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Channel: 新古今和歌集の部屋
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源氏物語 澪標

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源氏物語 澪標
        源氏
身を尽くし恋ふる標にここまでも巡り逢ひける縁は深しな
  かへし      明石上
数ならで難波の事も甲斐無きになど身を尽くし思ひ初めけむ



みをつくしこふるしるしにここまてもめくりあひけるえにはふかしな

かずならでなにはのこともかひなきになどみをつくしおもひそめけむ

南海住吉大社駅横公園側

石清水八幡宮 御神楽略記

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寶永貳年改之
御神樂略記

 初卯御神樂之次第
庭燎   作法
阿知女  作法
榊    本方  末方
閑韓神  本方  末方
早韓神  人長之舞
阿知女  作法
薦枕   本方  末方
秘曲   本方  末方
篠波   本方  末方
千歳   本方  末方
早歌   七首本方末方
得錢子  本方  末方
木綿作  本方  末方
朝藏   本方  末方
其駒   人長之舞
 社務中俗別當神主已下、神子を先立而、音律を調へ、神樂人悉ク御殿を神樂歌ニ而、一遍宮廻り、退出。人樂屋、御祝之獻有之。

夫神慮をすゝしめ奉る事は、神樂にしくハなしとこそ、そのかミの濫觴は、千早振天ノ磐戸(イワト)の前にして、兒屋根(コヤネ)太玉(フトダマ)のの[かカ]ミ祈りたまひし時、鈿女命(ウズメノミコト)茅纏(チマキ)の矛(ホコ)を持(モチ)て覆槽置(フミトドロカシ)し給ひしとき、日神(ヒノカミ)御心和(ミゴコロヤワ)らぎ玉ひ、岩戸を明給ひしより、常闇(トコヤミ)の雲ハ晴にき。人の世と成てハ、吾
息長足姫(ヲキナガタラシヒメ)三の韓(カラクニ)むけ給はんとて、筑紫の海に舞臺を設け、住吉・武内(タケウヂ)の舞かなでたまふにめでゝ、附曇礒童(アヅミノイソラ)みかどにまいり、ともに舞おさめ給ひ、よその國までなびきたてまつれるも、是神樂の徳ならずや。其宮(ソコノミヤ)そこの社、いづれの神がめでたまハぬハなけれども、大内・石清水の御神樂こそ、なべて世の元なるべし。されど世〃ふりもて行まゝ、二百とせ許にや。男山恒例のつとめハ絶にしを、星に霜に、月に日に、下官ふかく歎かずしもあらず。今も棘路の家/\にハ、その傳え失たまハず。内侍所の御神樂年ごとに行なはるめる。此道の舎人(トネリ)も、雲の上人よりその曲なむうけつぎ奉りぬ。中にも多太神安倍豐原四姓の其等(ソレガシラ)は、此山本の神奴(カンヅコ)なりしを、宮のつとめたえ、庄園おちゆくまゝ、今ハ九重に居をしめ侍るを、志(シ)しあふふたり三たり、誠を一つにして招キかたらひ、延寶四の年彌生午の日、臨時の祭の日を再び興す初として、終夜奏させぬ。たえたるをつぐこゝろざし、神や受給けん。御代(ミヨ)や聖(ヒジリ)、時やいたり剱。同じ六とせの春、吾妻なる大樹の御もとへまかりもうでたりし折しも、政ごち給ふ股肱の御かた/"\へ、しか/"\の事と申たりしかば、とミに、大臣(ヲトゞ)の君へ申させたまひ、祭祀の祿ともたまハり、年ごとの神わざとなりぬ。


参考文献
石清水八幡宮史料叢書 四 年中神事
(417~419ページ)

夏夜於鴻臚館餞北客 大江朝綱

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本朝文粹

夏夜於鴻臚館餞北客
      後江相公(大江朝綱)
延喜八年天下太平海外慕化。
北客算彼星躔朝此日域望扶木而烏集涉滄溟而子來。
我后憐其志褒其勞或降恩或增爵。
於是餞宴之禮已畢俶裝之期忽催。
夫別易會難來遲去速。
李都尉於焉心折宋大夫以之骨驚。
想彼梯山航海凌風穴之煙嵐迥棹揚鞭披龜林之蒙霧依依然莫不感忘遐之誠焉。
若非課詩媒而寬愁緒攜歡伯而緩悲端何以續寸斷之腸休半銷之魂者乎。
于時日會鶉尾船議龍頭麥秋動搖落之情桂月倍分隔之恨。
嗟呼前途程遠馳思於雁山之暮雲後會期遙霑纓於鴻臚之曉淚。
予翰菀凡叢楊庭散木媿對遼水之客敢陳孟浪之詞。
云爾。

