參河国司範頼(件の男幼稚の時、範季子となし養育す。よつて殊に相親しむと云々)」と今でも範頼と範季は親しいとある。つまり、摂関家と源氏、平家とも繋がりが深い。
更に後鳥羽院が小さい頃に養育を行い、養育していた二人の姪の範子と兼子が、後鳥羽院の乳母となった事から、天皇家とも深い繋がりを持った。その姪の範子の子供在子が土御門天皇を産み、更に自分の子供の重子が順徳天皇を産み、外祖父となっている。その後、源義経を匿った咎で、頼朝に睨まれ、官職を剥奪されている。
これだけ源平合戦の表も裏も知り尽くしているのだが、範季自身は1205年76歳の高齢で死去していて、直接聞く事は出来なかったのかも知れないし、どんどん出世して最後は公卿である従二位まで昇進しているので、口を聞ける状況で無かったのかも知れない。しかし範頼と幼い時が一緒に過ごした子や甥などには様子を聞けたのでは無いだろうか。
なお、範季自身の平家物語への登場は無い。
(5) 慈円
慈円は、藤原忠通の子、兼実の弟で、天台座主を四度も務め、新古今を代表する歌人でもある。九条良経の叔父に当たり、良経に和歌を指導した節がある。兼実、良経の死後、良経の子道家の後見も務めている。特に承久の変の準備を始める後鳥羽院に対して、執筆したと言われる愚管抄は有名である。
兼実の家司で出家した行長の才能を惜しんで召し抱えたと徒然草にある通り、平家物語に、制作総指揮(エグゼクティブ・プロデューサー)という役割があったとすれば、慈円ほど適任者はいない。
慈円も元久詩歌合の企画立案、そして出詠者でもある。
ただし、「山門の事を殊にゆゆしく書けり。」とあるが、ゆゆしくをどう解釈するかに因る。山門の事を悪く書けば、立場上慈円は悪くなるし、慈円は、延暦寺内部の抗争などを見聞きして、あまり延暦寺を良く思っていなかった。良く書きすぎると慈円の考えから外れてくる。事実。当時の明雲座主の事を愚管抄ではかなり批判している。
また、平家物語の根底に流れる浄土宗とは、相容れるものではない天台座主。兄兼実が法然を師として出家した事にも不満があった。
なお、愚管抄と平家物語四大災害一変事において、共通する語句は元暦の大地震の「法勝寺九重塔」を合戦状本で使用し、長門本は辻風で流用、表現を「六勝寺」としている高野本、九年本、下村本、中院本、延慶本、長門本、熱田本、屋代本、「白河の辺の九重の塔」として法勝寺の塔のみ記載している城方本となっている。
慈円の平家物語の登場は、盛衰記「山門堂塔事」に慈鎮和尚、延慶本の「山門の学生と堂衆と合戦の事付けたり山門滅亡の事」に慈円としているが、盛衰記の慈鎮和尚は死後の諡である事から、後の世になって追加された可能性が大きい。
(6) 藤原範光
藤原範光は、範季の甥で、幼くて父が死んだ後、叔父に育てられている。つまり源範頼と一緒に育ってきたという事である。後鳥羽院の側近として、紀伊守、下野守などをして、紀伊守となっている。この時、叔父の範季は、役職を辞して甥が紀伊守に付かせたとある。範光の妻は範季の娘である。
平家物語の範光の登場は、法住寺合戦で後鳥羽院を守っていた側近の一人として名があり、また、、平家が都落ちした際、範子が後鳥羽院も連れて行こうとした時、範光が止めた部分がある。新古今の撰歌を取って付けたように書かれているだけで、あまり好意的に書かれてはいない。自分が止めたから後鳥羽院は天皇になれたのだという事をアピールはしている。
(7) 藤原定家
藤原定家も九条兼実と息子の良経の家司を勤めている。藤原俊成の子で、俊成が勅撰撰者である千載和歌集の編纂を手伝い、新古今和歌集では、後鳥羽院親撰の名目上の撰者、そして新勅撰和歌集で撰者となっている。
有名な「忠度の都落ち」で「その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりし事どもなり。」(高野本)とあるように、読み人知らずとして入撰した事を知り得る数少ない人物の一人である。忠度朝臣集は冷泉家の時雨亭文庫に残されている。平家物語にある忠度が直接俊成に渡した巻を見た事も十分あり得る事である。
延慶本・長門本には、忠度の都落ちに、行盛の歌が新勅撰に撰歌されるエピソードを追加しており、その場面に登場する。つまり、治承物語の記載年1240年に所有し、書写した際に、忠度・俊成に次いで、自分の話も追加したのでは無いだろうか。所々に存在する源平騒乱時代には無い新古今和歌集歌などが挿入されており、かなり歌に精通した者の存在が伺える。
付け加えて、定家も元久詩歌合の企画から参加して、題を考えた者であり、歌側の出詠者である。
つまり、1240年所有していた治承物語は、延慶本・長門本の親本と考えても良いのでは無いだろうか。
(8) 菅原為長
正徹によって、十訓抄の作者の一人に擬されている菅原為長も九条家の家司であり、元久詩歌合の作者である。
為長は、紀伝家の菅家として、文章博士や土御門天皇の侍読となり、以降順徳、後堀河、四条、後嵯峨と五代に渡り勤めた。建暦元年(1211年)には漢学者としては異例の従三位として公卿の仲間入りをして、承久の変以降の承久三年(1221年)には正三位になった。
