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Channel: 新古今和歌集の部屋
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万葉集挽歌 草壁皇子の舎人等の慟哭1

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万葉集巻第二
皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首


171
高光 我日皇子乃 萬代尓 國所知麻之 【嶋宮】波母
高照らす我が日の御子の万代に国知らさまし【嶋の宮】はも

172
【嶋宮】 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十方
【嶋の宮】上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君座さずとも

173
高光 吾日皇子乃 伊座世者 【嶋御門】者 不荒有益乎
高照らす我が日の御子のいましせば【島の御門】は荒れずあらましを

174
外尓見之 【檀乃岡】毛 君座者 常都御門跡 侍宿為鴨
外に見し【真弓の岡】も君座せば常つ御門と侍宿するかも

175
夢尓谷 不見在之物乎 欝悒 宮出毛為鹿 【佐日之隈】廻乎
夢にだに見ずありしものをおほほしく宮出もするかさ桧の隈廻を

176
天地与 共将終登 念乍 奉仕之 情違奴
天地とともに終へむと思ひつつ仕へまつりし心違ひぬ


右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨


万葉集挽歌 草壁皇子の舎人等の慟哭2

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万葉集巻第二
皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首



177
朝日弖流 【佐太乃岡邊】尓 群居乍 吾等哭涙 息時毛無
朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつ我が泣く涙やむ時もなし

178
御立為之 嶋乎見時 庭多泉 流涙 止曽金鶴
み立たしの島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる

179
【橘】之 【嶋宮】尓者 不飽鴨 【佐田乃岡邊】尓 侍宿為尓徃
【橘】の【嶋の宮】には飽かぬかも【佐田の岡辺】に侍宿しに行く

180
御立為之 【嶋】乎母家跡 住鳥毛 荒備勿行 年替左右
み立たしの【島】をも家と棲む鳥も荒びな行きそ年かはるまで

181
御立為之 嶋之荒礒乎 今見者 不生有之草 生尓来鴨
み立たしの島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも

182
鳥○立 飼之鴈乃兒 栖立去者 【檀岡】尓 飛反来年
鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば【真弓の岡】に飛び帰り来ね


右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨

万葉集挽歌 草壁皇子の舎人等の慟哭3

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万葉集巻第二
皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首



183
吾御門 千代常登婆尓 将榮等 念而有之 吾志悲毛
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも

184
東乃 【多藝能御門】尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
東の【たぎの御門】に侍へど昨日も今日も召す言もなし

185
水傳 【礒乃浦廻】乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨
水伝ふ【礒の浦廻】の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも

186
一日者 千遍参入之 東乃 大寸御門乎 入不勝鴨
一日には千たび参りし東の大き御門を入りかてぬかも

187
所由無 【佐太乃岡邊】尓 反居者 【嶋御橋】尓 誰加住○無
つれもなき【佐田の岡辺】に帰り居ば【島の御階】に誰れか住まはむ

188
旦覆 日之入去者 御立之 【嶋】尓下座而 嘆鶴鴨
朝ぐもり日の入り行けばみ立たしの【島】に下り居て嘆きつるかも


右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨

万葉集挽歌 草壁皇子の舎人等の慟哭4

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万葉集巻第二
皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首

189
旦日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不為者 真浦悲毛
朝日照る嶋の御門におほほしく人音もせねばまうら悲しも

190
真木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎮目金津毛
真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも

191
毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 【宇陀乃大野】者 所念武鴨
けころもを時かたまけて出でましし【宇陀の大野】は思ほえむかも

192
朝日照 【佐太乃岡邊】尓 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎
朝日照る【佐田の岡辺】に泣く鳥の夜哭きかへらふこの年ころを

193
八多篭良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙為
畑子らが夜昼といはず行く道を我れはことごと宮道にぞする

