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Channel: 新古今和歌集の部屋
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翁草 宝永の大火

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翁草 神沢杜口

○京洛火并禁裏炎上の事
百十四代東山院御宇宝永五戊子年三月八日午の刻に京都油小路通三条上る町西側北より二軒目伊勢屋市兵衛と申者の方より出火折節坤(ヒツジサル)風強く須臾(シバラク)の間に艮(ウシトラ)の方へ焼漫(ヒロゴ)り禁裏院中其外御所々々一時に猛火を吹かくれば所司代松平紀伊守以下主上上皇を守護し奉りて下鴨へ臨幸なし奉る処にはや下鴨河合社に飛火して社家も同時に燃上れば又俄に鳳輦(ホウレン)をうながし上加茂へ移らせ玉ふ。前代未聞の事共なり。夫より風替り北風となり寺町の弓手馬手をまた南の方へ焼戻り翌九日中の下刻に焼留る。

竪町焼亡の分
 油小路通 北は丸太町上る東側南は綾小路下る町 小川通 北は下売立下る町南は六角通
 西洞院 北は下売立下る町南は六角通 釜座通 北は下売立下る町南は三条行当迄

 河原町通 北は荒神口南は二条下る町迄 土手町通 北は荒神口南不残
中筋焼亡の分
 搭の段の内五町寺町新地并立本寺後枡形不残 今出川通 寺町より西へ二町

 錦小路通 西は東洞院東は寺町
 凡南北二十余町東西十一町
一、禁裏 仙洞 春宮御所 中宮御所 女院御所 大准后御所 公家衆九十五軒
一、下鴨の内河合社并社家大方焼
一、町数四百十七町 一万三百五十一軒
  寺数四十八ヶ寺 道場三十五ヶ寺 社数三十六社 内大社分 中御霊 下御霊 幸神 神明 御所八幡
一、大名屋敷二十一軒
 紀州水戸 会津図書 上杉民部大輔 木下右衛門太夫

 右之通類焼也。…
 
宝永の大火
宝永五年(1708年)年三月八日の未明に発生した大火です。油小路通姉小路下る宗林町の銭屋市兵衛宅から出火 。西南の風にあおられ,禁裏御所をはじめ,北は今出川通,南は錦小路通,西は油小路通,東は鴨川畔にまで火が達しました。
 この火災による被災家屋の正確な戸数はわかりませんが,禁裏や公家屋敷95軒,町数417町,家数1万351軒,寺社119か所,大名屋敷21軒が焼失したという記録もあります。

参考文献
資料京都見聞記 第四巻
編集:駒敏郎他
発行:宝蔵館

江戸時代の第一種接近遭遇

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ある老人のこんな話がある。

私はこの年になるまで格別の怪異を見たことがありません。ただ一度、不思議な事が御座いました。
早春の六日の夜、ある人の所で謡曲の会が御座いまして、私も行きました。
今年最初の会合と言う事で、お膳が列べられ席が設けられ酒闌に及びまして、真夜中過ぎ頃までになって、各皆様退散となりました。私も小さな庵に帰って戸を叩いたけれども、丑三ツ時を過ぎる頃なので、家の者もいたく寝入っているらしく、出て来るのが遅う御座いました。
暫く戸外たたずんで居る内に、ふと後を見れば、月影さわやかに両側の軒端を照し、見ている間に東側の軒の光が斜めに道路へ指し出る。時期は上旬の月なので、今頃月が出ている訳ではありません。
不思議に思って、道の中央に出て、四方の空を眺めたら、上の町の西側の棟より少し上の方に、火の玉が有って、東の方へゆっくり移動して、凧などが風に漂って行くが如くゆらゆらでした。正にその光だったんです。
暫くしてどこかへか彼の玉が行ったとみえて元の暗闇と成ました。
凡そ天火光り物の類いにはいささか音が有って、その飛び行くスピードも疾い物だと聞いておりましたのに、彼の玉は、ゆっくりとして音もなく、夜に云う人魂だろうと思いますが、そうでは無いのは、二、三町の間に光さすものでは有りません。
兎角する間に家の内より戸を開けたので、そのまま不審晴れやらぬながら家の中へ入りました。
その後、一緒に宴会場を出て、途中で別れた人々に、「この様な事が有った。見ましたか?」と尋ねたけれども一人も見てい無いと云うんです。この事今でも理解出来ないのです。


未知との遭遇で、主人公の電力会社従業員が停電の様子を調べに出掛けた時、強烈なライトを浴びるシーンが有る。
人魂の様に弱い光では無く、両側の軒場を照らし、見ている内に影が斜めに道路へ指し出たとある。
これを飛行物体からのサーチライトが差し込んだと言う説明が成り立たないだろうか?
流星であれば一瞬で直線的に流れる。しかし、凧の様に揺らめいたとすれば、現代でもUFOに分類される飛行である。
江戸時代中期の老人が書き残した物を説明しようとすればUFO第一種接近遭遇以外には無い。

あなたは、この話を信じますか?


