第新古今和歌集 巻第五 秋歌下
擣衣のこころを 藤原雅經
みよし野の
山の秋風さ
夜
ふけて
ふるさと
寒く
ころもうつなり
読み:みよしののやまのあきかぜさよふけてふるさとさむくころもうつなり 隠
意味:吉野山の秋風が夜が更けてから吹き、古い都に寒々と砧の音が聞こえてきます。
作者:ふじわらのまさつね1170~1221飛鳥井家の祖。新古今和歌集の撰者。蹴鞠の名手として有名で飛鳥井流の祖。
備考:百人一首
写真 吉野川 小倉山歌碑
第新古今和歌集 巻第五 秋歌下
擣衣のこころを 藤原雅經
みよし野の
山の秋風さ
夜
ふけて
ふるさと
寒く
ころもうつなり
読み:みよしののやまのあきかぜさよふけてふるさとさむくころもうつなり 隠
意味:吉野山の秋風が夜が更けてから吹き、古い都に寒々と砧の音が聞こえてきます。
作者:ふじわらのまさつね1170~1221飛鳥井家の祖。新古今和歌集の撰者。蹴鞠の名手として有名で飛鳥井流の祖。
備考:百人一首
写真 吉野川 小倉山歌碑
新古今和歌集 巻第六 冬歌
冬の歌の中に 太上天皇
深
あらそひかねて
いか
ならむ
間なく
しぐれ
のふるの神杉
読み:ふかみどりあらそいかねていかならむまなくしぐれのふるのかみすぎ 隠
意味:常緑の杉も逆らいきれないで、いるのだろうか。時雨が年の暮になって葉の色を変えようと絶え間なく降ると、例え布留の古い神杉であっても。男からの誘いを断りきれなくなる女のように。
作者:後鳥羽天皇ごとば1180~1239譲位後三代院政をしく。承久の変により隠岐に流される。多芸多才で、新古今和歌集の院宣を発し、撰者に撰ばせた後更に撰ぶ。
備考:「布留」と「降る」と「古」、「時雨」と「し暮」の掛詞。582の人麿の本歌取り。 元久2年3月日吉社歌合
八代集抄、歌枕名寄、美濃の家づと、新古今注、九代抄、九代集抄、新古今和歌集抄出聞書(陽明文庫)
新古今和歌集 巻第十八 雜歌下
道 菅贈太政大臣
刈萱の
關守にのみ見えつるは
人も
ゆる
さぬ
道べ
なりけり
読み:かるかやのせきもりにのみみえつるはひともゆるさぬみちべなりけり 隠
意味:刈萱の関の関守だけ見えるものは、私が帰ることを許さない道辺だけだ
作者:菅原道真すがわらのみちざね845~903菅公、菅丞相と称される。右大臣。遣唐大使に任命されるも遣唐使を廃止。藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、大宰府で没した。漢詩、和歌、書をよくしたた。没後天満天神として祭られた。
備考:刈萱の関 福岡の太宰府の近くにあった関。出典未詳。八代集抄歌枕名寄
軒 端 梅
三番目物 本鬘物 作者不明
東国の僧が都の東北院を訪ね、咲いている梅を門前の男から和泉式部の梅と教えられ眺めていると女が現れ、由来を教え夕暮れに梅の花の蔭に消える。門前の男から和泉式部の供養を進め、夜に僧が法華経を読経すると和泉式部の霊が現れ、譬喩品の読経に感謝して、昔法華経の読経の声に魅かれて歌「門の外法の車の音聞けばわれも火宅を出でにける哉」と詠んだ功徳で菩薩になったと述べる。また和歌の徳や都の鬼門を守るこの寺を讃えながら舞を返して、恋多き昔を思い出し、式部の臥所であったという方丈に消え、僧も夢も覚める。
前ジテ:都の女 後ジテ:和泉式部霊 ワキ:旅僧 ワキヅレ:同伴僧
アイ:東北院門前の男
ワキ 年立ち返る春なれや、年立ち返る春なれや、花の都に急がん。
ワキ 是は東國方より出たる僧にて候、我いまだ都を見ず候程に、此春思ひ立ち都に上り候。
ワキ 春立つや、霞の關を今朝越て、霞の關を今朝越て、果はありけり武蔵野を、分暮しつつ跡遠き、山又山の雲を經て、都の空も近づくや、旅までのどけかる覽、旅までのどけかる覽。
同ワキ 急候程に都に着て候、又これなる梅を見候へば、今を盛と見えて候、如何樣名のなき事は候まじ、此あたりの人に尋ばやと思ひ候
果はありけり武蔵野を 巻第四 秋歌上 378 左衛門督通光
水無瀬にて十首歌奉りし時
武藏野や行けども秋のはてぞなきいかなる風か末に吹くらむ
写真は京都市誠心院の軒端の梅
