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Channel: 新古今和歌集の部屋
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方丈記 日野の方丈の庵跡の推定について その2

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(1) 日野山の奥に
 日野は、日野家初代藤原真夏以来、代々日野家の荘園として、弘仁十三年(822年)に法界寺を建立し、永承六年(1061年)資業は薬師堂を建てた。
 日野山は、簗瀬一雄博士によると、「『日野山』は、今京都市伏見区に編入されている日野の山であろ。『日野山』という山はなく、第三十章に『名を外山という』点からも、法界寺の裏山にあたる山を、こう言ったものと思われる。」としている。
 その日野山は、麓から約1,200mで標高373mとかなり急斜面の山である。

日野法界寺

(2) 名を外山といふ
 大福光寺本は、「名を音羽山」としており、佐竹 昭広博士は新体系でこれを支持し、「しかし、元来、音羽山は、牛尾山に限らず、北は比叡山から南は宇治山に及ぶ大山系の総称だったと思われる。」としている。しかし、他異本が「とやま」としていることから、他の解説書では、大福光寺本の誤写として、校異している。

※ 前田家本方丈記(前田家本)では、「ひえのやまのおくに」としている。

 長明は、ほとんど平安京を離れたことが無く、また読者を京都周辺の僧侶などと思われることから、日野山と当初に書き、その後わざわざ大山系の名称を記載する意味がなく、比叡山から宇治山までの約20kmを一つの名称で括る必要もない。
 簗瀬博士によると、長明の死を記録した禅寂(俗名日野長親)について、「長明の場合は、彼が没する前に『月講式』の作成を依頼した禅寂が大原如蓮上人と呼ばれ」とし、「この大原如連坊禅寂および、その甥に当たる光遍については、新しい国史大系本の『尊卑分脈』が、次の如く「源空上人弟子 外山建立」と光遍には、「外山院主」とするのである。」と『外山』という名称が出てきて、出家後の長明と大原、外山との関連を指摘している。
 外山は、大辞林によると「はずれの山。端の山。山の中心部(奥山・深山(みやま))に対して,その周辺,特に人里に近い部分をいう。はやま。」とある。
 日野山には、里に近い標高212mの小山がある。この山の周辺を外山とした固有地名として、「名を外山」と記したとすべきと考える。
 また、御蔵山を指すことも考えられる。しかし、日野からやや離れており、木幡や石田と記すであろう。
 今は住宅地となっている平尾台は、以前は、標高129mの平尾山で、現在は山と言うより岡である。これを外山と言った可能性もある。
 更に、天下峰(標高345m)が醍醐山系の外れの山とも言えるが、流石に日野からは遠くなる。
 最後に、日野に隣接する町名に「醍醐外山街道町」とあり、外山の名称が見える。角川日本地名大辞典の醍醐外山街道町の項によると、
「もとは醍醐村字外山街道。町名は北山林谷寺北川頬の各町地域に及ぶ醍醐山の端山、すなわち外山を指して称したことに由来する。外山街道町は、日野中納言の山荘から小野の古道に出てさらに石田、六地蔵に至る街道筋に当っている。(新市域各町誌)」
としており、平家物語関連では、壇ノ浦で捕らえられ、鎌倉に護送され、もどされ南都衆徒に斬首にされた平重衡の塚がある。遺体と首を妻が集め、荼毘に付して墓としたと平家物語では語られている。
 外山とは日野山の外山ではなく、醍醐山の外山ということになるが、そちらの外山に住まいしたかもしれない。

(3) 谷繁ければ西晴れたり
 まず、庵の場所は、谷間に無ければならない。また木々が繁っていて視界が妨げられるが、西の方は視界が開けていた。西方浄土への憧れは、阿弥陀仏の絵像を掲げており、往生要集を所持していたことから、西日が沈むのを眺めるのは、日課となっていたのではないだろうか。
 南に筧ありとあることから、南には小川が流れていることになる。現在日野山から7本以上小川が流れており、長坂峠から流れる小川と合流して、山科川に流れ込む。