翁草     神沢杜口
余此年迄格別の怪異を見ず。一度不審なる事ありき。早春六日の夜或人の許にて謡曲の会有て余も行ぬ。列席酒闌に及び四更の頃に至り各退散す。余も獨庵に帰りて戸を叩けども丑三ツ過る頃なれば内にはいたく寝入ていらへも遅し。暫く戸外彳居る内にふと後を見れば月影さやかに両側の軒端を照し、見るが内に東側の軒の影斜に道路へ指し出る。頃しも上旬の月今頃有べきに非ず。不思議なる儘に道の中央に出て四方の空を眺れば上の町の西側の棟より少し上の方に火の玉有て東の方へ行く事徐にして凧などの風に漂ひ行がごとし。其光りにぞ有ける。須臾にしていづちへか彼玉行とみればもとの常闇(トコヤミ)と成たり。凡天火光り物のたぐひにはいさゝか音有りて其飛び行く事も疾き物なりと聞傳へぬるに彼の玉は徐々として音もなく夜に云ふ人魂ならめと思へどもさ有らんには二三町が間に影さすべくもあらず。
兎角する間に内より戸を明けたるまゝに不審晴やらぬながら内へ入ぬ。
其後右途中にて別れたる人々にかやうの事こそ有つれ。見てしやと尋れども一人も不見と云。此事今に至て解しがたし。

翁草 洛陽(天明)大火1

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翁草
○ 洛陽大火

抑々平安城の開けし事桓武天皇延暦十三年より天明八戊申年に至暦数九百九十五年其間に禁裏炎上数度。并保元・平治・寿永・元暦・承久・元弘・建武・明徳・応仁・永禄・元亀等洛の兵火にも京中焼亡の事なく就中応仁亂は前後十余年諸國の武士京師に屯(タムロ)して花洛の荒廃此時なれ共兵火の爲に京洛皆焦土と成し事を不聞。其證には洛内の老樹亂を避て存在(ソンザイ)せるもの多し。而して御当家御治世已後二百年の間に百有余年以前下京ダイスウ焼とやらん程の火事有しと聞傳ふれ共年久敷事故当時是を知る人なし。其後三月二十日焼是をだに慥(タシカ)に覺えたる人なし。
近くは八十一年已前宝永五子年三月八日の大火こそ古今稀有の事に申傳へたり。其時禁裏炎上町数四百二十九焼たり。又五十九年以前西陣焼は町数百二三十町なり。而るに今茲(コトシ)天明八戊申年正月晦日の火京洛十にして九ツの餘焼け畢りんぬ。
元禄年間於京都奉行所改之寫

とあれば其後百年を経る間に新地追々建続、當当時は凡京町二千有余と見えたり。然れば此度の大變町数凡二千町にも及べし。宝永の大火の五層倍成べし。誠に平安城開てより古今未曾有の變事後來又有べからず。

翁草 洛陽(天明)大火2

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翁草
○ 洛陽大火の続
  所々焼失の時刻有増左記

晦日の暁卯の上刻 団栗の辻子より出火。石垣町川端四条下る二丁目より五条橋通迄五町餘の間焼廣がる。風寅卯の方より吹

同中刻 風辰巳より吹。寺町永養寺へ飛火移る。是洛中へ焼入し始なり。

同下刻 薮の下通を西へ焼。佛光寺へ火移。高辻より四条迄の間焼廣がる。
辰上刻 因幡堂菅大臣社等焼。
同中刻 六角堂及び此辺所々焼廣がる。
同下刻 堀川辺より壬生の野迄焼抜。
同巳上刻 三條通迄焼廣がり下にては五條の中程高倉烏丸の東西を南の方風上へ焼行。此火東本願寺御前通を七條の境枳殼屋敷の際より下寺町御影堂の方を東北へ焼出。五條寺町・木屋町・河原町・御旅町より誓願寺の方迄様々焼廻る。
同中刻下刻の間 中京にて三條通の東北に焼廣がる。

