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Channel: 新古今和歌集の部屋
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秋歌下 打衣の吉野

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第新古今和歌集 巻第五 秋歌下


擣衣のこころを    藤原雅經

  みよし野の

山の秋風さ

 ふけて

  ふるさと

      寒く

  ころもうつなり

読み:みよしののやまのあきかぜさよふけてふるさとさむくころもうつなり 隠

意味:吉野山の秋風が夜が更けてから吹き、古い都に寒々と砧の音が聞こえてきます。

作者:ふじわらのまさつね1170~1221飛鳥井家の祖。新古今和歌集の撰者。蹴鞠の名手として有名で飛鳥井流の祖。

備考:百人一首

 

写真 吉野川 小倉山歌碑


冬歌 時雨の布留神杉

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新古今和歌集 巻第六 冬歌


冬の歌の中に 太上天皇

深

あらそひかねて

   いか

      ならむ

  間なく

     しぐれ

  のふるの神杉

 

読み:ふかみどりあらそいかねていかならむまなくしぐれのふるのかみすぎ 隠

意味:常緑の杉も逆らいきれないで、いるのだろうか。時雨が年の暮になって葉の色を変えようと絶え間なく降ると、例え布留の古い神杉であっても。男からの誘いを断りきれなくなる女のように。

作者:後鳥羽天皇ごとば1180~1239譲位後三代院政をしく。承久の変により隠岐に流される。多芸多才で、新古今和歌集の院宣を発し、撰者に撰ばせた後更に撰ぶ。

備考:「布留」と「降る」と「古」、「時雨」と「し暮」の掛詞。582の人麿の本歌取り。 元久2年3月日吉社歌合

八代集抄、歌枕名寄、美濃の家づと、新古今注、九代抄、九代集抄、新古今和歌集抄出聞書(陽明文庫)

雑歌上 刈萱の関

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新古今和歌集 巻第十八 雜歌下


道         菅贈太政大臣

    刈萱の

關守にのみ見えつるは

 人も

  ゆる

    さぬ

      道べ

   なりけり

 

読み:かるかやのせきもりにのみみえつるはひともゆるさぬみちべなりけり 隠

意味:刈萱の関の関守だけ見えるものは、私が帰ることを許さない道辺だけだ

作者:菅原道真すがわらのみちざね845~903菅公、菅丞相と称される。右大臣。遣唐大使に任命されるも遣唐使を廃止。藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、大宰府で没した。漢詩、和歌、書をよくしたた。没後天満天神として祭られた。

備考:刈萱の関 福岡の太宰府の近くにあった関。出典未詳。八代集抄歌枕名寄

瀬田夕照

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初稿
 瀬田夕照   自閑
行人宿に収まって唐橋疎ら
石山遠鐘夕照を添う
巴妾の涙を知る者は今では稀
唯河流景は変わらず○艘



岡島清曠 画
ただし、瀬田唐橋図かどうかは不明

平成27年9月23日 拾壱圓

謡曲 軒端梅

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軒 端 梅

                                   三番目物 本鬘物 作者不明

東国の僧が都の東北院を訪ね、咲いている梅を門前の男から和泉式部の梅と教えられ眺めていると女が現れ、由来を教え夕暮れに梅の花の蔭に消える。門前の男から和泉式部の供養を進め、夜に僧が法華経を読経すると和泉式部の霊が現れ、譬喩品の読経に感謝して、昔法華経の読経の声に魅かれて歌「門の外法の車の音聞けばわれも火宅を出でにける哉」と詠んだ功徳で菩薩になったと述べる。また和歌の徳や都の鬼門を守るこの寺を讃えながら舞を返して、恋多き昔を思い出し、式部の臥所であったという方丈に消え、僧も夢も覚める。

前ジテ:都の女 後ジテ:和泉式部霊 ワキ:旅僧 ワキヅレ:同伴僧
アイ:東北院門前の男

 

