Quantcast
Channel: 新古今和歌集の部屋
Viewing all 4234 articles
Browse latest View live

源氏物語と新古今和歌集 松に掛かれる藤 藤裏葉

$
0
0

藤裏葉

やう/\夜更行ほどに、いたうそらなやみして、
みだり心ちいとたへがたうて、まかでん空もほと/ヾしうこそ侍ぬべけれ。とのいどころゆづり給てんやと、中將にうれへ給。おとゞ朝臣や、御やすみ所もとめよ。おきないたうゑひすゝみてむらいなれば、まかりいりぬといひすてていり給ぬ。中將はなのかげの旅ねよ。いかにぞや、くるしきしるべにぞ侍やといへば
松にちぎれるはあだなる花かは。ゆゝしや
とせめ給。


巻ニ   春歌下
 藤の松にかかれるをよめる   紀貫之
みどりなる松にかかれる藤なれどおのが頃とぞ花は咲きける

源氏物語と新古今和歌集 山鳥の心地 夕霧

$
0
0

夕霧

かく心ごはけれど、いませかれ給べきならねば、やがてこの人をひきたてて、おしはかりにいり給ふ。宮はいと心うく、なさけなくあはつけき人の心なりけり、とねたくつらければ、わか/\しきやうにはいひさはぐとも、とおぼして、ぬりごめにおましひとつしかせたまて、うちよりさして、おほとのごもりにけり。これもいつまでにかは、かばかりにみだれたちにたる人の心どもはいとかなしう、くちおしうおぼす。おとこぎみは、めざましうつらしと思ひきこえ給へど、かばかりにてはなにのもてはなるゝことかはと、のどかにおぼして、よろづにおもひあかし給ふ。山どりの心ちぞし給うける。からうしてあけがたになりぬ。かくてのみ、ことといへばひたおもてなべければ、いで給ふとてたゞいさゝかのひまをだに。
といみじうきこえ給へど、いとつれなし。

第十五  戀歌五 題しらず よみ人知らず
晝は來て夜はわかるる山鳥のかげ見るときぞ音は泣かれける

源氏物語と新古今和歌集 つらきもあはれ 竹河

$
0
0

竹河

あさましきまでうらみなげゝれば、このまへ申も、余たはぶれにくゝ、いとおしと思ひて、いらへもおさおさせず。かの御五のけんぞせしゆふぐれのこともいひいでて、さばかりのゆめをだにまたみてしかな。あはれ、なにをたのみにていきたらむ。かうきこゆることものこりすくなうおぼゆれば、つらきもあはれ、といふ事こそまことなりけれと、いとまめだちていふ。

第十五  戀歌五
題しらず     清原深養父
嬉しくば忘るることもありなましつらきぞ長き形見なりける

源氏物語と新古今和歌集 万世を掛けて匂はん花 宿木

$
0
0

宿木

すべらきのかざしにおると藤のはなをよばぬえだに袖かけてけりうけばりたるぞにくきや

よろづよをかけてにほはん花なればけふをもあかぬ色とこそみれ

きみがためおれるかざしはむらさきのくもにをとらぬ花のけしきかよのつねの色ともみえず雲ゐまでたちのぼりたるふぢなみの花これやこのはらだつ大納言のなりけんとみゆれ。かたへはひがことにもやありけん。かやうに、ことなるおかしきふしもなくのみぞあなりし。



第ニ  春歌下 飛香舎にて藤花宴侍りけるに 延喜御歌
かくてこそ見まくほしけれよろづ代をかけてにほへる藤波の花

源氏物語と新古今和歌集 浮島 東屋

$
0
0

東屋

こ宮の、つらうなさけなくおぼしはなちたりしに、いとゞ人げなく人にもあなづられ給とみ給れど、かうきこえさせ御覽ぜらるゝにつけてなん、いにしへのうさもなぐさみ侍。など、年ごろの物がたり、うきしまのあはれなりし事もきこえいづ。


第十五  戀歌五
中納言家持に遣はしける    山口女王
鹽竈のまへに浮きたる浮島のうきておもひのある世なりけり

源氏物語と新古今和歌集 待乳山 手習

$
0
0

手習

例のあまよびいでゝ、ひとめみしより、しづ心なくてなむ
との給へり。いらへ給べくもあらねば、あま君
まつち山となんみ給ふる
といひいだし給。たいめんし給へるにも、心ぐるしきさまにて物し給きゝ侍し人の御うへなん、のこりゆかしく侍つる。なにごとも心にかなはぬ心ちのみし侍れば、山ずみもし侍らまほしき心ありながら、ゆるい給まじき人々に思ひさはりてなむすぐし侍。よに心ちよげなる人のうへは、かくくんじたる人の心からにや、ふさはしからずなん。物思給らん人に、思ことをきこえばや
など、いと心とゞめたるさまにかたらひ給。

第四   秋歌上
題しらず  小野小町
たれをかもまつちの山の女郎花秋とちぎれる人ぞあるらし

慈円

$
0
0
前大僧正慈圓

巻  巻名 前書き  歌
現代語読み  隠岐

第一 春歌上
  百首奉りける時
あまのはら富士の煙の春いろの霞になびくあけぼののそら
あまのはらふじのけむりのはるいろのかすみになびくあけぼののそら 隠
  故郷花といへるこころを
散り散らず人もたづねぬふるさとの露けき花に春かぜぞ吹く
ちりちらずひともたずねぬふるさとのつゆけきはなにはるかぜぞふく

第三 夏歌
  更衣をよみ侍りける
散りはてて花のかげなきこのもとにたつことやすき夏衣かな
ちりはててはなのかげなきこのもとにたつことやすきなつころもかな 隠
  五十首歌奉りし時
さつきやみみじかき夜半のうたたねに花橘のそでに涼しき
さつきやみみじかきよわのうたたねにはなたちばなのそでにすずしき 隠
  攝政太政大臣家百首歌合に鵜河をよみ侍りける
鵜飼舟あはれとぞ見るもののふのやそ宇治川の夕闇のそら
うかいぶねあわれとぞみるもののふのやそうじがわのゆうやみのそら 隠
  五十首歌奉りし時
むすぶ手にかげみだれゆく山の井のあかでも月の傾きにける
むすぶてにかげみたれゆくやまのいのあかでもつきのかたむきにける 隠
  夏の歌とてよみ侍りける
雲まよふ夕べに秋をこめながらかぜもほに出でぬ荻のうへかな
くもまようゆうべにあきをこめながらかぜもほにいでぬおぎのうえかな 隠
  百首歌奉りし時
夏衣かたへ涼しくなりぬなり夜や更けぬらむゆきあひの空
なつころもかたえすずしくなりぬなりよやふけぬらむゆきあいのそら 隠

