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Channel: 新古今和歌集の部屋
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志賀越道の推定 志賀里編

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 崇福寺跡

志賀峠のトンネルを越えると、左手に細い道、通称七曲が見えて来る。

道はかなり細く、急な坂で人一人がやっと通れる程である。

最後は将に崖を降りる。

そしてやや急な坂を降りると林道として残っている。
途中、馬頭観音を祭っており、山中で事故死した牛馬を弔った物と思われる。


眼下には、滋賀県道30号線が通っている。

崇福寺は、大津京に遷都した天智天皇の発願で、天智七年創建と伝えられ、志賀寺、志賀山寺とも呼ばれていた。

三つの尾根に、金堂(弥勒堂)、講堂、三重塔そして桓武天皇が発願した梵釈寺があったとされる。

日本紀略の弘仁六年四月二十二日嵯峨天皇が韓(唐)崎へ行幸した際に、崇福寺(志賀寺)を過ぐとある。

文華秀麗集
梵釋寺に過ぎる 一首 御製
雲嶺の禪局人蹤紀え昔と今日を再び擧登す
幽奇なる巌嶂泉水を吐き老大なる杉松舊藤を離く
梵宇無塵滓の事法筵に唯有るは薩蘿の僧のみ
忽さに煩想鎖えて夏も還りて冷やかん去らむとして淹留すること暫しも能はず

万葉集には、
勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作謌一首
遺居而戀管不有者追及武道之阿廻尓標結吾勢
と歌われている。

志賀寺は、女人の参詣が多かったらしく、古今集には、
志賀の山越に女の多く逢へりけるによみて遣はしける
           紀貫之
梓弓春の山辺を越え来れば道もさりあへず花ぞ散りける
と多数往来していた。
更に、清少納言の枕草子にも
寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀。

少し時代が下って、室町幕府将軍足利義満が、応永元年志賀越から日吉社に参詣している。

志賀里は、唐の留学僧の永忠が茶の種を持ち帰り、崇福寺、梵釈寺の検校となって、近隣に植え、嵯峨天皇行幸の際、献じたと伝わっており、お茶が初めて伝来した場所と知られる。