ワキ 年立ち返る春なれや、年立ち返る春なれや、花の都に急がん。
ワキ 是は東國方より出たる僧にて候、我いまだ都を見ず候程に、此春思ひ立ち都に上り候。
ワキ 春立つや、霞の關を今朝越て、霞の關を今朝越て、果はありけり武蔵野を、分暮しつつ跡遠き、山又山の雲を經て、都の空も近づくや、旅までのどけかる覽、旅までのどけかる覽。
同ワキ 急候程に都に着て候、又これなる梅を見候へば、今を盛と見えて候、如何樣名のなき事は候まじ、此あたりの人に尋ばやと思ひ候

 

果はありけり武蔵野を  巻第四 秋歌上 378 左衛門督通光

水無瀬にて十首歌奉りし時

武藏野や行けども秋のはてぞなきいかなる風か末に吹くらむ

 

写真は京都市誠心院の軒端の梅

羇旅歌 命なりけり小夜の中山

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新古今和歌集 巻第十 羇旅歌

東の方に罷りけるによみ侍りける

西行法師

   年たけて

  また越ゆべしと

      思ひきや

いのちなりけり

    さ夜のなか山

読み:としたけてまたこゆべしとおもいきやいのちなりけりさやのなかやま 隠

意味:若い頃この峠を越えた時、年をとってまた歌枕で有名な小夜の中山を越えることがあるだろうかと思ってもみなかったが、今また越えることができ、神仏の御蔭で、命が長らえているから、また出きることだな

作者:さいぎょう1118~1190俗名佐藤義清23歳で出家諸国を行脚。

備考: 歌枕 小夜の中山静岡県掛川市日坂峠 二度目の東北行脚の途中

歌枕名寄 定家十体 美濃の家づと 新古今和歌集抄出聞書(陽明文庫)

謡曲 女郎花

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女  郎  花

                    四番目物 執心男物 作者不明

九州松浦の僧が岩清水八幡に参詣の為、男山の麓の野辺に来て、咲き乱れる草花の中で女郎花に心引かれて一本折ろうとしたところ、老人が現れ、女郎花にまつわる古歌を引いて話しているうちに老人の心も和み花を折る事を許し、岩清水八幡に案内する。老人の帰りがけに女郎花と男山の謂れを僧が問うと、男塚と女塚に案内し、自分はこの塚の小野頼風だと告げ、消える。土地の者に僧が聞くと、頼風の妻の亡霊が女郎花になった物語を語り、供養を勧める。深夜読経する僧の前に頼風夫婦が現れ、頼風は八幡山の人で、女は都の者だったが、女はしばらく訪れぬ夫を心変わりと恨み、放生川に身を投げた。頼風は亡骸を埋め塚から女郎花が生え、近づくと恨む風情でなびき退いたので、後を追って入水したと語り、今なお地獄で苦しんでいるので、回向を頼み消えていった。

 

シテ なふ/\其花な折給ひそ、華の色は蒸せる栗のごとし、俗呼ばって女郎とす、戯れに名を聞いてだに偕老を契るといへり、まいてやこれは男山の、名を得て咲ける女郎花の、多かる花に取分て、など情なく手折り給ふ、あら心なの旅人やな
ワキ 扨御身は如何なる人にてましませば、是程咲亂れたる女郎花をば惜み給ふぞ 
シテ 惜しみ申こそ理りなれ、此野邊の花守にて候
ワキ 縦花守にてもましませ、御覽候へ出家の身なれば、佛に手向と思しめし一本御許し候へかし
シテ 實々出家の御身なれば、佛に手向と思ふべけれども、彼菅原の神木にも折らで手向よと、其外古き歌にも、折り取らば手ぶさに穢る立てながら、三世の佛に花奉るなどと候へば、殊更出家の御身こそ、なをしも惜しみ給ふべけれ
ワキ 左樣に古き歌をば引かば、何とて僧正遍昭は、名に愛でて折れる計ぞ女郎花とは詠み給ひけるぞ
シテ いやさればこそ我落ちにきと人に語るなと、深く忍ぶの摺衣の、女郎と契る草の枕を、ならべし迄は疑ひなければ、其御譬へを引給はゞ、出家の身にては御誤り。
ワキ か樣に聞けば戯れながら、色香に愛づる花心、とかく申に由ぞなき、暇申て歸るとて、もと來し道に行過ぐる
シテ あふやさしくも所の古歌をば知ろしめたり、女郎花憂しと見つつぞ行過る、男山にし立てりと思へば。
同 やさしの旅人や、花は主ある女郎華、由知る人の名に愛でて、許し申也、一もと折らせ給へや。
同 なまめき立てる女郎花、なまめき立てる女郎花、うしろめたくや思ふらん、女郎と書ける花の名に、誰偕老を契りけん、彼邯鄲の假枕、夢は五十のあはれ世の、例も誠なるべしや、例も誠なるべしや