同午上刻 東本願寺御前通門前焼。寺内は防ぎ留。下珠数屋敷町焼殘。是より東へ焼廻る。
同中刻 三條通柳馬場辺、東の方御影堂の方へ焼行。
同下刻 三條通四方所々焼廣がり、夫より神泉苑其辺の屋敷々々へ火移。
同未上刻 寺町辺四条より北へ焼登り、誓願寺境内南の方寺中焼。寺町此辺りは一旦此所にて焼止。誓願寺本堂より北の分殘る。
同中刻 四方屋敷及此所々へ火移。

翁草 洛陽(天明)大火3

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同申上刻 雨振出南風烈敷。所々の火勢益熾なり。本圀寺へ北の方より火移。寺内を南へ焼廣がり、西本願寺の皷樓へ火移り、門焼失。此火風上をさして東南へ焼廣がる。
同中刻 上京新町辺より千本通を限り西陣を北へ焼廣がる。但千本通迄は不出。
同下刻 出水通西の行詰七本松通にて寺四軒焼。北の方紫野今宮御旅まで焼抜る。
同酉上刻 乾の方より大風起り雨頻に降。火勢大に熾、東南吹立。
戌刻 御築地北の方道正庵辺より堂上衆屋敷々々へ火付。此時分下にて問屋町へ火移。二丁計焼。何方よりの飛火やらん。不審。
同亥刻 公家衆屋敷所々へ火移。
誓願寺は先刻未刻寺中限に焼止りしが焼出されの者○く本堂の内或は掾の下などへ入て雨風を凌居るに此時に至り車輪の如き飛火三つ四つ來。忽然上り暫時に焼失す。○怪我人殊に多し。
同子上刻 北方鞍馬口へ焼抜。

同中刻 東本願寺此時刻に至。終に裏通新町の方より台所へ火移。本堂・阿弥陀堂・大門其外諸堂へ火移。丑寅刻に悉焼失す。

同下刻 公家衆屋敷多く焼失す。
同丑上刻 上京寺町辺より木屋町
申の上刻 = 15時台
申の下刻 = 16時台
酉の上刻 = 17時台
酉の下刻 = 18時台
戌の上刻 = 19時台
戌の下刻 = 20時台
亥の上刻 = 21時台
亥の下刻 = 22時台
子の上刻 = 23時台
子の下刻 = 0時台
丑の上刻 = 1時台
丑の下刻 = 2時台
寅の上刻 = 3時台
寅の下刻 = 4時台
卯の上刻 = 5時台
卯の下刻 = 6時台
辰の上刻 = 7時台
辰の下刻 = 8時台
巳の上刻 = 9時台
巳の下刻 = 10時台
午の上刻 = 11時台
午の下刻 = 12時台

新古今和歌集(新)抄 中 蔵書

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        冬賀
新古今和歌集鈔  二
        離別



増補新古今和歌集聞書
東野常縁 著
細川幽斎


冬歌~恋歌五


高麗橋西大豆葉町(大坂) : 油屋平右衛門
 版
寳永八年[1711年]


早稲田大学図書館蔵
新古今和歌集新抄



澁川氏 所在

在阪
澀川氏

不詳

新古今和歌集聞書(新鈔) 蔵書の二

翁草 洛陽(天明)大火4

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南は七條通(但七條迄は不出。七條北側の裏町迄)、北は紫野鞍馬口、西は千本通(但二條より北は千本迄不。千本通の裏町限)、東は賀茂川の東西迄。東西凡二十五町、南北凡四十町餘。神社三十七ヶ所、仏閣二百一院。町数千四百三十町、戸数六萬五千三百四十軒、即死百十四人。
奥に記処
神社四十七ヶ所、寺院三百二十四院。
(朱書)
「又町数千五百町、家数三萬六千八百軒」
(朱書)
「寺院三百三十餘、社四十餘」
(朱書)
「又町数三千百餘、家数十八萬」
(朱書)
「寺数九百二十八ヶ寺」

翁草 洛陽(天明)の大火5

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右考る所京都町数前巻に記る通元禄年中御改の節千八百餘町なり。其後所々新地出來ぬれば当時凡二千町の内外なるべし。今度焼殘たる四隅を併せなば凡四五百有べし。左あれば今度の焼失千四五百町成べし。朱書に有之三千餘町と云は積(つもり)も無き事なり。又死人の事は人主(ヒトヌシ)不ル知死骸八百餘人。総死人千七百人などゝ云ひ又は萬を以て算へなど取々に風説すれ共是は其数は御改もなき事なれば聢と知れがたかるべし。

曽根好忠 由良の戸

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    ゆらのとをわたる

舟人かぢをたえゆくへもし

    らぬ恋のみちかな

        曽根好忠
由良の戸の碑

新古今和歌集巻第十一
  恋歌一
 題知らず
  曾禰好忠
由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方も知らぬ恋のみちかな