第四 秋歌上
  題しらず
身にとまる思を荻のうは葉にてこのごろかなし夕ぐれの空
みにとまるおもいをおぎのうわばにてこのごろかなしゆうぐれのそら 隠
  おのこども詩を作りて歌に合せ侍りしに山路秋行といふことを
み山路やいつより秋の色ならむ見ざりし雲のゆふぐれの空
みやまじやいつよりあきのいろならむみざりしくものゆうぐれのそら
  百首歌奉りし時月の歌に
いつまでかなみだくもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ戀しき
いつまでかなみだもくらでつきはみしあきまちえてもあきぞこいしき 隠
  百首歌奉りし時秋の歌の中に
ふけゆかばけぶりもあらじしほがまのうらみなはてそ秋の夜の月
ふけゆかばけむりもあらじしおがまのうらみなはてそあきのよのつき 隠
  題しらず
憂き身にはながむるかひもなかりけり心に曇る秋の夜の月
うきみにはながむるかいもなかりけりこころにくもるあきのよのつき 隠
  和歌所歌合に田家月といふことを
雁の來る伏見の小田に夢覺めて寝ぬ夜の庵に月をみるかな
かりのくるふしみのおだにゆめさめてねぬよのいおにつきをみるかな 隠

第五 秋歌下
  千五百番歌合に
鳴く鹿の聲に目ざめてしのぶかな見はてぬ夢の秋の思を
なくしかのこえにめざめてしのぶかなみはてぬゆめのあきのおもいを 隠
  攝政太政大臣家の百首歌合に
わきてなど庵守る袖のしをるらむ稻葉にかぎる秋の風かは 1 わきてなどいおもるそでのしおるらむいなばにかぎるあきのかぜかは 隠
  題しらず
衣うつおとは枕にすがはらやふしみの夢をいく夜のこしつ
ころもうつおとはまくらにすがはらやふしみのゆめをいくよのこしつ 隠
  五十首歌奉りし時月前聞雁といふことを
大江山傾く月のかげさえて鳥羽田の面に落つるかりがね
おおえやまかたぶくつきのかげさえてとばたのおもにおつるかりがね 隠
  千五百番歌合に
秋を經てあはれも露もふかくさの里とふものは鶉なりけり
あきをへてあわれもつゆもふかくさのさととうものはうずらなりけり 隠
  和歌所にて六首つかうまつりし時秋歌
秋ふかき淡路の島のありあけにかたぶく月をおくる浦かぜ
あきふかきあわじのしあのありあけにかたぶくつきをおくるうらかぜ 隠
  暮秋のこころを
長月もいくありあけになりぬらむ淺茅の月のいとどさびゆく
ながつきのいくありあけになりぬらむあさじのつきのいとどさびゆく 隠

第六 冬歌
  春日社歌合に落葉といふことをよみ奉りし
木の葉散る宿にかたしく袖の色をありとも知らでゆく嵐かな
このはちるやどのかたしくそでのいろをありともしらでゆくあらしかな 隠
  時雨を
やよ時雨もの思ふ袖のなかりせば木の葉の後に何を染めまし
やよしぐれものもうそでのなかりせばこのはのあとになにをそめまし 隠
  題しらず
もみぢ葉はおのが染めたる色ぞかしよそげに置ける今朝の霜かな
もみじばはおのがそめたるいろぞかしよそげにおけるけさのしもかな 隠
  百首歌中に
霜さゆる山田のくろのむら薄刈る人なしにのこるころかな
しもさゆるやまだのくろのむらすすきかるひとなしにのこるころかな 隠
  最勝四天王院の障子に宇治河かきたる所
網代木にいさよふ波の音ふけてひとりや寝ぬる宇治のはし姫
あじろぎにいさよふなみのおとふけてひとりやねぬるうじのはしひめ 隠
  題しらず
庭の雪にわが跡つけて出でつるを訪はれにけりと人は見るらむ
にわのゆきにわがあとつけていでつるをとはれにけりとひとやみるらむ 隠
  題しらず
ながむればわが山の端に雪しろし都の人よあわれとも見よ
ながむればわがやまのはにゆきしろしみやこのひとぞあわれともみよ 隠
  題しらず
年の明けてうき世の夢の醒むべくは暮るとも今日は厭はざらまし
としあけてうきよのゆめのさむべくはくるともきょうはいやはざらまし 隠

第八 哀傷歌
  同行なりける人うちつづきはかなくなりにければ思ひ出でてよめる
ふるさとを戀ふる涙やひとり行く友なき山のみちしばの露
ふるさとをこうるなみだやひとりゆくともなきやまのみちしばのつゆ 隠
  返し
思ひ出づる折りたく柴と聞くからにたぐひも知らぬ夕煙かな
おもいずるおりたくしばときくからにたぐいもしらぬゆうけむりかな 隠
  無常の心を
皆人の知りがほにして知らぬかな必ず死ぬるならひありとは
みなひとのしりがおにしてしらぬかなかならずしぬるならいありとは 隠
  無常の心を
昨日見し人はいかにと驚けどなほながき夜の夢にぞありける
きのうみしひとはいかにとおどろけどなおながきよのゆめにぞありける 隠
  無常の心を
蓬生にいつか置くべき露の身は今日のゆふぐれ明日のあけぼの
よもぎうにいつかおくべきつゆのみはきょうのゆうぐれあすのあけぼの 隠
  無常の心を
我もいつぞあらましかばと身し人を忍ぶとすればいとど添ひ行く
あもいつぞあらましかばとみしひとをしのぶとすればいとどそいゆく 隠
  覺快法親王かくれ侍りて周忌のはてに墓所にまかりてよみ侍りける
そこはかと思ひつづけて來て見れば今年の今日も袖は濡れけり
そこはかとおもいつづけてきてみればことしのきょうもそではぬれけり 隠