菅原の神木にも折らで

第十九 神祇歌 1853 太宰府天満宮

この歌は建久二年の春の頃筑紫に罷りけるものの安樂寺の梅を折りて侍りける夜の夢に見えけるとなる

なさけなく折る人つらしわが宿のあるじ忘れぬ梅の立枝を

ワキ 一夜臥す、男鹿の角の塚の草、男鹿の角の塚の草、陰より見えし亡魂を、とぶらふ法の聲立てて
南無幽霊出離生死頓證菩提

男鹿の角の塚の

第十五 恋歌五 1375 柿本人麻呂

題知らず

夏草の露わけごろも着もせぬになどわが袖のかわくときなき

 

写真は

石清水八幡宮

源氏物語 渡来紙

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源氏物語 梅枝 第二章五段

唐の紙のいとすくみたるに、草書きたまへるすぐれてめでたしと見たまふに、 高麗の紙の肌こまかに和うなつかしきが、色などははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手のうるはしう心とどめて書きたまへるたとふべきかたなし。


源氏物語 古万葉集、古今和歌集

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源氏物語 梅枝 第二章第七段

今日はまた、手のことどものたまひ暮らし、さまざまの継紙の本ども選り出でさせたまへるついでに、御子の侍従して宮にさぶらふ本ども取りに遣はす。嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継ぎて同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつついみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、

尽きせぬものかな。このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ

など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。

鶴見大学所蔵断簡 新古今和歌集切り出し歌に関する考察2

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1 はじめに
新古今和歌集の切り出し歌が、平成25年10月2日鶴見大学図書館が購入した古筆手鑑の中から久保木 秀夫氏、中川 博夫氏によって発見されたニュースは、新古今を学ぶ者にとってとても興味深いことだったことから、直ぐに左端にある「題不知」のキーワードから部類を、「恋歌一の「たびたび返事せぬ女に 謙徳公」の後が有力」としたところである。(Yahoo!ブログに一度掲載後、引っ越しした。)
平成26年10月に両氏により本が出版され、その中に「さのみやは」断簡にはツレがあるとのことで、その内容から以前推察した結果を検証する。
なお、新古今の番号、詞書、歌等は、新古今和歌集 佐佐木信綱校訂 岩波文庫による。
ただし、(イ )は同ツレと岩波文庫本との差違で、【 】は断簡の欠落している部分、( )は詞書、詠者が前の歌と同じ場合省略されるものを便宜上入れたものである。
また、断簡のアルファベットは、同本による。

2 第十一 戀歌一 掲載歌
1019 (題しらず)
         亭子院御歌
大空をわたる春日の影なれや
よそにのみしてのどけかるらむ 断簡A
1020 正月に雨降り風吹きける日女に
     遣はしける
          謙徳公
春風の吹くにもまさるなみだかな
わがみなかみも氷解くらし 断簡A
1021 たびたび返事せぬ女に
           (謙徳公)
水の上に浮きたる鳥のあともなし(イく)
お【ぼ】つかなさを思ふ頃かな 断簡A

→さのみやはの推定個所

1022 題しらず 曾禰好忠
かた岡の雪間にねざす若草のほのかに見てし人ぞこひしき 未詳
1023 返事せぬ女のもとに遣はさむとて人の読ませ侍りければ二月ばかりによみ侍りける 和泉式部
あとをだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりの程ならずとも 未詳