ゆらのとをわたるふなびとかぢをたえゆくえもしらぬこいのみちかな


花紅葉都噺 天明八年祇園会

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今夏六月祇園会御神輿洗ひは例年の如く御就行ありしかどもねりものは出ざりしなり。
七月十四日の神事例年にかわることなし。されども町中軒下の灯燈は多く焼失し其上当時の困窮なれば大に略して軒々其町々の端に二ツ三ツかけしなり。七日の祭礼山鉾のかざり物も山ばかり七ツ引渡し鉾は其町の会所に飾りおゐて見物せしむ。焼失せし山鉾も焼残りたる人形など町々の会所に飾り置て見物せしむ。四条河原の納涼など例歳にかはりてものさびしくぞ見へしとぞ。
  焼失の山鉾左のごとし。
函谷鉾 四條烏丸西へ入所。但し名物明徐たん書の見送り其外少しは焼残りたり。
蟷螂山 西洞院四條上ル火災の後新に出來せしなり。
卜出山 錦小路烏丸西入少々焼残り。
郭巨山 四條西洞院東へ入所。

翁草 惟喬親王墓

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翁草
○惟喬親王の墓
一、洛北大原野邉に陵(ミサゝギ)と云傳へし所あり。孰(イズレ)の陵とも知人なし。苔むしたる石塔有しが此傍ら崩れし時所の者共其の所を掘て見るに石櫃有り。小さくして棺ほどの物に非ず。蓋をひらけば内に一つの箱有り。段々三重の箱有りて内に銀にて作れる器あり。茶入の中次のせいにて少し大き成る物なり。此の内に一巻の書あって惟喬親王の御一生の事を委く記せり。容易の物に非ずとて公儀へ訴訟する処に東武へ伺ひに成り東武より其の書を織田家へ被下。其の被下たる所以は不知。其の掘出せし時見たりとて相国寺の僧の物語なり。按るに花鳥餘情に山城に小野と云処二所あり。宇治郡に小野あり。また愛宕郡に小野の里あり。此の小野は愛宕郡の名所なり。ひえの山横川の麓高野と云所なり。井蛙抄に云惟喬のみこの御ぐしおろして住せ玉ふも源氏に浮船の隠れて住しも此所なり。松ヶ崎なども小野なり。深養父が補陀落寺も小野なり。又真言小野流といふは山科の小野なり。小野の古郷は伊勢の國なりと云々。此の洛北小野郷の内大野上野村の東北の山際に大なる杉あり。土人一本杉と云。此の所に古き搭あり。是則惟喬親王の御墓なり。中頃徹書記惟喬の住玉ふ御跡をしめて庵作りして住し時、
我すまば雪踏分ん人もなくくやしといはで目をや經なまし

参考文献
資料京都見聞記 第四巻
編集:駒敏郎他
180ページ

時雨亭方丈記 福原遷都1

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かゝる事やある。たゞごとにあらず。さかるべき物のさとし
などぞうたがひ侍し。又治承四年みな月の比
俄に宮こうつり侍き。いと思の外なりし事
なり。大方比京のはじめをきけば嵯峨天皇の
御時事さだまりにけるより○○てに数百
歳を経たり。ことなる故なく○やすくあらたまるべくも
あらねど是を世の人ややすからず○へあへるさまこと
はりにも過たり。されどとかくいふかひなくて御門
より始たてまつりて大臣公卿みな悉くうつり給ひ
ぬ。世につかへる○との人たれかひとり古郷にのこり

(前田家本)
斯かる事やある。只事に非ず。然るべき者の諭し
かとぞ疑ひ侍し。又治承四年水無月の比、
俄に都遷り侍き。いと思ひの外為りし事
也。大方、この京の始めを聞けば、嵯峨の天皇の
御時、都と定まりにけるより後、既に数百
歳に及べり。殊なる故無くて、容易く改まるべくも
あらねば、これを世の人安からず憂へあへる樣、理
にも過ぎたり。然れど、兎角言ふ甲斐無くて、帝
より始め奉りて、大臣公卿皆ごと遷ろひ給ひ
ぬ。世に仕ふる人、誰か一人も故郷に残り居らむ。

