卷第八 山門御幸
高倉院の皇子は、主上の外三所ましましき。二宮をば儲君にし奉らむとて、平家いざなひ參らせて、西国へ落ち給ひぬ。三四は都にましましけり。
同八月五日、法皇この宮たちをむかへ寄らせ參らせ給ひて、まづ三の宮の五歳にならせ給ふを
是へ/\
と仰せければ、法皇を見參らッさせ給ひて、大きにむつからせ給ふあひだ、
とう/\
とて出し參らッさせ給ひぬ。
其後四の宮の四歳にならせ給ふを
是へ
と仰せれけば、すこしもはばからせ給はず、やがて法皇の御膝のうへに參らせ給ひて、よにもなつかしげにてぞましましける。法皇御涙をはら/\とながさせ給ひて、
げにもすぞろならむ者は、かやうの老法師を見て、なにとてかなつかしげには思ふべき。是ぞ我がまことの孫にてましましける。故院のをさなおひに、すこしもたがはせ給はぬ物かな。かかる忘れがたみを今まで見ざりける事よ
とて、御涙せきあへさせ給はず。
浄土寺の二位殿、そのときはいまだ丹後殿とて御前に候はせ給ふが、
さて御ゆづりは、此宮にてこそわたらせおはしましさぶらはめ
と申させ給へば、法皇、
子細にや
とぞ仰せける。内々御占ありしにも、
四の宮位につかせ給ひては、百王まで日本國の御ぬしたるべし
とぞかんがへ申しける。
御母儀は七條修理大夫信隆卿の御娘なり。建礼門院のいまだ中宮にてましましける時、その御方に宮づかひ給ひしを、主上常は召されける程に、うちつづき宮あまたいできさせ給へり。信隆卿、御娘あまたおはしければ、いかにもして女御、后にもなし奉らばやねがはれけるに、人の白い鶏を千かうつれば、其家に必ず后いできたるといふ事ありとて、鶏の白いを千そろへてかはれたりける故にや。此御娘、皇子あまたうみ參らせ給へり。信隆卿内々うれしうは思はれけれども、平家にもはばかり、中宮にもおそれ參らせて、もてなし奉る事もおはせざりしを、入道相國の北の方、八條の二位殿、
苦しかるまじ。われそだて參らせて、まうけの君にし奉らむ
とて、御めのとどもあまたつけて、そだて參らせ給ひけり。
中にも四の宮は、二位殿のせうと、法勝寺執行能圓法印のやしなひ君にてぞましましける。法印平家に具せらえて、西國に落ちし時、あまりにあわてさわいで、北の方をも宮も京都にすておき參らせて下られたりしが、西國よりいそぎ人をのぼせて、
女房、宮具し參らせて、とく/\くだり給ふべし
と申されたりければ、北の方なのめならず悦び、宮いざなひ參らせて、西七條なる所まで出でられたりしを、女房のせうと紀伊守範光
是は物のついてくる給ふか、此の宮の御運は只今開けさせ給はんずる物を
とて、とりとどめ參りたりける。何事もしかるべき事と申しながら、四の宮の御ためには、紀伊守範光奉公の人ぞ見えたりける。されど四の宮位につかせ給ひて後、そのなさけをもおぼしめしいでさせ給はず、朝恩もなくして歳月をおくりけるが、せめての思のあまりにや、二首の歌をようで、禁中に落書をぞしたりける。
一聲は思ひ出でなばほととぎすおいその森の夜半のむかしを(三 夏歌 民部卿範光)
籠のうちもなほうらやまし山がらの身のほどかくすゆふがほの宿 ※寂蓮
主上是を叡覽あッて
あなむざん、さればいまだ世にながらへてありけるかな。今日までこれをおぼしめしよらざりけるこそおろかなれ
とて、朝恩かうぶり、正三位に叙せられけるとぞきこえし。