新古今和歌集 巻第十 羇旅歌
東の方に罷りけるによみ侍りける
西行法師
年たけて
また越ゆべしと
思ひきや
いのちなりけり
さ夜のなか山
読み:としたけてまたこゆべしとおもいきやいのちなりけりさやのなかやま 隠
意味:若い頃この峠を越えた時、年をとってまた歌枕で有名な小夜の中山を越えることがあるだろうかと思ってもみなかったが、今また越えることができ、神仏の御蔭で、命が長らえているから、また出きることだな
作者:さいぎょう1118~1190俗名佐藤義清23歳で出家諸国を行脚。
備考: 歌枕 小夜の中山静岡県掛川市日坂峠 二度目の東北行脚の途中
歌枕名寄 定家十体 美濃の家づと 新古今和歌集抄出聞書(陽明文庫)
女 郎 花
四番目物 執心男物 作者不明
九州松浦の僧が岩清水八幡に参詣の為、男山の麓の野辺に来て、咲き乱れる草花の中で女郎花に心引かれて一本折ろうとしたところ、老人が現れ、女郎花にまつわる古歌を引いて話しているうちに老人の心も和み花を折る事を許し、岩清水八幡に案内する。老人の帰りがけに女郎花と男山の謂れを僧が問うと、男塚と女塚に案内し、自分はこの塚の小野頼風だと告げ、消える。土地の者に僧が聞くと、頼風の妻の亡霊が女郎花になった物語を語り、供養を勧める。深夜読経する僧の前に頼風夫婦が現れ、頼風は八幡山の人で、女は都の者だったが、女はしばらく訪れぬ夫を心変わりと恨み、放生川に身を投げた。頼風は亡骸を埋め塚から女郎花が生え、近づくと恨む風情でなびき退いたので、後を追って入水したと語り、今なお地獄で苦しんでいるので、回向を頼み消えていった。
シテ なふ/\其花な折給ひそ、華の色は蒸せる栗のごとし、俗呼ばって女郎とす、戯れに名を聞いてだに偕老を契るといへり、まいてやこれは男山の、名を得て咲ける女郎花の、多かる花に取分て、など情なく手折り給ふ、あら心なの旅人やな
ワキ 扨御身は如何なる人にてましませば、是程咲亂れたる女郎花をば惜み給ふぞ
シテ 惜しみ申こそ理りなれ、此野邊の花守にて候
ワキ 縦花守にてもましませ、御覽候へ出家の身なれば、佛に手向と思しめし一本御許し候へかし
シテ 實々出家の御身なれば、佛に手向と思ふべけれども、彼菅原の神木にも折らで手向よと、其外古き歌にも、折り取らば手ぶさに穢る立てながら、三世の佛に花奉るなどと候へば、殊更出家の御身こそ、なをしも惜しみ給ふべけれ
ワキ 左樣に古き歌をば引かば、何とて僧正遍昭は、名に愛でて折れる計ぞ女郎花とは詠み給ひけるぞ
シテ いやさればこそ我落ちにきと人に語るなと、深く忍ぶの摺衣の、女郎と契る草の枕を、ならべし迄は疑ひなければ、其御譬へを引給はゞ、出家の身にては御誤り。
ワキ か樣に聞けば戯れながら、色香に愛づる花心、とかく申に由ぞなき、暇申て歸るとて、もと來し道に行過ぐる
シテ あふやさしくも所の古歌をば知ろしめたり、女郎花憂しと見つつぞ行過る、男山にし立てりと思へば。
同 やさしの旅人や、花は主ある女郎華、由知る人の名に愛でて、許し申也、一もと折らせ給へや。
同 なまめき立てる女郎花、なまめき立てる女郎花、うしろめたくや思ふらん、女郎と書ける花の名に、誰偕老を契りけん、彼邯鄲の假枕、夢は五十のあはれ世の、例も誠なるべしや、例も誠なるべしや
菅原の神木にも折らで
第十九 神祇歌 1853 太宰府天満宮
この歌は建久二年の春の頃筑紫に罷りけるものの安樂寺の梅を折りて侍りける夜の夢に見えけるとなる
なさけなく折る人つらしわが宿のあるじ忘れぬ梅の立枝を
ワキ 一夜臥す、男鹿の角の塚の草、男鹿の角の塚の草、陰より見えし亡魂を、とぶらふ法の聲立てて
南無幽霊出離生死頓證菩提
男鹿の角の塚の
第十五 恋歌五 1375 柿本人麻呂
題知らず
夏草の露わけごろも着もせぬになどわが袖のかわくときなき
写真は
石清水八幡宮
源氏物語 梅枝 第二章五段
唐の紙のいとすくみたるに、草書きたまへるすぐれてめでたしと見たまふに、 高麗の紙の肌こまかに和うなつかしきが、色などははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手のうるはしう心とどめて書きたまへるたとふべきかたなし。