(参考)大福光寺本
カゝル事ヤアル。タタ事ニアラス。サルヘキモノゝサトシ
カナトソウタカヒハヘリシ。又治承四年ミナ月ノ比
ニハカニミヤコウツリ侍キ。イトヲモヒノ外也シ事
ナリ。ヲホカタ此ノ京ノハシメヲキケル事ハ嵯峨ノ天皇ノ
御時ミヤコトサタマリニケルヨリノチステニ四百余
歳ヲヘタリ。コトナルユヘナクテタヤスクアラタマルヘクモ
アラネハコレヲ世ノ人ヤスカラスウレヘアヘル実ニ事
ハリニモスキタリ。サレトゝカクイフカヒナクテ帝
ヨリハシメタタテマツリテ大臣公卿ミナ悉クウツロヒ給ヒ
ヌ。世ニツカフルホトノ人タレカ一人フルサトニノコリ

天つ風 雲林院

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   僧正遍昭

天つ風雲のかよ

ひじふきとじよ

 をとめの姿しば

    しとゞめむ


雲林院
〒603-8214 京都府京都市北区紫野雲林院町23

雲林院(うんりんいん、うりんいん)は、京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である。かつて天台宗の大寺院として知られた、平安時代の史跡でもある。なまって「うじい」とも呼ばれた。
もとは、淳和天皇の離宮・紫野院として造成された。紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが、桜の名所でもあった。文人を交えてたびたび行幸したという。その後仁明天皇の離宮となり、やがて皇子常康親王に譲られた。
869年(貞観11年)親王が亡くなった後、僧正遍昭に託し、ここを官寺「雲林院」とした。884年(元慶8年)、遍昭はこれを花山元慶寺の別院とし、年分度者3人を与えられて天台教学を専攻。その後、鎌倉時代までは天台宗の官寺として栄え、菩提講・桜花・紅葉で有名であった。

西行聞書 雲林院

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西行聞書集

尋花至古寺

これやきくくものはやしのてらならむ花をたづぬる心やすめむ

實久卿記 天保十四年三月十五日

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實久卿記
天保十四年三月十五日戊馬。午後雨卯初刻參内依番也。此日石清水臨時祭也。申沙汰雑事。辰刻計事具之由奉行愛長朝臣言上。予奏之。今日無出御、被止御禊。庭座以下惣可爲如天保六年度被仰出。予仰奉行(依御風氣也)内大臣以下着殿上。宣命奏聞了。庭座召公卿。次召使以下勤盃。賜挿頭花。次舞御覽了。午終刻使以下參社頭了。予今夜宿仕。今日散状。使實愛朝臣(今日着禁色○舞人陪從等略ス。○實麗卿記略ス。)


橋本実久
(寛政二年(1790年) - 安政四年(1857年))
江戸時代後期の公家、公卿。羽林家の橋本家当主。官位は正二位、任参議、権大納言。

芭蕉 浮御堂

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比良三上雪指し

  わたせ鷺の橋

      ばせを

芭蕉 祥瑞寺

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朝茶飲む

  僧静かなり

     菊の花
祥瑞寺
滋賀県大津市本堅田1丁目27−20

芭蕉 月見浮御堂

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鎖あけて

 月さし入よ

    浮御堂


寛政七年

 乙卯仲秋

   社中建之

芭蕉 堅田十六夜の弁

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堅田十六夜の弁

 望月の残興なほやまず。二三子いさめて、舟を堅田の浦に馳す。その日、申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろに至る。「酔翁・狂客、月に浮れて来たれり」と、声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、簾をまき塵をはらふ。「園中に芋あり、大角豆あり。鯉・鮒の切り目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に筵をのべて宴を催す。月は待つほどもなくさし出で、湖上はなやかに照らす。かねて聞く、中の秋の望の日、月浮御堂にさし向ふを鏡山といふとかや。今宵しも、なほそのあたり遠からじと、かの堂上の欄干によつて、三上・水茎の岡、南北に別れ、その間にして峰ひきはへ、小山いただきを交ゆ。とかく言ふほどに、月三竿にして黒雲のうちに隠る。いづれか鏡山といふことをわかず。あるじの曰く、「をりをり雲のかかるこそ」と、客をもてなす心いと切なり。やがて月雲外に離れ出でて、金風・銀波、千体仏の光に映ず。かの「かたぶく月の惜しきのみかは」と、京極黄門の嘆息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、この堂に遊びてこそ。「ふたたび恵心の僧都の衣もうるほすなれ」と言へば、あるじまた言ふ、「興に乗じて来たれる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に杯をあげて、月は横川に至らんとす。

錠明けて月さし入れよ浮御堂  ばせを
やすやすと出でていざよふ月の雲 同

芭蕉 住吉

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升かふて分別

かわる月見かな


元禄七年
住吉の市に立てそのもどり長谷川畦止亭におの/\月を見侍るに


住之江公園
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