1024 【題しらず 藤原興風】
霜の上に跡ふみつくる濱千鳥
ゆくゑ(イへ)もなしと音をのみぞ鳴く 断簡B
1025 (題しらず)
          中納言家持
秋萩の枝もとををに置く露の
今朝消えぬとも色に出でめや 断簡B

1026 (題しらず)
          藤原高光
秋風にみだれてものは思へども
萩の下葉の色はかはらず 断簡C

1027 【忍草の紅葉したるにつけて女のもとに遣はしける】
          花園左大臣
わが戀も今は色にや出でなまし
軒のしのぶも紅葉しにけり 断簡D

1028 和歌所歌合に久忍戀のこころを 攝政太政大臣
いそのかみふるの神杉ふりぬれど色には出でず露も時雨も 未詳
1029 北野宮歌合に忍戀のこころを 太上天皇
わが戀はまきの下葉にもる時雨ぬるとも袖の色に出でめや 未詳
1030 百首歌奉りし時よめる 前大僧正慈圓
わが戀は松を時雨の染めかねて眞葛が原に風さわぐなり 未詳
1031 家に歌合し侍りけるに夏戀のこころを
          攝政太政大臣
空蝉の鳴く音やよそにもりの露
ほしあへぬ袖を人のとふまで 断簡E

1032 (家に歌合し侍りけるに夏戀のこころを)
          寂蓮法師
思あれば袖に螢をつつみても
いはばやものをとふ人はなし 断簡F

1033 水無瀬にてをのこども久戀といふことをよみ侍りしに 太上天皇
思ひつつ經にける年のかひやなきただあらましの夕暮のそら 未詳
1034 百首歌の中に忍戀を 式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする 未詳
1035 (百首歌の中に忍戀を 式子内親王)
忘れてはうち歎かるるゆうべかなわれのみ知りて過ぐる月日を 未詳
1036 (百首歌の中に忍戀を 式子内親王)
わが戀は知る人もなしせく床のなみだもらすな黄楊の小まくら 未詳

1037 【百首歌よみ侍りける時忍戀】
         入道前關白太政大臣
忍ぶるにこころの隙はなけれども
なを(イほ)もるものは涙なりけり 断簡G

1038 【冷泉院みこの宮と申しける時】
 さぶらひける女房を見かはして
 云ひわたり侍りける頃手習し
 ける所に罷りて物に書き付け侍りける
         謙徳公
つらけれど恨みむとはたおもほえず
なを(イほ)行くさきを頼む心に 断簡H

1039 返し よみ人知らず
雨こそは頼まばもらめたのまずは思はぬ人と見てをやみなむ 未詳
1040 題しらず 紀貫之
風吹けばとはに波こす磯なれやわがころも手の乾く時なし 未詳
1041 題しらず 藤原道信朝臣
須磨の蜑の浪かけ衣よそにのみ聞くはわが身になりにけるかな 未詳
1042 藥玉を女に遣わすとて男に代りて 三條院女藏人左近
沼ごとに袖ぞ濡れけるあやめ草こころに似たるねを求むとて 未詳
1043 五月五日馬内侍に遣はしける 前大納言公任
時鳥いつかと待ちし菖蒲草今日はいかなるねにか鳴くべき 未詳

1044 【返し 馬内侍】
さみだれはそらおぼれする時鳥
ときになく音は人もとがめず 断簡I

1045 兵衞佐に侍りける時五月ばかりによそながら物申しそめて遣はしける 法成寺入道前攝政太政大臣
時鳥こゑをば聞けど花の枝にまだふみなれぬものをこそ思へ 未詳
1046 返し 馬内侍
時鳥しのぶるものをかしは木のもりても聲の聞えけるかな 未詳
1047 郭公鳴きつるは聞きつやと申しける人に 馬内侍
心のみ空になりつつほととぎす人だのめなる音こそなかるれ 未詳
1048 題しらず 伊勢
み熊野の浦よりをちに漕ぐ舟のわれをばよそに隔てつるかな 未詳
1049 題しらず 伊勢
難波潟みじかき葦のふしのまもあはでこの世を過ぐしてよとや 未詳
1050 題しらず 柿本人麿
み狩する狩場の小野のなら柴の馴れはまさらで戀ぞまされる 未詳
1051 題しらず よみ人知らず
有度濱の疎くのみやは世をば經む波のよるよる逢ひ見てしがな 未詳