源氏物語 梅枝 第二章第七段
今日はまた、手のことどものたまひ暮らし、さまざまの継紙の本ども選り出でさせたまへるついでに、御子の侍従して宮にさぶらふ本ども取りに遣はす。嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継ぎて同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつついみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、
尽きせぬものかな。このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ
など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。
1 はじめに
新古今和歌集の切り出し歌が、平成25年10月2日鶴見大学図書館が購入した古筆手鑑の中から久保木 秀夫氏、中川 博夫氏によって発見されたニュースは、新古今を学ぶ者にとってとても興味深いことだったことから、直ぐに左端にある「題不知」のキーワードから部類を、「恋歌一の「たびたび返事せぬ女に 謙徳公」の後が有力」としたところである。(Yahoo!ブログに一度掲載後、引っ越しした。)
平成26年10月に両氏により本が出版され、その中に「さのみやは」断簡にはツレがあるとのことで、その内容から以前推察した結果を検証する。
なお、新古今の番号、詞書、歌等は、新古今和歌集 佐佐木信綱校訂 岩波文庫による。
ただし、(イ )は同ツレと岩波文庫本との差違で、【 】は断簡の欠落している部分、( )は詞書、詠者が前の歌と同じ場合省略されるものを便宜上入れたものである。
また、断簡のアルファベットは、同本による。
2 第十一 戀歌一 掲載歌
1019 (題しらず)
亭子院御歌
大空をわたる春日の影なれや
よそにのみしてのどけかるらむ 断簡A
1020 正月に雨降り風吹きける日女に
遣はしける
謙徳公
春風の吹くにもまさるなみだかな
わがみなかみも氷解くらし 断簡A
1021 たびたび返事せぬ女に
(謙徳公)
水の上に浮きたる鳥のあともなし(イく)
お【ぼ】つかなさを思ふ頃かな 断簡A
→さのみやはの推定個所
1022 題しらず 曾禰好忠
かた岡の雪間にねざす若草のほのかに見てし人ぞこひしき 未詳
1023 返事せぬ女のもとに遣はさむとて人の読ませ侍りければ二月ばかりによみ侍りける 和泉式部
あとをだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりの程ならずとも 未詳
1024 【題しらず 藤原興風】
霜の上に跡ふみつくる濱千鳥
ゆくゑ(イへ)もなしと音をのみぞ鳴く 断簡B
1025 (題しらず)
中納言家持
秋萩の枝もとををに置く露の
今朝消えぬとも色に出でめや 断簡B
1026 (題しらず)
藤原高光
秋風にみだれてものは思へども
萩の下葉の色はかはらず 断簡C
1027 【忍草の紅葉したるにつけて女のもとに遣はしける】
花園左大臣
わが戀も今は色にや出でなまし
軒のしのぶも紅葉しにけり 断簡D
1028 和歌所歌合に久忍戀のこころを 攝政太政大臣
いそのかみふるの神杉ふりぬれど色には出でず露も時雨も 未詳
1029 北野宮歌合に忍戀のこころを 太上天皇
わが戀はまきの下葉にもる時雨ぬるとも袖の色に出でめや 未詳
1030 百首歌奉りし時よめる 前大僧正慈圓
わが戀は松を時雨の染めかねて眞葛が原に風さわぐなり 未詳
1031 家に歌合し侍りけるに夏戀のこころを
攝政太政大臣
空蝉の鳴く音やよそにもりの露
ほしあへぬ袖を人のとふまで 断簡E
1032 (家に歌合し侍りけるに夏戀のこころを)
寂蓮法師
思あれば袖に螢をつつみても
いはばやものをとふ人はなし 断簡F
1033 水無瀬にてをのこども久戀といふことをよみ侍りしに 太上天皇
思ひつつ經にける年のかひやなきただあらましの夕暮のそら 未詳