(4) 朝には岡の屋に行き交う舩を眺めて
 「朝には岡の屋に行き交う船を眺めて、満沙弥が風情を盗み」の満沙弥が風情とは、奈良時代の沙弥満誓の「世の中を何に喩へむ朝朗け漕ぎ行く舟の跡の白波(拾遺集哀傷)」を踏まえている。
 岡の屋は、風巻景次郎博士は、宇治市の黄檗の宇治川東岸と山家集の大系で述べ、簗瀬博士も方丈記全注釈の付図で図示している。しかし、西行の歌に
伏見過ぎぬ岡の屋になほ止まらじ日野まで行きて駒試みん(山家集 下雑1438)
とあり、黄檗辺りでは、鳥羽、伏見と来て日野への道からは少し離れてしまう。この西行歌のコースから、岡の屋は山科川の六地蔵駅の南、昔は宇治川の中州となっている辺りと推察される。現在も宇治川の流域跡は木幡池になっている。
 また、その中州の一つが、「遠く槇の島の篝火に紛ひ」(前田家本)の槇島である。宇治川西岸には、現在も槇島の地名が残っている。しかし、豊臣秀吉が、伏見城と大阪を結ぶ為に槇島土塁を築いて、直接宇治川が伏見を通るようにした為、若干鎌倉時代とは中州の様子が変わっている。
 ホタルと漁り火については、伊勢物語の在原業平の歌
 はるゝ夜の星か河邊の螢かもわが住むかたの海人のたく火か
 を意識したと思われる。
 また、拾玉集
 宇治川の瀬々の網代に鵜飼舟哀れとや見る槇の島人
から槇島を選んだかと思われる。
 この二つの宇治川の歌枕の地は、「朝には」と「草蛍」から、方丈の庵から朝に見え、夜、蛍の光と共に見えたことになる。

明治天皇陵

(5) これを友として遊行す
 近くに山守の小屋があり、10歳の子供が長明とよく遊び、あっちこっちを歩き回ったとある。山守は、山の番人であり、猪や鹿などの鳥獣から農産物を守ったり、柴を取ったり、木を切ったり、狩りをして生活していたものと推察される。現在も山と里との間には、フェンスが張られ、鳥獣が入ってこれないようにしていた。
 里から少し離れていることから、近所に同年齢の子供はなく、自然と長明と親しくなったのであろう。10歳の子供の行動範囲は狭く、同年齢の子供の所へは遊びに行けないほど里と山守の家と距離があったとも言える。

(6) 峰によじ登りて、遙かに故郷の空をのぞみ、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る
 長明は、10歳の子どもと共に、山に登って、故郷の空を眺めてみると、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師が見えたとある。
 木幡山は、今の伏見山であり、これは日野からであればどこでも見られる。しかし、伏見山の向こうの伏見の里になると伏見山が遮蔽するためにある程度高い場所でないと見られない。鳥羽は鴨川東岸に離宮があった。東岸はかなりの湿地帯で、周りは池であった。羽束師は、桂川の西岸で、羽束師の森としている。ともに歌枕の地である。
 しかし、ここで問題となるのは、これらの地が、平安京の外なのに故郷の空を眺めたとしているのであろうか?実際には日野からは、稲荷山が遮蔽して平安京は見ることができなかったと推察される。

 また、歌枕では、前述の宇治川の南には、広大な巨椋池があった。先ず表記されても可笑しくない。
 これを地図に落としてみると、15度の角度でとても狭い地域を表現している。つまり、周りの木立に隠れて狭い地域しか見えなかったということが推察される。
 理由は分からないが、鳥羽を記して、鴨川を記していない。下鴨神社関係者である鴨長明に取って、下流とは言え、故郷の川とも言うべきものである。河合社の禰宜に成れなかったという出家の原因があえてそれを記さなかったと解したい。
(参考)
木幡
山科の木幡の里に馬はあれど徒よりぞ来る君を思へば 拾遺集 柿本人麻呂
伏見の里
名にたちて伏見の里といふ事は紅葉を床に敷けはなりけり 後撰集 読み人知らず
羽束師の森
忘られて思ふ嘆きのしけるをや身を羽束師の杜といふらん 後撰集 読み人知らず