右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨

秋歌上 色勝る秋の夕暮

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新古今和歌集 巻第四秋歌上

百首歌奉し時

摂政太政大臣

おしなべて

    思ひし
 ことのかずかずに

なほ
 色まさる
    秋の夕暮

読み:おしなべておもいしことのかずかずになほいろまさるあきのゆうぐれ

備考: 正治二年後鳥羽院初度御百首

美濃の家づと

参考
和漢朗詠集 秋興

 暮立   白居易
大抵四時心惣苦 大抵(おおむね)四時は心惣て苦(ねんごろ)なり
就中腸断是秋天 就中(このうち)腸(はらわた)の断ゆる是秋の天なり

 客舎秋情  小野篁
物色自堪傷客意 物の色は自ら客の意を傷たましむに堪えたり
宜将愁字作秋心 宜(うべ)なり愁の字をもて秋の心に作れること


写真:飛鳥村より葛城山を

万葉集草壁皇子挽歌による島の宮の位置の考察

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万葉集巻第二の挽歌に、草壁皇子の薨去を悼んだ「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」が有り、その中の184番
東乃 【多藝能御門】尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
東の【たぎの御門】に侍へど昨日も今日も召す言もなし
と言うものが有る。

これらの歌などから、草壁皇子は、明日香の橘に、周りに池を配置した嶋宮を造り、住んだとされる。

嶋宮は、古くは蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」と呼ばれ、現在発掘されている島庄遺跡と推定されている。

万葉集全註釈では、大きな池がある事から宮殿は飛鳥川の西岸にあったとしている。

しかし、古今集よみ人知らずの歌に、
世の中はなにか常なる飛鳥川きのふの淵ぞけふは瀬になる
とある通り飛鳥川は、普段の水量は少ないが、一旦まとまった雨が降ると濁流となって氾濫を起こしていたと考えられる。
そんな水害のおそれのある場所には、宮殿は建てない。

万葉集178番の「多藝」とは、一般的な滝では無く、水の流れの激しい所で、滾、激の意で有る。つまり、池からの排水が高低差により流れ出ている水路の近くの門と解して良い。
飛鳥川の橘付近で、急流となる箇所は無い。
高台の上に周囲にコ形の池を配置して、島の様に見える宮殿だったと考える。

では、池の水は、どうすれば良いかと云うと飛鳥川の上流から分水して引き入れれば良い。

それが出来る場所は限られて来る。

参考文献
万葉集全註釈 武田 祐吉著 角川書店
明日香村文化財に関する情報 調査報告等 島庄遺跡情報



松居儒人七 十壽詞 内容不明コレクション

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松居儒人七
十壽詞

○○○前極
正○春風○
子○ 飛○修
○○保千秋
壽○○之貫
才○寸
 田弌洙衲

○は不明文字

左拡大写真

右拡大写真

南都八景三枚のツレ

屏風製作年
貞享3年(1686)-元禄7年(1693)


黄檗僧の唐様に似ていているが、隠元、木庵、即非、性易などと比較したが該当しない。
悦山検証中。

冠帽印 大器晩成

落款印影 文字不明


平成27年7月 2日點伍

羇旅歌 明石の戸より大和島見ゆ

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新古今和歌集 第十 羇旅歌

題しらず

柿本人麿

あまざかる
   鄙のな
   が路を
  漕ぎくれば

明石のとよりやまと島
        見ゆ


読み:あまざかるひなのながじをこぎくればあかしのとよりやまとしまみゆ
備考:万葉集、古今和歌六帖、仮名序掲載歌

万葉集巻第三255 雑歌 柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首
天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見 [一本云 家門當見由]

明石より紀伊半島は、和歌山市、葛城山、高野山がうっすらと島の様に見えた。気象条件が悪く、生駒山系は見えなかった。大橋の従業員の数人に聞いたが、見た事が無いとのこと。関心が無い風だった。