志賀八幡神社は、

志賀越道の推定 志賀寺番外編 今昔物語

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 崇福寺跡

今昔物語 巻第十一 天智天皇建志賀寺語 第二十九
今昔、天智天皇、近江ノ国、志賀郡、粟津ノ宮ニ御マシケル時ニ、寺ヲ起テムト云フ願有テ、「寺ノ所ヲ示シ給ヘ」ト祈リ願ヒ給ヒケル夜ノ夢ニ、僧來テ告テ云ク、
「此戌亥ノ方ニ勝タル所有リ。速ニ出テ可見給シ」ト。即チ、夢覺テ、出テ見給フニ、戌亥ノ方ニ光有リ。
明ル朝ニ、使ヲ遣テ令尋給フニ、使行テ、光ル程ノ山ヲ尋ヌレバ、志賀ノ郡ノ篠波山ノ麓ニ至ヌ。
谷ニ副テ深ク入テ見レバ、高キ岸有リ。岸ノ下ニ深キ山同有リ。山同ノ口ノ許ニ寄テ内ヲ臨キケレバ、年老タル翁ノ帽子シタル有リ。其形チ頗ル怪シ。世ノ人ニ不似、眼見賢気ニシテ、極テ気高シ。寄テ問テ云ク、
「誰人ノカクテハ坐ルゾ。天皇ノ御覽ズルニ此方ノ山ニ光リ有リ。「尋テ參レ」ト宣旨ヲ奉テ來レル也」ト。
翁露答フル事無シ。使極テ煩ハシク、是ハ樣有者ナメリト思テ、返リ參テ、此ノ由ヲ奏ス。
天皇是ヲ聞シ食テ、驚キ怪ミ給テ、
「我レ行幸シテ、自問ハム」ト被仰テ、忽ニ其所ニ行幸有リ。御輿ヲ彼ノ山同ノ許ニ近ク寄テ掻居ヘテ、其ヨリ下サセ給テ、山同ノ口ニ寄ラムトシ給フニ、實ニ翁有リ。聊畏ル気色無シ。錦ノ帽子ヲシテ薄色ノ襴衫ヲ着タリ。形チ髪サビ気高シ。天皇近ク令寄給テ、
「是ハ、誰人ノカクテ有ルゾ」ト令問給フ。
其時ニ、翁袖ヲ少シ掻合セテ、座ヲ少シ退ク様ニシテ申サク、
「昔シ、古ノ仙□□山同也。篠波也長柄ノ山ニ」ナド云テ、掻消ツ樣ニ失ヌ。其時ニ、天皇□□召テ宣ハク、
「翁、然々ナム云テ失ヌル。定テ知ヌ、此ノ所ハ止事無キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建シ」ト宣テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。
其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起レテ、丈六ノ彌勒ノ像ヲ安置シ奉ル。供養ノ日ニ成テ、燭盧殿ヲ起テ、王自ラ右ノ名無シ指ヲ以テ御燭明ヲ挑給テ、其指ヲ本ヨリ切テ石ノ筥ニ入テ、燭樓ノ土ノ下ニ埋ミ給ヒツ。
是、手ニ灯ヲ捧テ彌勒ニ奉給フ志ヲ顕シ給フ也。
亦、此寺ヲ被造ル間、地ヲ引クニ、三尺計ノ少寳塔ヲ掘出タリケリ。物ノ躰ヲ見ルニ、此ノ世ノ物ニ不似。
昔ノ阿育王ノ八万四千ノ塔ヲ起テケリ、其一也ケリト知セ給テ、彌ヨ誓ヲ発テ、指ヲモ切テ埋マセ給フ也ケリ。
亦、供養ノ後、天平勝寳八年ト云フ年ノ二月ノ十五日、参議正四位下兼兵部卿、橘ノ朝臣奈良麻呂ト云フ人有テ、此寺ニ伝法會ト云フ事ヲ始テ行フ。其レ、華厳經ヲ初トシテ諸ノ大小乗ノ經律論章硫ヲ令講ル也。其ノ料ニハ水田二十町寄置タリ。永ク行ムト云ヘリ。其ヨリ後、于今橘ノ氏ノ人參テ是ヲ令行ム。
而、此寺、供養ノ後、彼ノ御指ノ験シ給フトテ、少モ穢ラハシキ輩ヲバ谷ニ被投棄レケレバ、殊ニ人難詣カリケレバ、中比ニ成テ、何ナル僧ニカ有ケム、別當ニ成テ此ノ寺ヲ政ツ程ニ、
「此寺ニ殊ニ人不詣ネバ、極テ徒然也。此御指ノ爲ル事ナメリ。速ニ是ヲ堀棄テム」ト云テ、令堀ケレバ、忽ニ雷鳴リ雨降リ、風吹キ鳴ルト云ヘドモ、別當彌ヨ嗔テ掘出テケリ。見レバ、只今切セ給ヘル樣ニ、白ク光リ有リ、鮮ニテナム在マシケル。掘出テ後、程無ク水ニ成テ失給ヒニケリ。其後、別當ノ僧ハ幾程無クシテ物ニ狂テ死テケリ。其後ハ、此ノ寺、験モ無クテ有ル。
「奇異ノ政シタル別當也」トテ、死テ後ニモ、世ノ人皆悪ケリ。崇福寺ト云フ、是也トナム語リ伝ヘタルトヤ。

志賀越道の推定 疑問編

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 崇福寺跡

前述の嵯峨天皇の行幸について、日本後記弘仁六年四月十二日の条には、
近江國滋賀韓崎に幸す。便ち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠護命法師等衆僧を率い門外に迎え奉る。【皇帝輿を降り】堂に昇り佛を禮す。更らに梵釋寺を過ぐ。【輿を停めて】詩を賦す。
とある。
天皇の乗る輿は、鳳輦と言い、多くの人が担ぐ。延喜式 左右近衛府に因ると、「凡供奉行幸駕輿丁者、駕別二十二人(十二人撃御輿、自余執御輿綱)」と「轢には、前後に副轢(そえながえ)を加えて緋綱で結び、駕輿丁十二人で奉昇し、さらに軒先の四隅から垂らした緋綱を駕輿丁前三人・後二人ずつで奉持して、屋形が進行して左右に動揺しないための用意とした。」(国史大辞典 鳳輦の項)となっている。
嵯峨天皇の唐崎行幸も鳳輦に乗って行った事が分かり、担ぎ手の数を減らす事は無い。又、坂が急だからと言って天皇が降りて歩く事も無い。