1052 【題しらず よみ人知らず
東路の道のはてなる常陸帶の】
かごとばかりも逢ひ見てしがな 断簡J
1053 (題しらず よみ人知らず)
濁江のすまむことこそ難からめ
いかでほのかに影を見せまし 断簡J
1054 (題しらず よみ人知らず)

時雨降る冬の木の葉のかわかずぞ
もの思ふ人の袖はありける 断簡J

1055 題しらず よみ人知らず
ありとのみおとに聞きつつ音羽川わたらば袖に影も見えなむ 未詳

1056 (題しらず よみ人知らず)
水莖の岡の木の葉を吹きかへし
誰かは君を戀ひむとおもひし 断簡K
1057 (題しらず よみ人知らず)
わが袖に跡ふみつけよ濱千鳥
逢ふことかたし見てもしのばむ 断簡K
1058 女のもとより歸り侍りけるに
 程もなく雪のいみじふ降り侍り
 ければ
          中納言兼輔
冬の夜の涙にこほるわが袖の
【こころ解けずも見ゆる君かな】 断簡K

3 考察

同本の断簡Aには、「題不」と書いて消した跡が見受けられるとのことである。これは「さのみはや」が、最初は無かったが、切り入れ、題知らずを消す必要があったためと考えられる。しかし、その後再度切り出された可能性もある。

しかし、以前「1021番たびたび返事せぬ女に 謙徳公」の断簡Aの後に「さのみやは」断簡があったと考察したが、更に確証を得たと考えてよい。

参考文献
新古今和歌集の新しい歌が見つかった!: 800年以上埋もれていた幻の一首の謎を探る 
久保木 秀夫, 中川 博夫 著, 鶴見大学日本文学会ドキュメンテーション学会 (編集) 笠間書院

拙ブログ

鶴見大学所蔵断簡 新古今和歌集切り出し歌に関する考察

春歌上 萌え出づる春

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新古今和歌集 巻第一 春歌上

題しらず

志貴皇子

岩そそぐ

 たるひの

     上のさ

        蕨の

 萌えいづる春に

      なりにけるかな

読み:いわそそぐたるひのうえのさわらびのもえいずるはるになりにけるかな 隠

作者:岩に落ちるツララ(※垂水の場合は、滝)の水のほとりの初蕨が萌え出る春となったな~。

作者:しきのみこ?~715or716天智天皇の皇子。施基皇子とも書く。光仁天皇の父。 万葉集 第八巻 1418。古今和歌六帖。和漢朗詠集。

歌枕名寄、新古今注、新古今和歌集抄出聞書(陽明文庫)

 

万葉集巻第八 1418 春雜歌

志貴皇子懽御歌一首
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

写真:神戸市垂水区平磯 平磯緑地 万葉歌碑の道

恋歌一 檜原杉の恋

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新古今和歌集 巻第十一

女の杉の實を包みておこせて侍りければ

藤原實方朝臣


   たれぞこの

三輪の桧原も知らなくに

  心の
   杉の
    われを

尋ねる

 

読み:たれぞこのみわのひばらもしらなくにこころのすぎのわれをたずねぬ 隠

作者:ふじわらのさねかた?~998中古三十六歌仙の一人。叔父の済時の養子。正四位下左中将。殿上で藤原行成を笏で叩いた為に一条天皇より陸奥守へ左遷。福島で没。風流な貴公子として有名。

備考:本歌:我が庵は三輪の山もと戀しくはとぶらひきませ杉たてる門(古今集巻第18 雑歌下 982 読み人知らず)。この三輪と木の実の掛詞。桧と杉は縁語。

新古今注、定家十体、宗長秘歌抄、新古今和歌集抄出聞書(陽明文庫) 


写真:檜原神社(奈良県桜井市三輪)