雑歌中 布引の滝

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新古今和歌集 第十七 雜歌中

京極前太政大臣布引の瀧見に罷りて侍りけるに

二條關白内大臣

 みなかみの

空に見ゆるは
    白雲の

   たつにま
 がへる
布びきの
    瀧 


読み:みなかみのそらにみゆるはしらくものたつにまがへるぬのびきのたき

万葉集 豊浦寺の秋萩

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万葉集巻第八 1557

故郷豊浦寺之尼私房宴歌三首

明日香河逝廻丘之秋芽子者
今日零雨尓落香過奈牟




明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ

意味:飛鳥川が周りを廻っている甘樫の丘の秋萩は、今日降っている雨に散り果ててしまうのかも。だから、今日はゆっくりと観賞していって下さい。


奈良県高市郡明日香村豊浦630向原寺

秋歌上 琵琶湖の月

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新古今和歌集第四 秋歌上

和歌所歌合に湖邊月といふことを

藤原家隆朝臣

  鳰のうみや

月のひかりのうつ
      ろへば

   浪の花にも
  秋
   は見えけり

読み:におのうみやつきのひかりのうつろえばなみのはななにもあきはみえけり

備考:鳰のうみはカイツブリの棲む湖で琵琶湖の異称。

神祇歌 春日大社の験

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新古今和歌集 巻第十九 神祇歌


(入道前關白太政大臣)家に百首歌よみ侍りける時神祇の心を

皇太后宮大夫俊成

 春日野
のおどろの道の
   うもれみづ
 未だに神のしる
     しあらはせ


内容不明漢詩色紙コレクション

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神聖恩波海水深聞窓風月伴孤斟醉

来鼓腹君休笑自有洋〃太古聲

中角傾斜日午風歩従村路到江頭柳

絮遂金無状甚撲頭椋目去飄空

  雜詠二首   松田放軒

半醒款
神聖恩波海水深
聞窓風月伴孤斟
醉来鼓腹君休笑
自有洋洋太古聲
○●○○●●△
△○△●●○△
●△●●○△●
●●○○●●○

 

中角傾斜日午風
歩従村路到江頭
柳絮遂金無状甚
撲頭椋目去飄空
△●○○●●東
?※○●●○尤
●●●○○?●
●○○●●○東
松田放軒 江戸明治期 不明
平成27年10月17日 點聿

軒場の梅 山塊記 式子内親王准后

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山塊記

文治元年(1185年) 是月十四日改元暦爲文治
○八月 大建乙酉
十日庚申 …又有内文、別當(家通)、行之、前齋院准后之御封事云々。

十四日甲子 晴天。今日有改元事。頭右大辨光雅朝臣示送曰、今夜前齋院准后之後初可渡御院御所。人々可被扈從。…

次參八條院(八條北、烏丸東、八條院御所、東洞院面爲前齋院御方)、前齋院(故高倉三位腹、法王皇女)准后之後初渡御院御所(六條北西洞院西)頃之寄御車(院御車也。物見上有。庇、袖網代也)、御車副不賜當色。出車三兩。殿上人車也。予、大宮中納言(實宗網代車)、左兵衞督(頼實)、平宰相(親宗)扈從。左武衞候御車寄。殿上人十餘輩前駈。左將曹中臣近武(黄木賊上下帶劒、立鳥帽子)、在御車後、出車於院在六條面築垣外。御車入東門。奉寄寝殿南階。下御之後予逐電歸東山。予目去四月所勞。今日始出仕。於陣先可見吉書也。然而用改元吉書了。

山槐記(さんかいき)は、平安末期から鎌倉初期の公卿で内大臣を勤めた中山家の祖、中山忠親の仁平元年(1151年)から建久五年(1194年)までの40年間あまり日記で、書名の「山槐」とは中山と、大臣家唐名(槐門)を合わせたものに由来する。

史料
増補史料大成 第二十八巻 山塊記三 増補史料大成刊行会 臨川書店

軒場の梅 明月記 聖護院宮

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明月記
建久三年(1192年)四月
廿六日 早旦六条殿に參ず(衣冠)。成経卿、公朝法師等御仏事を修す。各々布施を取る。次で【聖護院宮】御仏事。又布施を取る。