この前提が、この通称「七曲」では、不可能である。

この為、「唐崎の歴史」( 松野孝一ほか著 2013年)の「志賀越え平安時代初期 嵯峨天皇「唐崎祓」想像記」では、行幸の行程を山中から田の谷峠から志賀峠を通って、「志賀峠は道険しく、牛車では無理で馬に乗り」としている。(11頁)

又、前述の足利義満の参詣を考えても、将軍ともなれば、数千騎、数万人の行軍となる。南朝の残党が潜んでいるかも知れない所に、馬1頭も楽には通れない道は選ばない。もっと安全な逢坂越を選ぶ。
これは、応仁の乱の細川軍も同じである。

そして、平安時代は、崇福寺に多くの女性が参詣した訳でも有るから、藪の中に山賊が潜むような道は選ばない。

精解国語漢文叢書 新古今和歌集 蔵書

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精解國語漢文叢書 新古今和歌集




著者:光學館編輯部編
初版:昭和15年9月10日
発行:光學館

新古今和歌集を200首選び、四季部を簡単に、恋部を詳細に解説。

延慶本 安樂寺の由來の事 付たり霊験無双の事

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平家物語 延慶本 巻第四

六 安樂寺の由來の事 付たり靈験無雙の事
そもそも安樂寺と申すは、昔菅原の大臣の思わぬ波に浮き寝して、しほれ給御廟なり。

此後かくて露の御命、春の草葉にすがりつつ、いきの松原に日を経れば、山郭公の音闌て、秋の半も過ぎにけり。さても九月始の比、去年の今夜の菊の宴に、清涼殿に侍りて、叡感のあまりに、あづかり給し御衣を取出ししておがみ給とて、幽思きわまらず、愁腸斷へなむとして、作らせ給ひける詩とかや。
御賜の御衣は今在此。捧持ちて終日に拝す餘香。
さりともと世を思し召しけるなるべし。月のあきらかなりける夜。
  海ならずたたふる水の淵までに
  清き心は月ぞてらさん

されば今の平家ほろびたまひて後、文治のころ、伊登藤内、鎮西九國の地頭に補されて、下りたりけるに、其郎從の中に、ひとりの下郎、無法に安樂寺へ亂れ入りて、御廟の梅を切りて、宿所へ持行て薪とす。其男即長死去しぬ。藤内驚きて、御廟に詣でてをこたりを申す。通夜したりけるに、御殿の内にけ高き御音にて、
  情なく切人つらし春來れば
  主わすれぬやどのむめがへ
不思議なりし御事也。


新古今和歌集
 巻第十八 雑歌下
  海    菅贈太政大臣
海ならずたたへる水の底までに清きこころは月ぞ照らさむ
 第十九 神祇歌
なさけなく折る人つらしわが宿のあるじ忘れぬ梅の立枝を

恋歌一 真葛が原 慈円

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新古今和歌集巻第十一
  恋歌一
 百首歌奉りし時よめる
    前大僧正慈円
わが恋は
 松を
  時雨の
 染めかねて
真葛が
  原に
 風さわぐなり


読み:わがこいはまつをしぐれにそめかねてまくずがはらにかぜさわぐなり

正治二年後鳥羽院初度百首歌


東山知恩院

羇旅歌 羇中見月

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新古今和歌集巻第十
    羇旅歌
 関戸の院といふ所にて羇中見月といふ心を
              大江嘉言


草枕ほどぞ

   経にける

 みやこ出でて

幾夜か旅の
    月に

   寝ぬらむ


読み:
くさまくらほどぞへにけるみやこいでていくよかたびのつきにねぬらむ

大阪府三島郡島本町山崎





志賀越道の推定 彷徨編1

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 崇福寺跡

古代の志賀越道が、今の志賀峠を通っていなかったとしたら、どんな事が考えられるだろう。
① 今の志賀峠道の通称七曲はもっと緩やかな坂だったが、道が土砂崩れにより崩落し道が狭くなった。
② 古代の志賀越道が、崩落し寸断された為に、ルート変更により、志賀峠―七曲ルートとなった。
実際、最近の豪雨により、小川添いの林道は崩落し、無動寺弁天道は巨木ごと倒壊していた。


そこで、比叡山南部の志賀峠以外について調べると、
① 弁天道道添ルート
② 弁天道西側ルート
③ 志賀峠前直進ルート
④ 崇福寺中道ルート
⑤ 崇福寺北東海自然歩道ルート
⑥ 田ノ谷峠県道30号ルート
⑦ 弁天道地蔵谷ルート
が有る。
尚、名称は独自に考えたものである。