第十 羇旅歌
  旅の歌とてよみ侍りける
東路の夜半のながめを語らなむみやこの山にかかる月かげ
あずまじのよわのながめをかたらなむみやこのやまにかかるつきかげ
  詩を歌にあはせ侍りしに山路秋行といふことを
立田山秋行く人の袖を見よ木木のこずゑはしぐれざりけり
たつたやまあきゆくひとのそでをみよきぎのこずえはしぐれざりけり 隠
  百首歌奉りし旅歌
さとりゆくまことの道に入りぬれば戀しかるべき故郷もなし
さとりゆくまことのみちにいりぬればこいしかるべきふるさともなし 隠

第十一 戀歌一
  百首歌奉りし時よめる
わが戀は松を時雨の染めかねて眞葛が原に風さわぐなり
わがこいはまつをしぐれのそめかねてまくずがはらにかぜさわぐなり 隠

第十三 戀歌三
  攝政太政大臣家百首歌合に契戀のこころを
ただ頼めたとへば人のいつはりを重ねてこそは又も恨みめ
ただたのめたとえばひとのいつわりをかさねてこそはまたもうらみめ

第十四 戀歌四
  (攝政太政大臣)家百首歌合に
心あらば吹かずもあらなむよひよひに人待つ宿の庭の松風
こころあらばふかずもあらなむよいよいにひとまつやどのにわのまつかぜ
  戀の歌とてよみ侍りける
わが戀は庭のむら萩うらがれて人をも身をあきのゆふぐれ
わがこいはにわのむらはぎうらがれてひとをもみをもあきのゆうぐれ 隠
  攝政太政大臣家百首歌合に尋戀
心こそゆくへも知らね三輪の山杉のこずゑのゆふぐれの空
こころこそゆくえもしらねみわのやますぎのこずえのゆうぐれのそら 隠
  暁戀のこころを
暁のなみだやそらにたぐふらむ袖に落ちくる鐘のおとかな
あかつきのなみだやそらにたぐうらむそでにおちくるかねのおとかな 隠

第十五 戀歌五
  水無瀬の戀十五首の歌合に
野邊の露は色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻の上風
のべのつゆはいろもなくてやこぼれつるそでよりすぐるおぎのうわかぜ 隠

第十六 雜歌上
  春頃大乗院より人に遣はしける
見せばやな滋賀の唐崎ふもとなるながらの山の春のけしきを
みせばやなしがのからさきふもとなるながらのやまのはるのけしきに 隠
  題しらず
柴の戸に匂はむ花はさもあらばあれ詠めてけりな恨めしの身や
しばのとににおわむはなはさもあらばあれながめてけりなうらめしのみや 隠
  五十首歌奉りし時
おのが浪に同じ末葉ぞしをれぬる藤咲く田子のうらめしの身
おのがなみにおなじすえばぞしおれぬるふじさくたごのうらめしのみや 隠
  五十首歌奉りしに山家月のこころを
山ざとに月は見るやと人は來ず空ゆく風ぞ木の葉をも訪ふ
やまざとにつきはみるやとひとはこずそらゆくかぜぞこのはをもとう 隠
  攝政太政大臣大將に侍りし時月歌五十首よませ侍りけるに
有明の月のゆくへをながめてぞ野寺の鐘は聞くべかりける
ありあけのつきのゆくえをながめてぞのでらのかねはきくべかりける 隠
  五十首歌召しし時
秋を經て月をながむる身となれり五十ぢの闇をなに歎くらむ
あきをへてつきをながむるみとなれりいそじのやみをなになげくらむ 隠
  和歌所の歌合に海邊月といふことを
和歌の浦に月の出しほのさすままによる啼く鶴の聲ぞかなしき
わかのうらにつきのでしほのさすままによるなくたずのこえぞかなしき 隠

第十七 雜歌中
  五十首歌よみて奉りしに
須磨の關夢をとほさぬ波の音を思ひもよらで宿をかりける
すまのせきゆめをとおさぬなみのねをおもいもよらでやどをかりける 隠
  題しらず
世の中を心高くもいとふかな富士のけぶりを身の思にて
よのなかをこころたかくもいとうかなふじのけむりをみのおもいにて 隠
  五十首歌奉りし時
花ならでただ柴の戸をさして思ふのおくもみ吉野の山
はなならでただしばのとをさしておもふこころのおくもみよしのやま 隠
  題しらず
山ざとに獨ながめて思ふかな世に住む人のこころながさを
やまざとにひとりながめておもうかなよにすむひとのこころながさを
  題しらず
草の庵をいとひても又いかがせむ露のいのちのかかる限りは
くさのいをいとひてもまたいかがせむつゆのいのちのかかるかぎりは 隠
  山家歌數多くよみ侍りけるに
山里に訪ひ來る人のことぐさはこのすまひこそうらやましけれ
やまざとにといくるひとのことぐさはこのすまいこそうらやましけれ
  題しらず
岡のべの里のあるじを尋ぬれば人は答へず山おろしの風
おかのべのさとのあるじをたずぬればひとはこたえずやまおろしのかぜ 隠