神祇歌 熊野川

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新古今和歌集 第十九 神祇歌

新宮に詣づとて熊野川にて

太上天皇

熊野川

  くだす早瀬の

         みなれ

     棹さすが

  見なれぬ

       浪のかよひ路


読み:くまのがわくだすはやせのみなれさおさすがみなれぬなみのかよいじ

意味:熊野川を下る早瀬の水に馴れた棹とはいかず、さすが熊野新宮の速玉之男神の御神威を示す川だけあって何度渡っても馴れていない急流の波の通い道だ

作者:後鳥羽天皇ごとば1180~1239譲位後三代院政をしく。承久の変により隠岐に流される。多芸多才で、新古今和歌集の院宣を発し、撰者に撰ばせた後更に撰ぶ。

備考:序詞として、さすに掛け、完了のぬとする説もあるが取らない。本歌:大井川下す筏のみなれ棹見なれぬ人も恋しかりけり 拾遺集恋一 よみ人知らず

八代集抄、歌枕名寄、新古今注

恋歌二 手紙だけにして

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新古今和歌集 巻第十二 戀歌二


大納言成通文遣はしけれどつれなかりける女を

後の世まで恨殘るべきよし申しければ

よみ人知らず

   たまづさの

通ふばかりに

  慰めて

 後の世までの

   うらみ

       のこすな


読み:たまずさのかようばかりになぐさめてのちのよまでのうらみのこすな 隠

意味:お手紙だけのやりとりはしますから、それで気持ちを和らげて、後世まで恨みを残すなどしないでください。

見えずかもあらむ 本薬師寺

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3本薬師寺
元明天皇からの視点で、藤原京大極殿から草壁皇子墓陵の有る真弓丘が見えるとしたが、実は見えない。正確に言うと現在は見えるが、持統天皇からは息子の墓陵が見えなかった。

地図に示すと、束明神古墳の有る真弓丘と大極殿を直線で結ぶと、本薬師寺跡が有る。

本薬師寺跡付近拡大図

本薬師寺は、天武天皇9年(680年)に皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願し、朱鳥元年(686年)に天武天皇が亡くなり、皇后の持統天皇が引き継ぎ、持統天皇2年(688年)頃までに伽藍が整い、持統天皇8年(698年)に飛鳥浄御原宮から藤原京宮に遷都した後も工事が行われ、文武天皇2年(698年)に完成したとされる。現在は金堂や東西の塔が、発掘されている。
この本薬師寺が視界を遮るのである。

さて、最愛の子の眠る山が見えない場所に果たして、宮殿をわざわざ建てるであろうか?遮る本薬師寺の建物を移設しないのであろうか?

本薬師寺は、天武天皇が持統天皇の病気快癒を願った愛の証。草壁皇子は、二人の愛の結晶で、天皇になりそうな甥の大津皇子を排除してまで、守った最愛の子。二人の象徴が、同時に見える場所に大極殿を作ったと考える方が、合理的である。


見えずかもあらむ 疑問とその整理

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    橿原市藤原京資料室(JAならけん2階)

○藤原京大極殿子午線 135゚48'07.42
日本古代宮都構造の研究 小澤毅 青木書店 245~248P
・天武十一年(682年)三月一日 小紫三野王及び宮内官大夫等に命じて新城に遣はしその地形を見しむ。
・天武十三年(684年)三月九日 天皇京師に巡行きたまひて宮室の地を定めたまふ。
・持統元年(687年)十月二十二日 皇太子、公卿、百寮人等并て諸の国司、国造百姓男女を率て始めて大内陵を築く。
・持統四年(690年)十月二十九日 高市皇子藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり。
・同年十二月十九日 天皇藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮皆従なり。
・持統五年(691年)十月二十七日 使者を遣はして新益京を鎮め祭らしむ。
・持統六年(692年)正月十二日 天皇新益京の路を観す。
・同年五月二十三日 浄広○難波王等を遣はして藤原の宮地を鎮め祭らしむ。
・同年六月三十日 天皇藤原の宮地を観す。
・持統七年(693年)二月十日 造京司衣縫王等に詔して掘せる○を収めしむ。
・持統八年(694年)正月二十一日 藤原宮に幸す。
・同年十二月六日 藤原宮に遷り居します。
・慶雲元年(704年)十一月二十日 始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五姻に布賜ふこと差有り。