最初の砂防ダム

雑歌下 惜朽名 慈円

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新古今和歌集巻第第十八
  雑歌下
 例ならぬこと侍りけるに無動寺にて
 読み侍りける
      前大僧正慈円


 頼み来しわが

古寺の苔の
    下に
  いつしか朽ちむ

   名こそ惜し
       けれ


読み:たのみこしわがふるでらのこけのしたにいつしかくちむなこそおしけれ


比叡山無動寺

志賀越道の推定 彷徨編2

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 崇福寺跡

(1)弁天道道添ルート
弁天道の燈籠を真っ直ぐ行くと比叡山無動寺弁天堂に行き着くはずである。

第二の砂防ダムを過ぎて,小川添いの山道を歩く。


付近には、鹿が多くいるらしく、2頭見かけた。
途中道が二股に別れているが、右を行くと比叡山ドライブウエイの下まで来るが、急な崖なので行き止まりとなる。



引き返して、左の道を行くと、途中山道が護岸のコンクリートごと崩落して寸断されている。


ついに道が無くなり、沢沿いに登って行くと、最近大量の土砂が雨で削り取られており、それ以上進む事が困難である。この道からは無動寺へ到達する事は出来ない。

(2)弁天道西側ルート
第二の砂防ダムから50m程行った小川の対岸に道が有り、飛び越えて進む。小川は左からも流れている。

直ぐに道とは言えなくなるが、比較的広く平である。途中小川によって大きく削り取られているが、枯れ川となっているので歩くには支障が無い。
日没下山の恐れがあったので、途中で引き返した。

(3)志賀峠前直進ルート
弁天道燈籠を左に曲がって道路の下を潜ると第三の砂防ダムに出る。
そこを越え、左は志賀峠だが、直進する。

分かれ道の場所は広く平なので、多くの者が前を往き来していたとすれば、茶屋があっても可笑しくない雰囲気である。

燈籠から300m程行くと小川は左に曲がるが、その先は倒木が多く歩行は断念。

上流の大津市のふれあい牧場跡から見ると、ここを登って来るのは難しい事が分かり、その後も比叡山ドライブウエイまで急な坂を登る必要が有り、この道を通る事は困難。

西行楊枝井

志賀越道の推定 彷徨編3

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 崇福寺跡

(4)崇福寺中道ルート
今度は、大津市志賀里側からルートを探索する。
崇福寺跡は、3つの尾根に別れており、北から弥勒堂跡、中間に小講堂・三重の塔跡、南が講堂跡となっている。


講堂跡と小講堂の間には小川と狭い道が有る。


しかし、直ぐに急斜面となり、それ以上行くことは困難であった。



(5)崇福寺北東海自然歩道ルート
崇福寺の小講堂・三重の塔と弥勒堂跡の間にも小川が流れており、ここには、崇福寺建立発願の契機となった金仙滝が有る。
金仙滝

それを過ぎなだらかな坂を登ると砂防ダムが有る。
東海自然歩道にもなっており、ハイキングとしては丁度良い。


最後の砂防ダムを越えると、そこからは急な坂となる。
歩道が整備されているが、落葉がうず高く積っている事から、余り歩く人はいないらしい。



そこを上り詰めると、尾根沿いの道となり、比叡山ドライブウエイの休憩所となる。

志賀越道の推定 彷徨編4

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 崇福寺跡

(6)田ノ谷峠県道30号ルート

(7)坂本城地蔵谷ルート

春道列樹 大津京駅

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志賀街道
  やまがわに
  かぜのかけたる
  しがらみは
  ながれもあえぬ
  もみぢなりけり

      春道列樹

JR大津京駅構内

紫式部 大津京駅

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石山寺
  めぐりあひて
  みしやそれとも
  わかぬまに
  くもかくれにし
  よはのつきか