第十八 雜歌下
  五十首歌奉りし時
世の中の晴れゆく空にふる霜のうき身ばかりぞおきどころなき
よのなかのはれゆくそらにふるしものうきみばかりぞおきどころなき 隠
  例ならぬ事侍りて無動寺にてよみ侍りける
頼み來しわが古寺の苔の下にいつしか朽ちむ名こそ惜しけれ
たのみこしわがふるでらのこけのしたにいつしかくちむなこそおしけれ 隠
  題しらず
思はねど世を背かむといふ人の同じ數にやわれもなりなむ
おもわねどよをそむかむというひとのおなじかずにやわれもなりなむ
  述懷のこころをよめる
なにごとを思ふ人ぞと人問はば答へぬさきに袖ぞ濡るべき
なにごとをおもうひとぞとひととわばこたえぬさきにそでぞぬるべき 隠
  述懷のこころをよめる
いたづらに過ぎにし事や歎かれむうけがたき身の夕暮の空
いたずらにすぎにしことやなげかれむうけがたきみのゆうぐれのそら 隠
  述懷のこころをよめる
うち絶えて世に經る身にはあらねどもあらぬ筋にも罪ぞ悲しき
うちたえてよにふるみにはあらねどもあらぬすじにもつみぞかなしき
  和歌所にて述懷のこころを
山里に契りし庵や荒れぬらむ待たれむとだに思はざりしを
やまざとにちぎしりいおやあれぬらむまたれむとだにおもわざりしを 隠
  五十首歌の中に
思ふことなど問ふ人のなかるらむ仰げば空に月ぞさやけき
おもうことなどとうひとのなかるらむあおげばそらにつきぞさやけき 隠
  五十首歌の中に
いかにして今まで世には有明のつきせぬものを厭ふこころは
いかにしていままでよにはありあけのつきせぬものをいとうこころは 隠
  西行法師山里より罷り出でて昔出家し侍りしその月日にあひ當りて侍るなど申したりける返事に
うき世出でし月日の影の廻り來てかはらぬ道をまた照らすらむ
うきよいでしつきひのかげのめぐりきてかわらぬみちをまたてらすらむ 隠
  題しらず
世の中を今はの心つくからに過ぎにし方ぞいとど戀しき
よのなかをいまわのこころつくからにすぎにしかたぞいとどこいしき 隠
  題しらず
世を厭ふ心の深くなるままに過ぐる月日をうち數へつつ
よをいとうこころのふかくなるままにすぐるつきひをうちかぞえつつ 隠
  題しらず
一方に思ひとりにし心にはなほ背かるる身をいかにせむ
ひとかたにおもいとりにしこころにはなおそむかるるみをいかにせむ 隠
  題しらず
何故にこの世を深く厭ふぞと人の問へかしやすくこたえむ
なにゆえにこのよをふかくいとうぞとひとのとえかしやすくこたえむ
  題しらず
思ふべきわが後の世はあるか無きか無ければこそは此の世には住め
おもうべきわがのちのよはあるかなきかなければこそはこのよにはすめ 隠
  百首歌奉りしに
いつかわれみ山の里の寂しきにあるじとなりて人に問はれむ
いつかわれみやまのさとのさびしきにあるじとなりてひとにとわれむ 隠

第十九 神祗歌
  神祇歌とてよみ侍りける
やはらぐる光にあまる影なれや五十鈴河原の秋の夜の月
やわらぐるひかりにあまるかげなれやいすずかわらのあきのよのつき 隠
  十首歌合の中に神祗をよめる
君を祈るこころの色を人問はばただすの宮のあけの玉垣
きみをいのるこころのいろをひととわばただすのみやのあけのたまがき 隠
  最勝四天王院障子に小鹽山かきたる所を
小鹽山神のしるしをまつの葉に契りし色はかへるものかは
おしおやまかみのしるしをまつのはにちぎりしいろはかえるものかは 隠
  日吉社に奉りける歌の中にニ宮を
やはらぐる影ぞふもとに雲なき本のひかりは峯に澄めども
やわらぐるかげぞふもとにくもりなきもとのひかりはみねにすめども 隠
  懷述のこころを
わがたのむ七のやしろの木綿襷かけても六の道にかへすな
わがたのむななのやしろのゆうだすきかけてもむつのみちにかえすな 隠
  懷述のこころを
おしなべて日吉の影はくもらぬに涙あやしき昨日けふかな
おしなべてひよしのかげはくもらぬになみだあやしききのうきょうかな 隠
  懷述のこころを
もろ人のねがひをみつの濱風にこころ涼しきしでの音かな
もろひとのねがいをみつのはまかぜにこころすずしきしでのおとかな 隠
  北野にてよみて侍りける
覺めぬれば思ひあはせて音をぞ泣く心づくしのいにしへの夢
さめぬればおもいあわせておとをぞなくこころづくしのいにしえのゆめ 隠

第二十 釋教歌
  述懷の歌の中に
願はくはしばし闇路にやすらひてかかげやせまし法の燈火
ねがわくはしばしやみじにやすらいてかかげやせましのりのともしび 隠
  述懷の歌の中に
説くみ法きくの白露夜は置きてつとめて消えむ事をしぞ思ふ
とくみのりきくのしらつゆよはおきてつとめてきえむことをしぞもう 隠
  述懷の歌の中に
極楽へまだわが心ゆきつかずひつじの歩みしばしとどまれ
ごくらくへまだわがこころゆきつかずひつじのあゆみしばしとどまれ 隠
  法華經二十八品歌よみ侍りけるに方便品唯有一乗法のこころを
いづくにもわが法ならぬ法やあると空吹く風に問へど答へぬ
いずくにもわがのりならぬのりやあるとそらふくかぜにとえどこたえず 隠
  法華經二十八品歌よみ侍りけるに化城喩品化作大城郭のこころを
思ふなようき世の中を出で果てて宿る奥にも宿はありけり
おもうなようきよのなかをいではててやどるおくにもやどはありけり 隠
  法華經二十八品歌よみ侍りけるに分別功德品惑住不退地のこころを
鷲の山今日聞く法の道ならでかへらぬ宿に行く人ぞなき
わしのやまきょうきくのりのみちならでかえらぬやどにゆくひとぞなき 隠
  法華經二十八品歌よみ侍りけるに普門品心念不空過のこころを
おしなべてむなしき空とおもひしに藤咲きぬれば紫の雲
おしなべてむなしきそらとおもいしにふじさきぬればむらさきのくも 隠
  五百弟子品内秘菩薩行のこころを
いにしへの鹿鳴く野邊のいほりにも心の月はくもらざりけり
いにしえのしかなくのべのいおりにもこころのつきはくもらざりけり 隠

三つの西行寺探訪

$
0
0
【九里】を探して三千里様のblogの西行寺 二つ地図の中にあります。で紹介されておりました古地図の現在の場所を訪ねます。

1 西行寺その一(町尻二条北)
この大路は、二条大路であり、西洞院大路と東洞院大路の間に有る町尻、室町、烏丸小路から、町尻は今の新町通に当たる。
町尻を調べると、平安時代は、町尻小路、町小路、町口小路と呼ばれ、およそ元亀の頃から天正初年頃の1570年代前半頃に新町通名称が変わったと推計されている。
西行寺の東向には、大恩寺と言う寺が有り、これは今も町名として残っている。

