1 はじめに
鴨長明の方丈記では、大原に遁世した後、日野に方丈の庵を移し、そこで方丈記を記したと書いてある。
※ 前田家本方丈記(前田家本)では、「ひえのやまのおくに」としている。
河合社 方丈の庵の復元
日野には、外山方丈石というものがあり、明和九年(1772年)に巌垣彦明が方丈の庵があったとして標石を設置している。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/da/bbaa31d88be2c08ce5a1c955c8b90883.jpg)
日野に行く機会があり、標石のあった場所では方丈記の記載から有り得ないことから、その長明の方丈の庵の場所を推定することとした。
2 方丈記記載の地名
方丈記(大福光寺本)において、場所を示す言葉として、「日野山の奥に」、「南に筧あり」、「名を外山といふ」、「谷繁ければ西晴れたり」、「朝には岡の屋に行き交う舩を眺めて」、「又麓に一つの柴の庵あり。即ちこの山守が居る所なり。かしこに小童あり。時々来たりて相訪ふ。もしつれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳」、「そわの田居にいたりて」、「峰によじ登りて、遙かに故郷の空をのぞみ、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る」、「これより峰続き、炭山を越え、笠取をすぎて、或は石間にまうで、或は石山を拝む」、「草の蛍」、「遠く槙の島の篝火に紛ひ」がある。
それを一つ一つ分析する。
方丈記大福光寺本 抜粋(句読点を挿入)
イマ
日野山ノヲクニアトヲカクシテノチ、東ニ三尺余ノヒ
サシヲサシテ、シハヲリクフルヨスカトス。南タケノスノコヲシキ、
ソノ西ニアカタナヲツクリ、北ニヨセテ障子ヲヘタテゝ、
阿弥陀ノ絵像ヲ安置シ、ソハニ普賢ヲカキ、マヘニ
法花経ヲゝケリ。東ノキハニワラヒノホトロヲシキテ、
ヨルノユカトス。西南ニ竹ノツリタナヲカマヘテ、クロキカハコ
三合ヲゝケリ。スナハチ和歌、竿弦、往生要集コトキ
ノ抄物ヲイレタリ。カタハラニ琴琵琶ヲノ/\一張ヲ
タツ。イハユルヲリ琴、ツキヒワコレ也。カリノイホリノアリ
ヤウカクノ事シ。ソノ所ノサマヲイハゝ、南ニカケヒアリ。
イワヲタテゝ水ヲタメタリ。林ノ木チカケレハツマ木ヲ
ヒロウニトモシカラス。名ヲヽトハ山トイフ。マサキノカツラ
アトウツメリ。谷シケヽレハ西ハレタリ。
アシタニハ、ヲカノヤニユキカフ
舩ヲナカメテ、滿沙弥カ風情ヲヌスミモシカツラノ
カセハヲナラスユフヘニハ尋陽ノエヲゝモヒヤリテ
源都督ノヲコナヒヲナラフ
又フモトニ一ノシハノイホリアリ。スナハチ
コノ山モリカヲル所也カシコニコワラハアリトキトキキタリ
テアヒトフラフ若ツレツレナル時ハコレヲトモトシテ遊行
スカレハ十歳コレハ六十ソノヨハヒコトノホカナレト心ヲ
ナクサムルコトコレヲナシ或ハツハナヲヌキイハナシヲトリ
ヌカコヲモリセリヲツム或ハスソワノ田イニイタリテ、
ヲチホヲヒロヒテホクミヲツクル。若ウラゝカナレハ、
ミネニヨチノホリテ、ハルカニフルサトノソラヲノソ
ミ、コハタ山、フシミノサト、鳥羽、ハツカシヲミル。勝地ハ
ヌシナケレハ、心ヲナクサムルニサハリナシ。アユミワツラヒ
ナク心トヲクイタルトキハ、コレヨリミ子ツゝキ、スミ山ヲ
コエ、カサトリヲスキテ、或ハ石間ニマウテ、或ハ石山ヲ
ヲカム。若ハ又アハツノハラヲワケツゝ、セミウタノヲキナ
カアトヲトフラヒ、タナカミ河ヲワタリテ、サルマロマウチ
キミカハカヲタツヌ。
若夜シツカナレハ、マト
ノ月ニ故人ヲシノヒ、サルノコヱニソテヲウルホス、クサ
ムラノホタルハ、トヲクマキノカゝリヒニマカヒ、アカ月ノ
アメハ、ヲノツカラコノハフクアラシニニタリ。
于時建暦ノフタトセヤヨヒノツコモリコロ、桑門ノ
蓮胤トヤマノイホリニシテコレヲシルス