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平家物語巻第十二 六 六代の事1

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              六 六代の事 去程に、北でうの四ら時政は、かまくら殿の御代官に、都の 守ごして候はれけるが、平家の子そんといはん人、なんしに をゐては、一人ももらさず、尋出したらんともがらには、所もう はこふによるべしと、ひろうせらる。京中の上下、あん内は 知たりけんしやうかうぶらんとて、たづねもとむるこそう たてけれ。かゝりしかば、いくらもたづね出されたり下らう の子なれ共、色しろうみめよきをはあればなんの中将殿  わかぎみ の若君、かの少将殿の君たちなどいふ間、父母なげきかな しめ共、あれはめのとが申候。これはかいしやくの女ばらがなんど 申て、無下におさなき人をば、水に入土にうづみ、すこしおと なしきをば、おしころしさしころす。母のかなしみめのとが なげき、たとへんかたぞなかりける。北でうも子そんさすが ひろければ是をいみじとはおもはねども、よにしたがふな らひなればちからおよばず。中にも小松の三位の中将             わかぎみ これもりの卿の若君、六代御前とて、年もすこしおとなし うまします。其うへ平家の、ちやく/\にておはしけれ ば、いかにもして取奉て、失はんとて、手をわけて尋けれ共                                     ところ もとめかねて、すでにむなしうくだらんとしける処に、あ る女房の、六はらに参て、申しけるは、是より北にへんぜう しのおく、大かく寺と申山寺の北、しやうぶ谷と申所に                                              ひめ こそ、小松の三位の中将、これもりの卿の北のかた若君姫 君、しのぶでましますなれといひければ、北でうこれしき 事をも聞ぬと思ひ、かしこへ人をつかはして、其邊をうかゞ 平家物語巻第十二
  六 六代の事 去る程に、北条の四郞時政は、鎌倉殿の御代官に、都の守護して候はれけるが、平家の子孫といはん人、なしにをゐては、一人も漏らさず、尋ね出だしたらん輩には、所望は請ふに依るべしと、披露せらる。京中の上下、案内は知たり勧賞(けんしやう)蒙(かうぶ)らんとて、尋ね求むるこそ、うたてけれ。 かかりしかば、いくらも尋ね出だされたり下臈の子なれども、色白う見目良きをば、あればなんの中将殿の若君、かの少将殿の君達などいふ間、父母嘆き悲しめども、あれは乳母が申し候、これは介錯の女腹がなんど申して、無下に幼き人をば、水に入れ、土に埋み、少し大人しきをば、押し殺し刺し殺す。母の悲しみ乳母が嘆き、たとへん方ぞ無なかりける。 北条も子孫さすがひろければ、これをいみじとは思はねども、世に従ふ倣ひなれば力及ばず。 中にも、小松の三位の中将維盛の卿の若君、六代御前とて、年も少し大人しうまします。その上、平家の、嫡々にて御座しければ、いかにもして取り奉て、失はんとて、手を分けて尋ねけれども、求めかねて、既に空しう下らんとしける処に、ある女房の、六波羅に参りて、申しけるは、 「これより北に、遍昭寺の奧、大覚寺と申す山寺の北、菖蒲谷と申す所にこそ、小松の三位の中将、維盛の卿の北の方、若君、姫君、忍ぶでましますなれ」と言ひければ、北条、「これしき事をも聞ぬ」と思ひ、かしこへ人を遣はして、その辺を窺

介錯 付き添って世話をすること。また、その人。後見。介添え。

※小松の三位の中将維盛の卿の若君、六代御前 平高清 平 六代 、承安3年(1173年?)- 没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての平家一門、僧侶。父は平維盛。平清盛の曾孫にあたる。

※維盛の卿の北の方 建春門院新大納言。藤原成親の娘。母は藤原俊成の長女・京極局。平維盛の正室。のち吉田経房妻。子に六代(高清)、女子(藤原実宣妻、のち平親国妻)。

※遍照寺 京都の広沢の池の北西にあった寺。

大覚寺 京都の嵯峨大沢町にあり、嵯峨天皇の離宮の跡地に建てられた寺院。大沢の池で有名。

菖蒲谷 大覚寺の奥。


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