源氏物語 玉鬘
その夜、やがて大臣の君渡り給へり。昔、光る源氏などいふ御名は、聞き渡り奉りしかど、年比の初々しさに、さしも思ひ聞こえざりけるを、仄かなる大殿油に、御几帳のほころびよりはつかに見奉る、いとゞ恐ろしくさへぞ覚ゆるや。渡り給ふ方の戸を、右近かい放てば、
「この戸口に入るべき人は、心殊にこそ」と笑ひ給ひて、廂なる御座についゐ給ひて、
「燈こそ、いと懸想びたる心地すれ。親の顔はゆかしきものとこそ聞け。さも思さぬか」とて、几帳すこし押しやり給ふ。わりなく恥づかしければ、そばみておはする樣体など、いとめやすく見ゆれば、うれしくて、
「今すこし、光見せむや。あまり心難し」と宣へば、右近、掲げて少し寄す。
「おもなの人や」と少し笑ひ給ふ。
げにと覚ゆる御まみの恥づかしげさなり。いささかも異人と隔てある樣にも宣ひなさず、いみじく親めきて、
「年ごろ御行方を知らで、心にかけぬ隙なく嘆きはべるを、かうて見奉るにつけても、夢の心地して、過ぎにし方の事共取り添へ、忍び難きに、えなむ聞こえられざりける」とて、御目おし拭ひ給ふ。真に悲しう思し出でらる。御年のほど、数へ給ひて、
「親子の仲の、かく年経たる類あらじものを。契りつらくもありけるかな。今は、もの初々しく、若び給ふべき御程にもあらじを、年比の御物語など聞こえまほしきに、などかおぼつかなくは」と恨み給ふに、聞こえむこともなく、恥づかしければ、
「足立たず沈みそめ侍りにけるのち、何ごともあるかなきかになむ」と、仄かに聞こえ給ふ声ぞ、昔人にいとよく覚えて若びたりける。ほほ笑みて、
「沈み給ひけるを、あはれとも、今は、また誰れかは」とて、心ばへ言ふ甲斐無くはあらぬ御応へとおぼす。右近に、あるべき事宣はせて、渡り給ぬ。
源氏 右近 御簾 玉鬘 土佐光成 (正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年)) 江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。 土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。 画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。 27cm×44.5cm 令和5年11月5日 九點貳伍/肆
「年ごろ御行方を知らで、心にかけぬ隙なく嘆きはべるを、かうて見奉るにつけても、夢の心地して、過ぎにし方の事共取り添へ、忍び難きに、えなむ聞こえられざりける」とて、御目おし拭ひ給ふ。真に悲しう思し出でらる。御年のほど、数へ給ひて、
「親子の仲の、かく年経たる類あらじものを。契りつらくもありけるかな。今は、もの初々しく、若び給ふべき御程にもあらじを、年比の御物語など聞こえまほしきに、などかおぼつかなくは」と恨み給ふに、聞こえむこともなく、恥づかしければ、
「足立たず沈みそめ侍りにけるのち、何ごともあるかなきかになむ」と、仄かに聞こえ給ふ声ぞ、昔人にいとよく覚えて若びたりける。ほほ笑みて、
「沈み給ひけるを、あはれとも、今は、また誰れかは」とて、心ばへ言ふ甲斐無くはあらぬ御応へとおぼす。右近に、あるべき事宣はせて、渡り給ぬ。
源氏 右近 御簾 玉鬘 土佐光成 (正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年)) 江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。 土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。 画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。 27cm×44.5cm 令和5年11月5日 九點貳伍/肆