禅林寺永観律師事
永観律師と云人ありけり。年來念佛の志深く名
利を思はず世捨たるが如くなりけれど、さすがに哀れに
もつかまつりししる人をわすれざりければ、殊更深山を
求る事もなかりけり。東山禅林寺と云處に籠居
しつゝ、人に物をかしてなむ日をおくるばかり事にしける。
かる時も返す時も唯きたる人の心にまかせて沙汰
しければ、中々佛の物をとて聊も不法の事はせざ
りけり。いたくまづしき物の返さぬをば、前によびよせて
物の程に随て念佛を申させてぞあがはせける。東大
寺別當のあきたりけるに、白河院此人を成給ふ。聞
人耳を驚して、よもうけとらじと云程に思はすにいな
ひ申す事なかりけり。其時年來の弟子つかはれし人
なむど我も/\とあらそひて東大寺の荘園を望に
けれども、一所も人のかへりみにもせずして、皆寺の修理
の用途によせらりたりける。自ら本寺に行向時には、こと
やうなる馬に乗て彼こにゐるべき程の時料小法師に
持せてぞ入ける。かうしつゝ三年の内に修理事をわりて、
即辞し申す。君又とかくの仰せたるしわざの樣也ければ時の
人は寺の破れたる事を此人ならでは心やすく沙汰
すべき人も無と覚し召て仰付けるを、律師も心得給
たりけるなむめりとぞ云ける。深く罪を恐ける故に年
來寺の事をこなひけれど、寺物を露ばかりも自用の
事なくてやみにけり。此禅林寺に梅の木あり。實なる
比に成ぬれば、此をあだに散らさず。年ごとに取て薬王
寺と云處にをほかる病人に日々と云ばかりに施せ
られければ、あたりの人此木を悲田梅とぞ名たりける。
今も事外に古木になりて華もわづかにさき木立も
かじけつゝ昔の形見にのこりて侍べるとぞ。或時彼堂
に客人のまうで來たりけるに、算をいくらともなくをき
ひろげて、人には目もヱかなざりければ、客人の思樣律
師は出挙をして命つぐばかりを事にし給へりと聞にあは
せて其利の程数へ給ふにこそと見居る程にをきは
てゝ取をさめて對面せらる。其算をき給ひつるは何の
御用ぞと問ければ、年來申あつめたる念佛の数の覚束
なくてとぞ答へられける。さまで驚くべき事ならねど、主
あらに貴く覚し。後の人のかたりけるなり。
※禅林寺 浄土宗西山禅林寺派の総本山の寺院。山号は聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)。本尊は阿弥陀如来(みかえり阿弥陀)。通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。
※永観 (ようかん/えいかん 長元六年(1033年)-天永二年(1111年))。平安時代後期の三論宗の僧。実父は文章生源国経で、石清水八幡宮別当元命の養子となる。禅林寺の7世住持であり、中興の祖とされる。禅林寺の通称である「永観堂」は永観にちなむものである。