従って、西行寺はその西向と言う事になり、現在は次の写真の通りである。


2 西行寺その2(三條坊門室町西)
同じ通に三条坊門内裏が有り、南東はす向の円福寺は今も町名が残っており、御池通と分かる。

西行寺の向は「二条ドノ下亭」とあり二条殿の事。
従って、室町通の西側となる為、下の写真の場所となる。

しかし、以前調べた西行水は円福寺町に有るため、その近隣に寺を建てたのかも知れない。


3 西行寺その3(鳥羽)
鳥羽院の北面の武士であった西行も鳥羽離宮に出向く必要があったと考えられ、多くの近臣と同じく鳥羽にも屋敷を構えたであろう。
その時代の歌に、
伏見過ぎぬ岡の屋になほとゞまらじ日野までゆきて駒こころみむ 
と鳥羽から日野までの乗馬の武勇を歌にしている。
鳥羽の西行寺跡は、石碑になっており、京都市の碑紹介の西行寺址で詳しく記載されている。
現在は、阪神高速道の西で、自動車の騒音が激しい。


4 西行庵
出家後は、京都近郊の寺で修業している事が山家集の記載で分かっている。大原、嵯峨野、嵐山は鞍馬山等であるが、西行物語では、東山の雙林寺で亡くなった(実際は河内の弘川寺)と有る。
江戸時代に刊行された京都羽二重、巻二には、
西行法師屋敷 嵯峨法輪寺の南に山田と伝へる所是也。今に泉水の跡あり。又二尊院惣門の入口藪の内をも古へ西行住し所となん。
と有る。


二尊院西行庵
秋の末に法輪寺にこもりてよめる
我がものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより

江戸時代の文化人にとって西行は、特別な存在として、興味深く調べ、伝承を探して、残して来たのであろう。

志賀越道の推定 彷徨編4

$
0
0
 崇福寺跡

(6)田の谷峠県道30号ルート
比叡平は比叡山の窪地で、別荘地として開発されたが、住宅地に転用されて行ったとのこと。
山中町から比叡平への道は、車道を通す為に、結構山を切り崩した形跡が見られる。
田の谷の地名が有るとおり、窪地なので水が溜まる湿地で、今も池があって昔は、池を迂回した丘を通ったのかも知れない。

戦国時代の多聞院日記の永禄十三年に
内々三井寺、大津、松本可有見物之通ナルニ、今度今道北、ワラ坂南、此二道ヲトメテ、信長ノ内、森ノ山左衛門城用害、此フモト二新路ヲコシラヘ、是ヘ上下ヲトヲス、余ノ道ハ堅トヾムル故、三井寺へ通ル物ハ道ニテ剥取ト申間、乍思不参見、渡了、残多者也、新路ノ大ナル坂ヲ超ヘテ、山中ト云所ヲ通リ、白川ヘ出、東山ノ辺ヲ通ル
とあり、信長家臣の森可成が新路として宇佐山城の麓を通したと有る。
宇佐山城は、琵琶湖西岸、比叡山を見渡せる場所に有り、京へ通じる道があれば、浅井朝倉比叡山の動きにいち早く対応出来て、大変有利となる。
宇佐山城跡への登城道は既に無く、城跡にはNHKの電波塔が建っている。
京阪グループが昭和33年に開通させた比叡山ドライブウェイ料金所辺りが田の谷峠となる。
県道30号山中越の途中は、なだらかな傾斜となり、京都府道とは異なり、道路幅も十分取っている。
途中の鉄塔や墓地から山を見渡しても歩けるような道は無い。
小川が山から流れている場所が有るが、道が細く歩けなくなる。

実は、志賀峠越の志賀里の山中に有る馬頭観音から県道30号は80mしか離れておらず、崖を降りる道らしいものも有るが、個人の敷地内でも有り、何年も人が通った形跡も無く、歩行を断念した。



(7)坂本城地蔵谷ルート
坂本城は、比叡山焼き討ちの後、明智光秀が織田信長から、比叡山監視の為築城を命じられたものである。

坂本城址から京阪神石山坂本線穴太駅北、墓場の中を過ぎ、大津市野添古墳群がある。

更に進むと、念仏碑が有り、ここから山道となる。

四谷川に沿った山道は比較的なだらかで、物資や軍隊を動かすには丁度良い。
途中道が二つに別れており、右の道を更に登ると東海自然歩道に出る。


ここから左の坂を登ると夢見が丘へ、右の坂を登ると桜茶屋跡へ行く、所謂白鳥越である。
この坂は、牛馬の輸送は無理である。

桜茶屋跡と言うかつてあった茶屋を過ぎ、無動寺・弁天堂道を行くとドライブウエイの下にトンネルが有り、一乗寺へ向かう林道が有る。場所は一乗寺病ダレと言う変な地名である。本当の地名を忌み、伏せたのかも知れない。この一帯は、一乗寺某と言う地名が多数有る。人が住んでいる訳でも無いが、かつては地名を付ける必要が有る程人の往来があったという記録で有ろう。宮本武蔵の一乗寺下り松から一乗寺駅まで一乗寺では有るが、一乗寺は応仁の乱で荒廃している。
一乗寺の山間部の町名
池ケ谷、井手ケ谷、井手ケ谷エノ木ケ尾、井手ケ谷菖蒲平、井手ケ谷ススガ平、井手ケ谷調専口、馬坂、厩ケ谷、延暦寺山、大谷、掛橋、北高山、黒目ケ谷、坂端、三百坊、地獄谷、シ谷、城、砂坂、勢ケ谷、天ケ丸、長尾、中尾ケ谷、西楽ケ谷、ヌノ滝、花ケ谷、東楽ケ谷、風呂ケ谷、ボケ谷、堀切、松原町、南高山、ヤケ谷、病ダレ、艾谷、割ケ谷
と異常に多い。しかも住民は松原町以外は居ない。

舗装された林道なので楽である。


途中、東塔に向かう道と明治10年建立の道標が有り、月吉大明神を祭った祠が鎮座している。

音羽川沿の道を暫く行くと「京都トレイル東山67石鳥居」と言う場所に着く。

①京都トレイルに従って右の坂を降りて登ると「水飲対陣之跡碑」に出て雲母坂に至る。


②本来行くべき左の鳥居を行くと落ち葉がうず高く積もっており、道もほとんど無い。
川を渡る橋が有り、少しは行けるのだが、先は山越えで藪が多く断念。通った記録がホームページにあったが、5年も前であった。
川沿を行こうとしたが、最近土砂崩れがあったらしく、倒木が道を塞いでいるためにこちらも断念。


地蔵谷へのルートで鳥居も有る事から、こちらがかつての主道と思われるが、燈籠の残骸が散見されるなど、かなり前に廃道近い状態になったと推察される。
③尾根伝いに整備された道を行くと瓜生山に至る。里に近付くにつれ、道が狭くなり、途中崖崩れもあって、人一人がやっと通れる場所も有る。山側から道を整備した林道だと思われる。
瓜生山は、戦国時代は京都を一望出来る為、永正十七年細川高国が将軍山城、別名瓜生城を築いた。明智光秀入城以降は廃城になったと思われる。