・天武・持統合葬陵(檜隈大内陵=野口王墓古墳)が藤原京の中軸線である朱雀大路の南延長線上に位置し、菖蒲池古墳や中尾山古墳もほぼその線上にあることは、一九六九年に岸俊男氏がはじめて指摘した(1)。
これらは、一九七二年に高松塚古墳から壁画が発見されたさいに改めて注目され、直木孝次郎氏が被葬者推定の根拠としたことから、マスコミにより、“聖なるライン”と命名されて、一躍脚光を浴びる事となる。(藤原京中軸線と古墳の占地 奈良文化財研究所 小澤毅 橿原考古学研究所 入倉徳裕 著 明日香風111 29-34P)
(1)岸俊男「京域の想定と藤原京条坊制」『藤原宮』奈良県教育委員会一九六九年
・朱雀とともに眠る古墳の被葬者像 猪熊兼勝 明日香風80

    大極殿北の池より南の大極殿方向
○藤原京内裏 34゚30'07.61" 135゚48'07.42" 71.2m(大極殿)
大極殿以外の建物、特に住居宮殿
・宮殿は、大極殿の北、池の更に北にあったと推計される。東宮殿(文武天皇)は、その東。元明天皇、元正天皇宮殿は不明。

大極殿に二階はあるか。
・飛鳥藤原京展図録(大阪歴史
博物館(2002年6月1日~7月28日他)の大極殿復元図によると二階が有る。

○藤原京 34゚29'44.29" 135゚48'26.36" 77.8m
朱雀大路は、どうやって南を測ったか。
・藤原京条坊の設定が、年代的に天武陵造営より先行することは、発掘調査でも確認されている。藤原京から直接視認できないとはいえ、この程度の距離であれば、当時の技術でも、京の中軸線を南に延長することは問題なくできる。(藤原京中軸線と古墳の占地より)
※天武陵が、藤原京条坊の後であるなら、天武天皇の夢見た中国に倣った都市が一望できる場所に何故造らなかったのか?菖蒲池古墳位置なら、三山とともに一望できるのに。天武天皇陵が、実はもっと高い墳墓であるなら、その必要は無い。
※当時の技術とは、どう云う技術だろう?日時計と縄、松明、鏡で方法を検証しないのだろうか?何度も縄を張り、直線を大地に記していくと誤差が生じてしまうのは、小学校のグランドのライン引きと同じだ。
・一方、宮内となる部分でも、宮の造営に先行して条坊道路が施工されていたが、注目したいのは、そうした道路が、微妙にずれるかたちで、二時期にわたり存在する点である。このうち、古いほうの道路の存続期間は比較的短く、かつ京内全域におよぶものではないようだ。両者の間には、ある程度の時期差を想定しうる。(日本古代宮都構造の研究)


    本薬師寺東搭
○本薬師寺 34゚29'32.51" 135゚48'07.42" 76.7m
東搭34.4925485 135.8006967
西搭34.4925410 135.7999159

・天武九年(680年)十一月十二日 皇后の為に誓願ひて初めて薬師寺を建つ。
東西の塔、金堂の位置。
・日中古代都城図録 48、49P

広さ、高さ(推計)。

     橿原考古学研究所復元墓
○束明神古墳
・持統三年(689年)四月十三日皇太子草壁皇子尊薨りましぬ。
藤原京造営が、草壁皇子薨去より早い場合は、逆に束明神の場所は本薬師寺から決定された事になる。

○飛鳥寺
飛鳥寺の金堂、塔の位置、広さ、高さ(推計)
300m×200mはあったと推計される。

    天武天皇持統天皇陵
○天武天皇陵
34゚28'37.09" 135゚48'28.55" 117.4m

    鬼の雪隠
○鬼の俎、雪隠
古墳の石棺の盛り土の高さ
・明日香村文化財調査研究紀要第2号によると、2~3m粘土と砂質土を交互に盛土。
・鬼の雪隠は、鬼の俎の蓋部分。距離が離れており、向きも240度ずれており、巨石を動かしたのは、大規模な土砂崩れのように見える。