平家物語との関係では、十訓抄の中の「ものかはの蔵人」は、エピソードとして挿入されている。また、長明との関係では、前述のとおり、十訓抄で方丈記を引用して、褒め称えている。
(9) 慶政
慶政は、九条良経の子で、道家の兄である。幼い頃乳母の不注意により怪我をして、仏門に入れられた。当然慈円の又甥に当たる。承久四年(1222年)3月に著した閑居友下巻の「建禮門院御いほりにしのびの御幸の事」は、後白河院側から大原の建礼門院の様子を著しており、平家物語灌頂巻に酷似というより、原型を示しており、「これはかの院の御あたりの事をしるせる文に侍き。なにとなくみすぐしがたくて、かきのせ侍なるべし。」とあるとおり、原本を見て書き写したとしている。
閑居友は、長明の発心集を意識して書かれており、長明を直接知らなくとも発心集だけでなく方丈記を読んでいる事が考えられる。
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参考文献
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方丈記 全訳注 安良岡康作 講談社学術文庫
方丈記;徒然草 佐竹 昭広, 久保田 淳校注 新日本古典文学大系 岩波書店
平家物語 梶原 正昭, 山下 宏明校注 新日本古典文学大系 岩波書店
平家物語 市古貞次校注 新編日本古典文学全集 小学館
校訂延慶本平家物語 12 松尾葦江 清水由美子?編 汲古書院
長門本平家物語 4 麻原美子 小井土守敏 佐藤智広?編 勉誠出版
鎌倉室町時代文学史 藤岡/作太郎 著 岩波書店
あなたが読む平家物語 1 「平家物語の形成と真言圏」 麻原 美子著 有精堂出版
平家物語の成立 小林美和 著 和泉書院
平家物語の生成 軍記文学叢書5 汲古書院
日本文学研究大成 平家物語 Ⅰ
平家物語と方丈記 冨倉 徳次郎 駒澤國文 2, 1-9, 1963-06 駒澤大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007003395
平家礼賛 平家物語諸本紹介
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/zenshoudan/shohon.html
平家物語諸本のテキスト2010諸本の翻刻・影印一覧〔付〕索引・事典 荒山慶一
http://www.asa-kikaku.com/hk01b.htm
千載和歌集 佐竹昭広、片野達郎 松野陽一校注 新日本古典文学大系 岩波書店
文机談全注釈 岩佐美代子 笠間書院
使用テキスト
りぞうむ文学辞典 大福光寺本 方丈記(カタカナ、旧字体変換、濁点消去)
http://yatanavi.org/rhizome/index.php?%C2%E7%CA%A1%B8%F7%BB%FB%CB%DC%CA%FD%BE%E6%B5%AD#b8ee521a
青空文庫 方丈記 国文大鑑 日記草子部 明文社
http://www.aozora.gr.jp/cards/000196/card975.html
源平盛衰記(国民文庫)全巻
http://www.j-texts.com/sheet/seisuik.html
平家物語 新日本古典文学大系 岩波書店 高野本 (ひらがな、旧字体入力)
平家物語(流布本 元和九年本)
http://www.st.rim.or.jp/~success/heike_index.html
日本古典文学摘集 平家物語 嵯峨本系 下村時房刊本
http://www.koten.net/heike/
平家物語 百二十句本(国会本)・全巻(平家物語 校注者 水原一 新潮日本古典集成)
http://www.j-texts.com/sheet/120kall.html
平松家旧蔵本平家物語 古典刊行会 京都大学附属図書館蔵影印 (原文からテキスト化。送りがなは半角字とした)
平家物語 巻第12 熱田本 前田家育徳財団 (原文からテキスト化。送りがなは半角字とした)
平家物語 長門本
http://www.j-texts.com/heike/nagato/hnkall.html
八坂系・城方本(国民文庫『平家物語』参照)
http://www.j-texts.com/heike/yasaka/hyznb.html
延慶本平家物語 総ひらがな版
http://www.j-texts.com/sheet/heikehe.html
源平闘諍録』読み下し 漢字仮名交じり版
http://www.j-texts.com/chusei/gun/tojoyznb.html
新編日本古典文学全集 十訓抄 校注/訳 浅見和彦 小学館
日本文学研究大成 平家物語 Ⅰ 四部合戦状本平家物語巻四 野村精一
方丈記全注釈 簗瀬 一雄 日本古典評釈・全注釈叢書
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