瓜生山からは少し下ると、石切場跡や江戸時代の文人書家の白幽子が隠棲した場所に出る。

この碑の裏を右に廻る道とそのまま坂を降りる道を行くと神社、パプテスト病院に出る。最初に訪れた時は道を失い、道の無い急な坂を降りてしまった。

瓜生山頂上に有る御堂は、狸谷不動院の奥之院であり、幸竜大権現を祭っている。裏には、細川高国が勝軍地蔵を祭った祠が有るが、今は里に下ろされ信仰されている。

奥之院を囲むように不動明王の使者である三十六童子が祭られているが、道が削られ危険な箇所も有る。
不動院へ降りる道を探したが見つからず、やっと急な坂道を見つけて降りる事が出来た。

志賀越道の推定 考察編

$
0
0
(1)江戸時代の地誌
北村季吟が著した菟藝泥赴の北白河の項には、


(2)明治時代の古地図
県道30号山中越道や比叡山ドライブウェイが出来る前はどうであったか明治18年10月編製の「滋賀縣滋賀郡里程圖」の地図を見ると、南滋賀と志賀里から伸びる山中越と坂本から比叡山を登る雲母越の二本しか記録されていない。
山中越の地図から、今の志賀峠~山中町を示している。

つまり明治期になるとこのルート以外は廃れて、林業従事者など以外は利用していなかったと推察される。

(3)日本後紀の嵯峨天皇行幸
前述の嵯峨天皇の行幸を記録した日本後紀によると
日本後紀弘仁六年四月十二日
近江國滋賀韓崎に幸す。便ち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠、護命法師等衆僧を率い門外に迎え奉る。皇帝輿を降り堂に昇り佛を禮す。更らに梵釋寺を過ぐ。輿を停めて詩を賦す。
と有る。その詩は前述の通り、文華秀麗集「梵釋寺に過ぎる一首 御製」と残っている。
崇福寺跡を発掘した考古学的調査によれば、「この南の尾根上の建物と北・中尾根上の建物群では、建物の方位や敷石の形状が異なることや南の尾根上の建物群周辺からは白鳳時代の遺物が出土しないことから、現在では南の尾根上建物群を桓武天皇によって建立された梵釈寺に、北・中の尾根上の建物群をあてる説が有力視されています。」としている。つまり崇福寺弥勒仏を祭った本堂は北尾根の場所に、梵釈寺を南尾根にあった事になる。

前述の日本後紀の行幸記載は、崇福寺→梵釈寺である。
とすると、今の志賀峠経由では無く、東海自然歩道を通って来ないと辻褄が合わなくなる。

(4)弁天道夢見が岡ルート
最近大量の土砂が流れ、先を行く事を断念した弁天道燈籠の先には林道が整備されており、よじ登って見ると、後は歩きやすく、夢見が岡に到達した。


小川や水無川とはいえ、一度大雨が降ると地形は変化し、これが数百回程度は繰り返されていると想像できる。大量の土砂が流れる500年前を想像して見ると、ここなら鳳輿が通過出来る。

夢見が岡からは、東海自然歩道を行けば良い。今は細くなっているが、昔はもっと広く、周りの土砂が流れ出る前は広かったのでは無いだろうか。

国土地理院地図には、東海自然歩道の坂以外に、今は砂防ダムに遮られているが、小さな小川沿いに道が有る。傾斜は東海自然歩道より緩やかである。500年前はもっと緩やかであったと思われる。
ここを通過するなら、東海自然歩道の急な坂を通過しなくても崇福寺に到達出来る。

(5)志賀越道
未踏の箇所も有るが、消去法を加え、以上のルート検索により、山中を越え、弁天道燈籠を過ぎ、弁天道西を通って夢見が岡、小川に沿って坂を降り、東海自然歩道により崇福寺北・中尾根の間を行く。
このルートを古代志賀越道と推察する。

嵐山 西行庵

$
0
0

ひとりすむ庵に月のさしこすは

  なにか山辺の友にならまし 西行


山家集
題しらす
ひとりすむいほりに月のさしこすはなにか山への友にならまし

ひとりすむいほりにつきのさしこすはなにかやまべのともにならまし

二尊山 西光寺
京都市西京区嵐山山田町1

京羽二重
西行法師屋敷 嵯峨法輪寺の南に山田と伝へる所是也。今に泉水の跡あり。又二尊院惣門の入口藪の内をも古へ西行住し所となん。

新古今女人秀歌 蔵書

$
0
0

新古今女人秀歌



著者:清水乙女
初版:昭和50年7月10日
発行:愛育出版

雑誌「篁」に掲載されたもの。

式子内親王
和泉式部
小野小町
赤染衛門
伊勢
相模
俊成女
宮内卿
紫式部
伊勢の大輔
周防内侍
二条院讃岐

隠岐本新古今和歌集合点による原型の推理

$
0
0


原型の推察
後鳥羽院は、隠岐本識語によれば「かずのおおほかるにつけてはうたごとにいうなるにしもあらず。」として二千首の膨大な歌の全てが良いわけでは無く、特に「そのうち、みづからが哥をいれたること三十首にあまれり。」と自分の歌が、「いかでか集のやつれをかへりみざるべき。」と集のやつれを引き起こしていると考えた。
つまり、残したい歌を選んだのではなく、削除したい歌を選んだのである。
これを先者の一人である藤原家隆に送って、評価を勅したものと考える。後鳥羽院自らの親撰とは言え、あくまでも撰者が選ぶのが勅撰集であるとの考えかも知れない。
しかし、家隆の息隆祐筆の伝本天理大学図書館蔵の新古今和歌集の奥書には、
此本是後鳥羽院於隠岐手自有御選定而家隆卿之許被送遺也。此号御選定本仍彼卿自筆書寫之而取止置家也。朱合点之外皆除之云々。
と有り、「朱合点の外、皆これを除く云々」となっている事から、残された歌に朱合点が付されていた事になる。
しかし、「彼の卿自筆で之を書寫し、而して家に取り止置し也」と隆祐が見たものは、家隆が後鳥羽から送られたものを書写して、家に保存したものである。
又、同奥書きから、後鳥羽院の追号は仁治3年(1242年)7月であり、藤原家隆も既に嘉禎3年4(1237年)に亡くなっており、藤原隆祐は死没した建長3年(1251年)以後までの約10年の間に隆祐が書写された事となる。