     紫式部

歌論 無名抄 題は意を得るべき事

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題可意得(イ心)事
歌は題のこゝろを能心うべき也。俊頼の髄惱(イ脳)といふ物にぞしるして侍るめる。必まはして讀べき文字中/\まはして○(イは)はわろき(イわろくきこゆる)文字あり。必しも讀す(イそ)へねども(イナシ)をのづからしらるゝ文字もあり。所謂曉天落花雲間郭公海上明月かくのごとくの(イナシ)題は第二の(イナシ)文字必しも(イかならしも)よまず。皆しもの題を讀に具して聞ゆる文字あ(イな)り。又かすかにては(イナシ)いうなる文字あり。是等はをしへならぶべき事に○(イも)あらず。能心得つれば其題を見るにあらは也。○(イ又題の歌は)心ざしをふかく讀べし。たとへば祝事(イナシ)○(イに)は限りなく久しき心をいひ戀にはわりなく淺からぬよしを讀。もしは命にかへて花を惜み家路を忘れて紅葉を尋んごとく其物に心ざしを深く讀べし。古集の歌共のさしも見えぬは歌○(イの)さまよろしきによりて其難(イ躰)をゆるさ(イせ)る也。もろ/\の難ある歌此會尺(イせき)に依て撰入る○(イは)常の事なり。されども(イナシ)彼をば例とすべからず。如何にも歌合などに(イナシ)おなじ程なるにとりては今少も題を深くおもへるをまさるとさだむる也。たとへば説法する人の其佛にむかひて讚嘆するがごとし。但題をば必もてなすべきぞとてふるくよまぬ程の(イナシ)事をば心得べし。假ば時鳥などは山野をたづねありきてきく心をよみ(イむ)鶯ごときは待こゝろをばよめども尋てきくよしいと(イ心をば)よまず。又(イナシ)鹿の音などは聞も(イ物)心すご(イぼそ)く哀なるよしをばよめども待よしをばいとも(イナシ)いはず。かやうの事○(イなど)はことなる秀句など(イナシ)なくば必さるべし。又櫻をば尋ぬれ共(イナシ)柳をばたづねず。初雪など○(イを) ば待心を讀てしぐれ霰など(イナシ)をばまたず。花をば命にかへておしめ(イむといへ)ども紅葉をばさ程には(イナシ)惜まず。此等のちがひめ(イナシ)を心得ねば(イぬは)故實をしらぬやうなり。(イれば)能々古歌の(イナシ)などをも思ひときて歌の程にしたがひてはからふべき事なり。

俳句 寺町通

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明日からは
梅雨に入るらむ
     散歩道

(6月6日午後)


近衛京極西(仙洞御所裏)




 都名所圖會 第一
源三位頼政の旧蹟は大炊御門(今の竹屋町をいふ)京極の西にあり。
 家集  二月のついたち比に花まだしき程にならより
     つくりたる桜をまぜくだ物のうへにかざして
     つかはしたりけるをひとり見んばくちをし
     さにむかひなる所に桜の梢のみゆるがまだ
     咲ぬほどにあるじのもとへ比造花をつか
     はすとて
 君がすむ宿の梢のさかぬまにめづらしかれと花奉れ
   かへし
 みさへなりちらでやむべき花みれば宿の梢は待れざりけり


真宗大谷派 小野山浄慶寺

この地は、おおよそ八百年前源三位頼政公の旧舘の地で、境内に残る
石地蔵は、当地の地主(その土地の守仏)として大切に受け継がれている。


此付近 藤原定家京極邸址

二条京極西

冷泉京極西

俳句 埋もれ木

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埋もれ木も
執着燃やし
     つゆはれ間

三条坊門室町


烏丸御池駅構内

西鶴歌碑 二条寺町

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通ひ

  路は

二條寺

  町

 夕詠


かよひぢはにでうてらまちゆふながめ

井原西鶴
延宝5年三月、大坂生國魂神社で一昼夜1,600句独吟興行し、五月に俳諧大句数として出版。

二条寺町

隠岐本新古今和歌集と研究 蔵書

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隠岐本新古今和歌集と研究

未刊国文資料第三期第十八冊



著者:後藤重郎
初版:昭和47年12月20日
発行:未刊国文資料刊行会

宮内庁書陵部蔵(図書番号154・122)の翻刻。
真名序、仮名序、隠岐識語、本文の順
句読点は付けない。

研究
一、撰集の経過及び本文成立展開の歴史
二、隠岐本成立をめぐって
三、隠岐本系諸本をめぐって
四、底本をめぐって
五、底本を中心とした隠岐選抄歌の検討

付録
六、建仁三年四月選歌上進後の入集と目される歌並びに隠岐削除歌一覧表
七、建仁
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