(1)八坂神社
八坂神社の創祀については、様々の説が有る。
祇園社の家建内家の「八坂郷鎮座大神之記」によると、「斉明天皇二年(六五六)八月、朝鮮半島より来朝した調進使伊利之使主が新羅国牛頭山に鎮座する須佐之雄尊の御魂をもたらして祀り、天智天皇六年に社号を感神院と定めたとする。」(六八九頁)
ところが、「祇園社家条々記録」では「当社草創根元者、貞観十八年、南都円如上人始建立之、是最初本願主也。別記云、貞観十八年南都円如建立堂宇、奉安置薬師千手等像、則今年夏六月十四日、天神東山之麓、祇園林令垂跡御座」(同頁)とも有る。
広峯神社から牛頭天王分霊をお載せした御神輿を運ぶ時に、神戸で宿泊した跡が、神戸市平野祇園神社であり、平家から崇拝された。途中での遺跡もあることから、広峯神社から招聘されたと思う。
又、「二十二社註式」には、「牛頭天皇、初垂跡於播磨明石浦移広峰、其後移北白河東光寺。其後人皇五十六代陽成院、元慶年中移感神院」とある。元々姫路の廣峯社の牛頭天王を京都の北白河(現在の京都芸術大学付近)に招聘し、元慶年間(八七七~八八五年)に今の八坂神社の地に遷座したとしている。
南都の僧が草創したと言う事により興福寺の末寺であったが、清水寺との抗争の結果、比叡山の末寺となった。
この事は、今昔物語巻三十一 祇園成比叡山末寺語第二十四に語り継がれている。
主祭神は牛頭天王 (ごずてんのう)、八王子 、頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)である。
かなり早い時期に、須佐之男命と習合され、神仏分離した明治以降は須佐之男命が主神とされた。
牛頭天王は、祇園精舎を守る神とされているが、仏典に登場する事は無い。
現代人には、理解出来ないが、牛頭天王は行疫神、所謂疫病神である。
祇園社は、二十二社に選ばれている程格式が高いが、八代勅撰集に歌が有るかと言うと一首しかない。
後拾遺和歌集
同(後三条)御時祇園に行幸侍りけるに東遊にうたふべき歌召し侍りければよめる
藤原経衡
ちはやぶる神の園なる姫小松よろづ代をふべきはじめなりけり
これは、延久4年(1072年)3月24日に後三条天皇が行幸した時の歌であり、二十二社の中では異質とも言うべき少なさである。
同じ鴨川の上流の賀茂社は、数えるのが大変な程有る。
更に上流の貴船社には有名な後拾遺集雑歌六
男に忘れられて侍りける頃貴船にまゐりて御手洗川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる
和泉式部
もの思へは沢のほたるを我が身わよりあくがれいづるたまかとぞみる
他五首が有る。
鴨川下流の稲荷社では、拾遺集雑恋歌に
いなりにまうてあひて侍りける女のものいひかけ侍りけれといらへもし侍らさりけれは
平定文
いなり山社のかずを人とはばつれなき人をみつとこたへむ
など八首有る。
これは、祇園社の神が和歌を好まないかも知れない。
祇園会に至っては、夫木和歌抄に一首のみである。
夫木和歌抄巻第三十四 雑部十六
祇園 山城
文永八年毎日百首 民部卿為家
かさにさすやまどりの尾のながき日に神のそのとぞ今日まつるらん
しかし、古今集仮名序によれば最初の短歌は、
やくも立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を
と須佐之男命の歌としており、和歌の神でも有る。
庶民の今様を集めた梁塵秘抄には、
祇園精舎の後には、よも/\知られぬ杉立てり。昔より、山の根なれば生ひたるか杉、神の標と見せむとて
とある。
これは、朝廷より奉幣を受ける貴族の信仰と言うより、庶民信仰が強い平安鎌倉時代の信仰の形態を表しているのでは無いだろうか。
(2)伏見稲荷大社
伏見稲荷大社は、奈良時代の和銅年間に創建されたと有るが、秦氏の氏神としてそれ以前から信仰されて来たと言われる。
稲荷神自体は、稲荷山全体であり、山岳信仰の一種と言える。
御神体は、宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、明応8年(1499年)に本殿に合祀された田中大神、四大神の五柱の神となっている。
一方幸稲荷神社の御祭神は、豊受姫命、猿田彦命、天宇受女命の三柱であり、伏見稲荷大社とは全く異なっている。皮投岳の山麓に鎮座している事から、皮投岳自体の地元神と伊勢からの信仰が合祀されたとも考えられる。。
豊受姫命は、伊勢神宮外宮に祭られている神で、食を司る神である。いつしか稲荷信仰と同一化された。
外宮が、幸稲荷神社であるなら、内宮もあるはずである。花輪囃子のもう一方の神社である六日町の台地下に天照大御神を祭る神明神社がそれに該当すると考えて良い。
谷地田町の御旅所に8月16日神輿渡御されて、内宮外宮が並ぶ事となる。
これを言祝ぎ、慰撫するのが花輪囃子である。