訓読明月記 第一巻 今川文雄 訳 河出書房

見えずかもあらむ 子午線を測る方法考察

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○正午を知る方法
本薬師寺などの高い塔の影に印を置き、塔との距離の一番短い場所が正午。
印に影が射したら正午となり、直ぐに寺の鐘で知らせる。

○真南に光を送る
いくつもの鏡に垂直に棒を立て、寺の鐘が鳴ったら、影の消えるように鏡を向ける。

○鏡に垂直に棒を立てる方法
黄銅が熔けた状態のまま、紐に吊るした棒を下ろして、冷却するまで静置する。

○子午線上の観測
天武天皇陵から、正午の鐘とともに見える鏡の光の場所が、真北となる。

○欠点
・鏡面が、平面でないといけない。黄銅が、完全に熔融する温度で加熱し、型に流し入れないといけない。
・そもそも天武天皇陵から藤原京大極殿が見えないといけない。
・そんな鏡は、発掘されていない。

秋歌上 三夕 槇立つ山 筆者不明コレクション

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新古今和歌集 巻第五秋歌上

題しらず

寂蓮法師

さびしさはそのいろ

としもなかりけり

まき立つ山の秋の

ゆふぐれ

 

歌:さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮

読み:さびしさはそのいろとしもなかりけりまきたつやまのあきのゆうぐれ

意味:寂しさは、その風景が必ずしも原因と言うことでは無いが、真木が霧の中から突然現れる秋の夕暮れは(その風景だけで)とても寂しい。

備考:八代集抄、釈教三十六人歌合、定家十体、美濃の家づと、新古今抜書抄、九代抄、九代集抄、聞書連歌

平成27年10月 貮

軒場の梅 尊良親王墓

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尊良親王(たかよししんのう ?~1337 生年1306~11の諸説あり)は、「太平記」等が「一宮」と記していることから、後醍醐天皇の長子と考えられる。
母は二条為世の女の為子で、同母弟として宗良親王(むねよししんのう 尊澄法親王 1311~85)がいる。幼少時より吉田定房に養育された。

元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。その後脱出して九州に移り、京都に帰還した。建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。しかし延元2年/建武5年(1337年)、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、三月六日に義顕や他の将兵と共に自害した。

新古今和歌集 安政三年林政孝書写本

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上下二巻
上巻:四季 春歌上~羇旅
下巻:戀歌雑歌 恋歌一~釈教歌仮名序上巻巻頭に有り。
真名序無し。
切出歌無し。
書写者
尾張宿禰 林政孝 不明。
書写年
安政三年(グレゴリオ暦1856年)
紙透かし



平成27年10月24日 伍點七

山槐記 元暦大地震 七月九日

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元暦大地震

山槐記
元暦二年(1185年)
○七月 小
九日庚丑
午剋地震。五十年已來未覺悟。家中上下男女皆衆居竹原下。自去此居住中山蝸舎也。
法勝寺九重塔頽落重々。垂木以上皆落地。毎層柱扉連子被相殘。露盤八殘其上折落。阿彌陀堂并金堂之東西廻廊、鐘樓、【常行堂】之廻廊、南大門西門三字(宇の誤字?)、北門一宇、皆顛例(倒の誤字?)、無一宇全。門築垣皆壊。南北面少々相殘云々。遣人令見之處、申旨如此。聞得長壽院(千軆正觀音鳥羽院御願)顛倒云々。獻使者於入道大相國(花山院)、尋申御所安否。東中門廊頽危、東子午透廊北車寄顛倒、四面簀垣大略破壊。使者順路見之申云、築垣等皆壊。法成寺内廻廊皆顛倒。東塔(西塔未造畢。但)

執筆中


山槐記(さんかいき)は、平安末期から鎌倉初期の公卿で内大臣を勤めた中山家の祖、中山忠親の仁平元年(1151年)から建久五年(1194年)までの40年間あまり日記で、書名の「山槐」とは中山と、大臣家唐名(槐門)を合わせたものに由来する。

史料
増補史料大成 第二十八巻 山塊記三 増補史料大成刊行会 臨川書店
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