○天の香具山
衣の洗濯場所
    藤原京復元模型天の香具山と池

今の古池他はいつ頃出来たのか。
万葉集 巻第一 52  藤原宮御井歌
万葉集巻 第二199、201 高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌 

埴安の堤 香久山の麓にあった池の堤。今は無い。
博物館学芸員コメント:現在有る池は江戸時代以降に作られたもの。池跡を発掘した事も無く、発見した事も無い。

以上を誰に聞いたら判るか。誰の本に書いてあるか。
・どう見えるか
千田稔 奈良県図書情報館館長 宮都の風光
・どう建築したか。
宮本長二郎
東北芸術工科大学芸術学部歴史遺産学科教授
77年奈良国立文化財研究所
91年文化庁建造物課
94年東京国立文化財研究所
99年東北芸術工科大学
日本建築史、考古建築学所属学会等日本建築学界・建築史学会・民族芸術学会
新装版 平城京 (日本人はどのように建造物をつくってきたか)

その他参考
飛鳥幻の寺、大官大寺の謎 角川選書 木下 正史 著  角川書店 出版2005.2年

万葉集私注 土屋文明

万葉集 藤原京を造りし時の役民の歌

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万葉集 巻第一 50
藤原宮之役民作歌
八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼
其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之

やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原が上に 食す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ。
其を取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負へる くすしき亀も 新代と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝すらむ いそはく見れば 神ながらにあらし

万葉集挽歌 高市皇子殯宮の時

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万葉集巻第二199、200、201、202
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
挂文 忌之伎鴨 [一云 由遊志計礼抒母] 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃國之 真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 [一云掃賜而] 食國乎 定賜等 鶏之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡 不奉仕 國乎治跡 [一云 掃部等] 皇子随 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻低
吹響流 小角乃音母 [一云 笛之音波] 敵見有 虎可叫吼登 諸人之 恊流麻尓 [一云 聞或麻泥] 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去来者 野毎 著而有火之 [一云 冬木成 春野焼火乃] 風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓 [一云 由布乃林] 飃可毛 伊巻渡等 念麻低 聞之恐久 [一云 諸人見或麻低尓] 引放 箭之繁計久 大雪乃 乱而来礼 [一云 霰成 曽知余里久礼婆] 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相端尓 [一云 朝霜之 消者消言尓 打蝉等 安良蘇布波之尓] 渡會乃 齋宮従 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而 定之 水穂之國乎 神随 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代尓 然之毛将有登 [一云 如是毛安良無等] 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎 [一云 刺竹 皇子御門乎] 神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 【埴安乃】 門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮尓至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未盡者 言敝久 百濟之原従 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神随 安定座奴
雖然 吾大王之 萬代跡 所念食而 作良志之 香来山之宮 萬代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文

久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 戀渡鴨

【埴安乃 池之堤之】 隠沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑


 或書反歌一首
哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈 我王者 高日所知奴
哭沢の神社に神酒すゑ祷祈れども我ご大王は高日知らしぬ

奈良県橿原市 畝尾都多本神社参道横

万葉集 藤原宮の御井

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万葉集 巻第一 52
藤原宮御井歌
八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 【埴安乃 堤上尓】 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有
畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座
耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有
名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり。畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます。耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり。名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水

万葉集挽歌 草壁皇子殯宮

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万葉集巻第二 167

日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌


天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆]
吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 【真弓乃岡尓】 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]

天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ 。[一云 神登り いましにしかば]
我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 【真弓の岡に】宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす]


久堅乃 天見如久 仰見之 皇子乃御門之 荒巻惜毛
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも


茜刺 日者雖照者 烏玉之 夜渡月之 隠良久惜毛
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも


嶋宮 勾乃池之 放鳥 人目尓戀而 池尓不潜
嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず
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