1034 百首歌の中に忍戀を 式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする 未詳
1035 (百首歌の中に忍戀を 式子内親王)
忘れてはうち歎かるるゆうべかなわれのみ知りて過ぐる月日を 未詳
1036 (百首歌の中に忍戀を 式子内親王)
わが戀は知る人もなしせく床のなみだもらすな黄楊の小まくら 未詳
1037 【百首歌よみ侍りける時忍戀】
入道前關白太政大臣
忍ぶるにこころの隙はなけれども
なを(イほ)もるものは涙なりけり 断簡G
1038 【冷泉院みこの宮と申しける時】
さぶらひける女房を見かはして
云ひわたり侍りける頃手習し
ける所に罷りて物に書き付け侍りける
謙徳公
つらけれど恨みむとはたおもほえず
なを(イほ)行くさきを頼む心に 断簡H
1039 返し よみ人知らず
雨こそは頼まばもらめたのまずは思はぬ人と見てをやみなむ 未詳
1040 題しらず 紀貫之
風吹けばとはに波こす磯なれやわがころも手の乾く時なし 未詳
1041 題しらず 藤原道信朝臣
須磨の蜑の浪かけ衣よそにのみ聞くはわが身になりにけるかな 未詳
1042 藥玉を女に遣わすとて男に代りて 三條院女藏人左近
沼ごとに袖ぞ濡れけるあやめ草こころに似たるねを求むとて 未詳
1043 五月五日馬内侍に遣はしける 前大納言公任
時鳥いつかと待ちし菖蒲草今日はいかなるねにか鳴くべき 未詳
1044 【返し 馬内侍】
さみだれはそらおぼれする時鳥
ときになく音は人もとがめず 断簡I
1045 兵衞佐に侍りける時五月ばかりによそながら物申しそめて遣はしける 法成寺入道前攝政太政大臣
時鳥こゑをば聞けど花の枝にまだふみなれぬものをこそ思へ 未詳
1046 返し 馬内侍
時鳥しのぶるものをかしは木のもりても聲の聞えけるかな 未詳
1047 郭公鳴きつるは聞きつやと申しける人に 馬内侍
心のみ空になりつつほととぎす人だのめなる音こそなかるれ 未詳
1048 題しらず 伊勢
み熊野の浦よりをちに漕ぐ舟のわれをばよそに隔てつるかな 未詳
1049 題しらず 伊勢
難波潟みじかき葦のふしのまもあはでこの世を過ぐしてよとや 未詳
1050 題しらず 柿本人麿
み狩する狩場の小野のなら柴の馴れはまさらで戀ぞまされる 未詳
1051 題しらず よみ人知らず
有度濱の疎くのみやは世をば經む波のよるよる逢ひ見てしがな 未詳
1052 【題しらず よみ人知らず
東路の道のはてなる常陸帶の】
かごとばかりも逢ひ見てしがな 断簡J
1053 (題しらず よみ人知らず)
濁江のすまむことこそ難からめ
いかでほのかに影を見せまし 断簡J
1054 (題しらず よみ人知らず)
時雨降る冬の木の葉のかわかずぞ
もの思ふ人の袖はありける 断簡J
1055 題しらず よみ人知らず
ありとのみおとに聞きつつ音羽川わたらば袖に影も見えなむ 未詳
1056 (題しらず よみ人知らず)
水莖の岡の木の葉を吹きかへし
誰かは君を戀ひむとおもひし 断簡K
1057 (題しらず よみ人知らず)
わが袖に跡ふみつけよ濱千鳥
逢ふことかたし見てもしのばむ 断簡K
1058 女のもとより歸り侍りけるに
程もなく雪のいみじふ降り侍り
ければ
中納言兼輔
冬の夜の涙にこほるわが袖の
【こころ解けずも見ゆる君かな】 断簡K
3 考察
同本の断簡Aには、「題不」と書いて消した跡が見受けられるとのことである。これは「さのみはや」が、最初は無かったが、切り入れ、題知らずを消す必要があったためと考えられる。しかし、その後再度切り出された可能性もある。
しかし、以前「1021番たびたび返事せぬ女に 謙徳公」の断簡Aの後に「さのみやは」断簡があったと考察したが、更に確証を得たと考えてよい。
参考文献
新古今和歌集の新しい歌が見つかった!: 800年以上埋もれていた幻の一首の謎を探る
久保木 秀夫, 中川 博夫 著, 鶴見大学日本文学会ドキュメンテーション学会 (編集) 笠間書院
拙ブログ
鶴見大学所蔵断簡 新古今和歌集切り出し歌に関する考察新古今和歌集 巻第一 春歌上