天明の大火

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こんな話がある。

1200年の歴史を誇る京都の長い歴史の中で、都を破壊し尽くした大火と言えば、応仁の乱と天明八年一月三十日に発生した別名団栗焼の大火である。
応仁の乱は、あそこで戦が始まればあの神社が焼かれ、こっちの街道を上洛する軍団との陣取りでここの神社が焼かれと10年掛けて焼き付くしたが、天明の大火は僅か1日で京都の大半を焼き付くした。

翁草 洛陽(天明)大火2
翁草 洛陽(天明)大火3

四条の鴨川東岸の団栗橋の辻の空き家で三十日の夜明け前に発生した火事は、強い春風に煽られ瞬く間に燃え広がり、1時間後には南東の風により西岸に飛び火し、北は仏光寺、因幡堂、六角堂まで、西は堀川を越え壬生野まで燃え広がって行った。
15時には、みぞれ混じりの横殴りの雨が降り、それでも火の勢いは止まず、西本願寺の門、西陣を焼き付くし、北は丸太町通を越え、いよいよ皇居も危うくなった事から、光格天皇、後桜町上皇、恭礼門院を始め、大臣、公卿らも鴨川東岸まで行幸して避難した。
その後も御所を焼き付くし、真夜中になって、北は鞍馬口、南は東本願寺、1時を過ぎて下御霊神社まで燃え広がったが、2時頃になって雨が止み、木屋町三条で焼け止まった。
夜明け頃に、今度は鴨川の東岸に飛び火し、頂妙寺及東方寺院の際、南は壇王法輪の50m北まで燃えて、風が少し弱くなり焼け止まった。

ここで、不思議な事が2つある。
① 風は途中強烈な南風となったが、業火は南へ燃え広がって行き、東本願寺は灰燼に帰した。
② 猛烈な雨が降ると火の勢いは弱まる筈なのに、その後も延焼は続いた。事実、西本願寺は門を焼失したが、風に煽られた銀杏が火を消した所謂水吹き銀杏の伝説が生まれ、御影堂、阿弥陀堂の大伽藍は燃えなかった。


さて、焼け残った所を京都市資料館所蔵のかわら版で調べて見ると、驚くべき事実が判明する。
焼け残った場所に、
① 火元から600mに有る八坂神社は、当所東南の風とはいえ無傷
② 千本通で火が止まった為に600m西の北野天満宮は無傷
③ 今宮御旅所までは燃えたが、大徳寺手前で火は止まり、今宮神社は無事
④ 相国寺で火が止まった為に、東西両側は焼亡したが、上御霊神社は無傷
⑤ 洛内が燃え尽きた頃、再度鴨川を越え、新地を焼き付くしたが、岡崎神社、粟田神社は無傷
つまり、京都内に配置された厄神は、寺町通に移転した下御霊神社を除き、残っている。
しかも、下御霊神社も蔵が燃えず、神が座した中の神輿は無事であった。

これは、この火事の性格が、「洛内に有る不浄を全て焼き払った神罰」と言っているようなものである。

あなたは、この話を信じますか?

花山院家 狐の防火

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こんな話がある。

江戸時代の京都の大火と言えば、宝永と天明、元治に起こったものが京都三大大火として有名である。
そのうち、宝永と天明の大火は、御所にも延焼し、皇族、公家が鴨川対岸の下鴨神社、上賀茂神社、聖護院などに急遽行幸する事となった。
元治は、長州藩と会津・桑名藩の戦闘が蛤御門で始まったので、禁門の変とも呼ばれるが、御所には戦渦が及ばなかった。
御所や公家屋敷が丸焼けとなる二つの大火の中で、実は不思議と焼け残った公家屋敷が有る。
花山院第(東小一条第)である。この御殿にはこんな話が伝わっている。
後の摂政関白太政大臣藤原基経が未だ下臈であった頃、参内の途中、童が群れて、一匹の狐を捕らえて杖で叩いていたのを見つけた。
車を停めて、この狐を童どもから貰い請け、車に乗せて綱を解き、優しく撫でて、
「お前ら狐は、多くの獣の中でも霊力が有ると聞く。その命を救ったのだからこの恩を忘れるなよ」と言って逃がしてやった。
その後、基経の夢の中に老人の姿となった狐が現れ、
「我棲みかを提供すれば、子々孫々まで火災から守るであろう。」
と告げた。
基経は、
「別の所に住まわす事は出来ないが、宗像神の眷属に為すなら良かろう。」と答えると歓んで帰って行った。
そこで基経は、御殿内の宗像神を祭る社の横に祠を造り、宗像神の眷属として狐を祀った。
これは源師房の日記、土右記の延久元年(1069年)に藤原師成から聞いた話として記録されている。
その後、小一条第は花山天皇の御所となり、その跡地を藤原師実から子の家忠が貰い受け、花山院家として代々守って来た。
流石に人災である応仁の乱では戦渦の為に焼失したが、二つの大火では狐霊により焼亡を免れたと言う事である。
花山院家は、中納言留まりの家柄だったが、後に太政大臣や左大臣を輩出し、支流として中山家・今城家・五辻家・烏丸家・鷹司家・野宮家の各家が興り栄え、清華家としての家格で明治を迎えた。
東京奠都によって宗像神社は、京都御苑内鎮座として、火災が無かった証拠として樹齢600の楠と共に祀られている。