一方、奥書から六条宮系と呼ばれるものがあり、同じく承久の変で但馬に流された六条宮雅成親王(正治2年 - 建長7年)のもとに送られた系統である。その奥書には、
此程以六條宮御本寫之。重被撰定旨尤以龜鏡也。其時所被出之哥以朱消者是也。此外猶與書本相違事等有之以朱所直註皆寫彼御本者也。
と六条宮本で校合する際、朱消が写し入れられたとしている。

後藤重郎の「数が少ないといふ便宜的措置」以外に、消す理由は考えられないだろうか。
そこで、
一 後鳥羽院は、自らの歌を含め、劣った歌を削りたかった。従って削る歌に合点を付した。
二 後鳥羽院は、この撰集抄を撰者の家隆に送り、評価を勅した。
三 家隆は、削られた歌の中から残すべき歌に合点を付し隠岐に送り返した。家隆は撰者であるから、残すべき歌に合点を付して家に残した。
四 途中、但馬にいる六条宮の元に送られ、六条宮はこれを書写してから隠岐に送られた。猶、六条宮が書写したのは、京に送られて来た時かも知れない。
五 又、隠岐には、和歌所の寄人として、清書を担当した藤原清範が同行しており、隠岐で残した歌のみを清書させ、隠岐本序を加え完成したと考えて良い。
六 この本を後から校合した者は、隠岐本合点を付した為、隠岐本序の位置に困り、識語の前に入れたので隠岐本識語とも読んだ。
七 書写の途中で後鳥羽院が崩御し、隠岐本の完成を見ずに上巻のみ完成した。
と言う説を考えた。異論の出る余地は無いが、正論と言う証拠は無い。

宮内庁書陵部本の原本は、上冷泉家時雨亭文庫を書写したものである。
何故隠岐本が上冷泉家にあったのかは不思議でしかない。冷泉家は、御子左家の書籍を相続し、本家の二条家もその撰者を争った京極家も受け継ぐ事が出来なかった。
定家は、後鳥羽院と断絶しており、為家は順徳院に贔屓にされ、佐渡へ同行を勅名されたが拒否している。
後鳥羽院隠岐本を入手すべが無い。
或いは、京極為兼が流罪となった時に、既に後鳥羽院隠岐本を書写していた書籍も相続したのかも知れない。

切入歌の推定 明月記五月四日慈円歌5

$
0
0

隠岐本合点とは、承久の変の後、後鳥羽院は隠岐に流され、新古今集の約二千首の内、約四百首を破棄した所謂隠岐本の印であり、棄除した歌、残置した歌に合点があるもの、その両方があるもの、そして残された歌だけのものの四種類がある。
それは、後鳥羽院の嗜好を示している。これは、有る意味竟宴後に切り入れを命じた歌と同じである。
慈円歌の九十二首の場合、かなり隠岐本に残されているが、勿論これも異本により差違がある。(惣持坊行助筆参照)

隠岐本の内、最も信頼性が有るのは、残された歌のみの冷泉家時雨亭文庫本ではあるが、巻第一~十までの上巻のみである。
時雨亭文庫本の慈円隠岐本歌は、
春歌上 1首
夏歌  6首
秋歌上 6首
秋歌下 7首
冬歌  8首
哀傷歌 7首
羇旅歌 2首
の37首である。

巻第十一~二十は、各異本により異なり、合点印が全く無い巻も有る。
烏丸本は、付箋によるが、長い歴史の中で剥がれてしまった歌もある。
これを久保田淳が集計した全評釈第九巻によると
烏丸本
恋歌一 0首
恋歌三 0首
恋歌四 0首
恋歌五 0首
雑歌上 5首
雑歌中 1首
雑歌下 8首
神祇歌 4首
釈教歌 4首
の23首となる。

これに、同じく久保田氏が集計した小島吉雄氏の新古今和歌集の研究で加えた歌は、
恋歌四 +3首
恋歌五 +1首
+4首で27首。

同じく穂久邇文庫蔵伝二条為氏本では
恋歌一 +1首
雑歌上 +2首
雑歌中 +4首
雑歌下 +6首
神祇歌 +1首
釈教歌 +3首
+17首計43首となる。

その他柳瀬本では
恋歌一 1首
恋歌三 0首
恋歌四 3首
恋歌五 1首
雑歌上~釈教歌 闕
の一部闕となっているが、5首。

又、小宮本では
恋歌一 1首
恋歌三 0首
恋歌四 2首
恋歌五 1首
雑歌上 7首
雑歌中 5首
雑歌下 13首
神祇歌 8首
釈教歌 8首
の45首となる。

為氏本と小宮本では、
神祇歌 3首
釈教歌 1首
が為氏本には合点が無いが、小宮本にはあり、
恋歌四 1首
雑歌下 1首
が、為氏本には有るが、小宮本には無い。

為氏本、柳瀬本と小宮本に共通して合点が無いのは、
95春歌上 建仁元年仙洞句題五十首
942羇旅歌 六百番歌合
1223恋歌三 六百番歌合
1311恋歌四 六百番歌合
1656雑歌中 南海漁夫北山樵客百首歌合
1669雑歌中 南海漁夫北山樵客百首歌合
1745雑歌下 慈鎮和尚自歌合
1826雑歌下 南海漁夫北山樵客百首歌合
となっている。

参考
新古今和歌集 全評釈第九巻 久保田淳箸 講談社
隠岐本新古今和歌集 三矢重松、折口信夫、武田祐吉箸 岡書院
新古今和歌集 日本古典文学体系 28久松潜一、山崎敏夫、後藤重郎 校注 岩波書店