題しらず
志貴皇子
岩そそぐ
たるひの
上のさ
蕨の
萌えいづる春に
なりにけるかな
読み:いわそそぐたるひのうえのさわらびのもえいずるはるになりにけるかな 隠
作者:岩に落ちるツララ(※垂水の場合は、滝)の水のほとりの初蕨が萌え出る春となったな~。
作者:しきのみこ?~715or716天智天皇の皇子。施基皇子とも書く。光仁天皇の父。 万葉集 第八巻 1418。古今和歌六帖。和漢朗詠集。
歌枕名寄、新古今注、新古今和歌集抄出聞書(陽明文庫)
万葉集巻第八 1418 春雜歌
志貴皇子懽御歌一首
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
写真:神戸市垂水区平磯 平磯緑地 万葉歌碑の道
新古今和歌集 巻第十一
女の杉の實を包みておこせて侍りければ
藤原實方朝臣
たれぞこの
三輪の桧原も知らなくに
心の
杉の
われを
尋ねる
読み:たれぞこのみわのひばらもしらなくにこころのすぎのわれをたずねぬ 隠
作者:ふじわらのさねかた?~998中古三十六歌仙の一人。叔父の済時の養子。正四位下左中将。殿上で藤原行成を笏で叩いた為に一条天皇より陸奥守へ左遷。福島で没。風流な貴公子として有名。
備考:本歌:我が庵は三輪の山もと戀しくはとぶらひきませ杉たてる門(古今集巻第18 雑歌下 982 読み人知らず)。この三輪と木の実の掛詞。桧と杉は縁語。
新古今注、定家十体、宗長秘歌抄、新古今和歌集抄出聞書(陽明文庫)
写真:檜原神社(奈良県桜井市三輪)
新古今和歌集 第十九 神祇歌
新宮に詣づとて熊野川にて
太上天皇
熊野川
くだす早瀬の
みなれ
棹さすが
見なれぬ
浪のかよひ路
読み:くまのがわくだすはやせのみなれさおさすがみなれぬなみのかよいじ
意味:熊野川を下る早瀬の水に馴れた棹とはいかず、さすが熊野新宮の速玉之男神の御神威を示す川だけあって何度渡っても馴れていない急流の波の通い道だ
作者:後鳥羽天皇ごとば1180~1239譲位後三代院政をしく。承久の変により隠岐に流される。多芸多才で、新古今和歌集の院宣を発し、撰者に撰ばせた後更に撰ぶ。
備考:序詞として、さすに掛け、完了のぬとする説もあるが取らない。本歌:大井川下す筏のみなれ棹見なれぬ人も恋しかりけり 拾遺集恋一 よみ人知らず
八代集抄、歌枕名寄、新古今注
新古今和歌集 巻第十二 戀歌二
大納言成通文遣はしけれどつれなかりける女を
後の世まで恨殘るべきよし申しければ
よみ人知らず
たまづさの
通ふばかりに
慰めて
後の世までの
うらみ
のこすな
読み:たまずさのかようばかりになぐさめてのちのよまでのうらみのこすな 隠
意味:お手紙だけのやりとりはしますから、それで気持ちを和らげて、後世まで恨みを残すなどしないでください。
3本薬師寺
元明天皇からの視点で、藤原京大極殿から草壁皇子墓陵の有る真弓丘が見えるとしたが、実は見えない。正確に言うと現在は見えるが、持統天皇からは息子の墓陵が見えなかった。
地図に示すと、束明神古墳の有る真弓丘と大極殿を直線で結ぶと、本薬師寺跡が有る。
本薬師寺跡付近拡大図
本薬師寺は、天武天皇9年(680年)に皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願し、朱鳥元年(686年)に天武天皇が亡くなり、皇后の持統天皇が引き継ぎ、持統天皇2年(688年)頃までに伽藍が整い、持統天皇8年(698年)に飛鳥浄御原宮から藤原京宮に遷都した後も工事が行われ、文武天皇2年(698年)に完成したとされる。現在は金堂や東西の塔が、発掘されている。
この本薬師寺が視界を遮るのである。
さて、最愛の子の眠る山が見えない場所に果たして、宮殿をわざわざ建てるであろうか?遮る本薬師寺の建物を移設しないのであろうか?
本薬師寺は、天武天皇が持統天皇の病気快癒を願った愛の証。草壁皇子は、二人の愛の結晶で、天皇になりそうな甥の大津皇子を排除してまで、守った最愛の子。二人の象徴が、同時に見える場所に大極殿を作ったと考える方が、合理的である。