(7) これより峰続き、炭山を越え、笠取をすぎて、或は石間にまうで、或は石山を拝む
 60歳を過ぎた長明にとって、峠を越えて、炭山、笠取、石間、石山を行き、逢坂の関や猿丸大夫の墓へ行く20kmの山道はかなりきつい。
 炭山は、供水峠を越えた谷間の里。笠取は、その次の笠取山。岩間は、岩間山正法寺で通称岩間寺。石山は天平19年良弁僧正によって開基した如意輪観音を本尊とする石山寺。枕草子、蜻蛉日記にも登場し、紫式部が源氏物語の着想を得たと伝えられ、和泉式部日記、更級日記にも登場するほど、平安時代から女人に信奉された。
 蝉歌の翁が跡は、蝉丸が住居した逢坂の関で、無名抄にも「逢坂の關の明神と申すは、昔の蝉丸なり。彼の藁屋の跡を失わずして、そこに神となりてすみ給ふなるべし。今も打過ぐる便りに見れば、深草の帝の御時、御使にて和琴習ひに良岑の宗貞、良少將とて通はれけんほどの事まで面影に浮かびて、いみじここそ侍れ。」とあり、無名抄執筆以前に訪れている。琵琶の秘曲、流泉・啄木を伝えたとされ、琵琶の名手である長明としては何度も訪れたとしても可笑しくない。
 直接は関係がないが、猿丸大夫の墓は、無名抄では、「或人云、田上の下に曾束といふ所あり。そこに猿丸大夫が墓有り。庄の境にて、そこの券に書き載せたれば、皆人知れり。」とある。曾束は、瀬田川の西岸にあり、ちょうど岩間の対岸辺りである。田上川は、信楽から流れる今の大戸川。しかし全集は、増補大日本地名辞典を引用して、大戸川を田上川としつつも、瀬田川を大戸川合流下流を田上川と図示している。両地域は約行程で10kmとなる。ましてや猿丸神社ともなると更に3km山道を行かないといけない。

(8) 草の蛍
 宇治の蛍は、源三位頼政が宇治で平家に討たれ、魂となって飛び交うため、ゲンジボタルの名称が付いたと言われるほど蛍が多かったと推察される。
 ホタルは、東京ゲンジボタル研究所のゲンジボタル生息環境によると、「ホタル=きれいな水というイメージをお持ちの方はとても多いでしょう。これは先入観による思い込みで、実際は、「水、清くして魚住まず」というように、深い山間の渓流源流部で水がとてもきれいな場所には、ホタルは生息していません。それよりも、低山地の河川や山間のたんぼの脇の小川などに生息していることが多いです。このような場所は、いわゆる「里山」と呼ばれる場所で、私たちの身近な環境です。里山とは、どのような特徴を持っているのでしょうか。里山には、標高200mほどの丘陵の列が幾筋も延びていて、その間の平地には水田地帯が広がり、中小の河川が流れ、丘陵のすそには湧き水などの力でできた狭い谷が数多く存在します。このような丘陵と水田が複雑に入り組んでいる地形が1つの特徴です。また、これらの地形は、「谷戸」あるいは「谷津」と呼ばれており、そこに作られている水田を「谷戸田」または「谷津田」といいます。」とあり、幼虫期にカワニナを食して成長するため、ゲンジボタルは山間部の急流には住まず、ある程度流れが緩やかな渓谷の淀んだ場所に棲息するとしている。また、ヘイケボタルは更に流れの少ない場所に棲息する。これらの条件を見ると、日野は現在は住宅地が広がっているが、ホタルの棲息には打って付けの地形とも言える。
 つまり、現時点の方丈の庵跡とされる日野山の中腹の方丈石ではホタルは見ることが出来ないと言える。
 「そわの田居にいたりて」ということで、山間地ではあるが、山裾に水が豊富な土地柄でもあり、水田も多くあって、ホタルの生育しやすい環境である。

日野の看板


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