切入歌の推定 明月記五月四日慈円歌6

$
0
0


4 撰者以外の撰者
新古今和歌集の撰者5人以外に歌を切入、切出したのは勅命した後鳥羽院ではあるが、他にも意見を言える者はいるだろうか。
実は一人だけいる。藤原良経摂政太政大臣である。良経は後鳥羽院より11歳年上で、建久七年の政変で蟄居させられていた所を許され、土御門院の摂政に任じられ、藤氏長者の内覧を取り戻した。良経は叔父の慈円から和歌を習った為、慈円の歌は熟知している。
実際、明月記によれば、元久二年三月二十四日に九条流の祖の天徳(九条)入道右大臣藤原師輔の歌が撰歌されていないのは残念と言って定家、家隆に撰歌させている。尤も後鳥羽院はこの歌を気に入らなかったらしく、隠岐本では削除されている。
また、同じく四月十五日には良経の意見により定家の歌を3首切り出され、4首切り入られている。
更に新古今和歌集の切入れ、切出しが一段落してから良経に預けられ、清書をする事となったが、それぞれの疑問の箇所に付箋を打って、定家らに返答するように後鳥羽院から勅命されている。
考えるに、例えば自らが主催した六百番歌合の歌に漏れが有れば、何故漏れたのかと質問が出来る。(実質入れろと命じたに等しい。)
又、法華経二十八品歌で1首漏れたのは何故かと問えば、後鳥羽院なら入撰を命じるだろう。
そう考えると
1330恋歌四 六百番歌合
1943釈教歌 法華経二十八品歌
は九条良経が撰歌を命じた可能性がある。

参考
訓読明月記  第2巻
今川 文雄 訳 河出書房新社

俊頼髄脳 一言主

$
0
0
岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城の神
この歌は、葛城の山、吉野山とのはざまの、はるかなる程をめぐれば、事のわづらひのあれば、役の行者といへる修行者の、この山の峰よりかの吉野山の峰に橋を渡したらば、事のわづらひなく人は通ひなむとて、その所におはする一言主と申す神に祈り申しけるやうは、
神の神通は、仏に劣ること無し。凡夫のえせぬことをするを、神力とせり。願はくは、この葛城の山のいただきより、かの吉野山のいただきまで、岩をもちて橋を渡し給へ。この願ひをかたじけなくも受け給はば、たふるにしたがひて法施をたてまつらむ
と申しければ、空に声ありて、
我この事を受けつ。あひかまへて渡すべし。ただし、我がかたち醜くして、見る人おぢ恐りをなす。夜な夜な渡さむ
とのたまへり。
願はくは、すみやかに渡し給へ
とて、心経をよみて祈り申ししに、その夜のうちに少し渡して、昼渡さず。役の行者それを見ておほきに怒りて、
しからば護法、この神を縛り給へ
と申す。護法たちまちに、葛をもちて神を縛りつ。その神おほきなる巌にて見え給ば、葛のまつはれて、掛け袋などに物を入れたるやうに、カひまはざまもなくまつはれて、今はおはすなり。

平家物語の中の新古今和歌集 大宰府安楽寺

$
0
0
延慶本平家物語
安樂寺由來事付霊験無雙事
サレバ今ノ平家滅給テ後、文治之比、伊登藤内、補鎭西九國之地頭、下リタリケルニ、其郎從ノ中ニ、一人下郎、無法ニ安樂寺ヘ亂レ入テ御廟ノ梅ヲ切テ、宿所ヘ持行テ薪トス。其男即長死去シヌ。藤内驚テ、御廟ニ詣テヲコタリヲ申。通夜シタリケルニ、御殿ノ内ニケ高キ御音ニテ、

情ナク切人ツラシ春クレバ主ワスレヌヤドノウメガヘ

不思議ナリシ御事也。


新古今和歌集巻第十九
  神祇
情なくおる人つらしわが宿のあるじ忘ぬ梅のたち枝を
  この哥は建久二年の春の比つくしへまかれ
  りけるものゝ安楽寺の梅をおりて侍ける夜
  の夢に見えけるとなむ

安楽寺は大宰府天満宮の事。

平家物語の中の新古今和歌集 冤罪

$
0
0
延慶本平家物語
安樂寺由來事付霊験無雙事
此後カクテ露ノ御命、春ノ草葉ニスガリツヽ、イキノ松原ニ日ヲフレバ、山郭公ノ音闌テ、秋ノ半モ過ニケリ。
サテモ九月始ノ比、去年ノ今夜ノ菊ノ宴ニ、清涼殿ニ侍テ、叡感之餘リニ、アヅカリ給シ御衣ヲ取出テヲガミ給トテ、幽思キワマラズ、愁腸タヘナムトシテ、作ラセ給ケル詩トカヤ。

恩賜ノ御衣今在此ニ。捧ゲ持テ終日拝ス餘香。

サリトモト世ヲ思召ケルナルべシ。月ノ明ナリケル夜。

海ナラズ堪フル水ノ淵マデニ清キ心ハ月ゾテラサン


新古今和歌集巻第十八
  雑歌下
 海   菅贈太政大臣
海ならずたたへる水の底までに清きこころは月ぞ照らさむ

元久詩歌合の出題に関する疑問

$
0
0
元久二年六月十五日に披講された元久詩歌合の出題について、明月記を読むの解説の中で田渕句美子氏は明月記四月二十九日の条「可被合詩歌之由被議定。出題歌人可催之由蒙仰退出。」を「出題と歌人の選定は名目上定家に任された。」(同六〇頁中段)とある。

この時居たのは、良経(詩)、慈円(歌)、長兼(詩)、定家(歌)であり、良経が言ったので、決定権は慈円に有る。中将と言う低い身分の定家が決定する事はあり得ない。
又、この詩歌合への出詠に定家は「今度歌殊不得風情、定見苦歟」(五月十二日条)とこの題は得意とするものではなかった。

定家は、この選定に同意が出来た程度であろう。そして直ぐに歌人達に詩歌歌合の開催と題を送る役割を担ったに過ぎないと推察する。

新古今増抄 かささぎの渡せる橋

$
0
0

新古今増抄(寛文三年板本)

    冬

 新古今和哥集巻第六

                      一中納言家持

一かさゝぎのわたせる橋にをく霜の白をみればよぞ更にける

増抄云、かやうの哥は百人一首などの抄にくはしくあり。由略之。人毎に百人一首し
らぬ人の、新古今などみるにはあらずありければなり。然どもかさゝぎのはしとは、天し
の事也。七月七日有事なれば、時節のたがひたるとうたがふ事有り。これは七月七日し
の事なるが空にての事なりければ、則其そらの異名と成也。空に霜がみち/\てしろし
くさゆるをみれば、よりふけたる故ぞとなり。このうた他派の百人一首の五哥の口決し
有事也。

加藤磐斎 寛文三年(1662年)

Viewing all 4234 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>