土右記 延久元年五月
十八日癸未快晴。午時許春宮權大夫(良基)來語。…
相次前大貳師成卿來。
(前大貳師成卿語小一條□□□□)
左府被參東北院。參御□□□□之後入來者、言談良久。其中云、…
(昭宣公被乞免狐子細事)
彼社北七八許丈、有丘驚人、傳云、昭宣公下臈時參内之、有群童、捕一狐以杖木打之、於是留車乞請彼狐。乗車後、解綱摩毛、諸獣之中汝有靈者也。救其命了汝必□□□□也。參内、入待賢門間、候(マヽ)從者令放幽閉□□□□□夢中亭父來云、種類繁多、頗無術力、盡□□□給一住不殊火災、相公答云、不可給別住所。可爲宗像眷屬也者。歎悦退歸。其後築此丘給之云々。

※藤原 基経(承和3年(836年)-寛平3年(891年)
別名は堀川大臣、堀河大臣、昭宣公、越前公。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、贈正一位。
摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。

※源 師房(寛弘5年(1008年) - 承保4年(1077年))は、平安時代中期の公卿・歌人。村上源氏中院流の祖。村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。幼名は万寿宮。
はじめ資定王と称すが、父具平親王を早くに亡くし、姉の夫である藤原頼通の猶子となった。
藤原道長の五女を妻に娶って藤原氏と密接な関係を築き、右大臣まで出世した。

※藤原師成(ふじわら の もろなり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小一条流、権中納言・藤原通任の長男。官位は正二位・参議。

なお、宗像神社によると御殿を火災から守っているのは繁栄稲荷社ではなく、倉稲魂神を祀る花山稲荷社であるとしている。



貴方はこの話を信じますか?

平安京内裏猟奇殺人事件 宴の松原の鬼

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こんな話がある。

昔小松天皇の御代に、武徳殿の松原を若い女が三人で連れ立って内裏の方へ歩いていた。八月十七日の夜の事で、大変月が明るかった。
そのうち、松の木の下から一人の男が出てきた。三人の女の内の一人を呼んで、松の木の陰で、手を取り話始めた。他の二人の女は「もうじき終るであろう」と待っていたが、いつまで経っても話終わってこっちに来る気配が無い。物言う声も聞こえなかったので、「何事か起きたのか?」と怪しく思ったので、二人の女は近づいて見ると、男も女もいない。「これはどこに行ったんだろう?」と思って良く見ると、只、女の手足ばかりばらばらに転がっていた。
二人はこれを見て、驚いて走り逃げ、右衛門の詰所に駆け込んで、衛士にこの事を告げると、衛士らも驚いてその所に駆けつけて見ると、死骸は見当たらず、只、手足のみ残っていた。
その騒ぎを聞きつけ、人が集まって来て大騒ぎとなった。
「これは、鬼が男に化けてこの女を喰ったに違いない」と人々は噂した。

そう言う事だから、そう言う人気のない所で見知らぬ男に呼び止められてもうっかりついて行ったりしてはいかんぞ。ゆめゆめ忘れるなよと語り伝えているそうじゃ。


今昔物語集巻第二十七
於内裏松原鬼成人形噉女語 第八
今昔、小松ノ天皇ノ御世ニ、武徳殿ノ松原ヲ、若キ女三人打群テ、内様へ行ケリ。八月十七日ノ夜ノ事ナレバ、月キ極テ明シ。
而ル間、松ノ木ノ本ニ、男一人出来タリ。此ノ過ル女ノ中ニ、一人ヲ引ヘテ、松ノ木ノ景ニテ、女ノ手ヲモ捕ヘテ物語シケリ。今二人ノ女ハ、「今ヤ物云畢テ来ル」ト待立テケルニ、良久ク見エズ。物云フ音モ為ザリケレバ、「何ナル事ゾ」ト怪シく思テ、二人ノ女寄テ見ルニ、女モ男モ無シ。「此レハ何クヘ行ニケルゾ」ト思テ、吉ク見レバ、只、女ノ足手離レテ有リ。二人ノ女、此レヲ見テ、驚テ走リ逃テ、衛門ノ陣ニ寄テ、陣ノ人ニ此ノ由ヲ告ケレバ、陣ノ人共、驚テ其ノ所ニ行テ見ケレバ、凡ソ骸散タル事無クシテ、只足手ノミ残タリ。其ノ時ニ、人集リ来テ、見喤シル事限無シ。「此レハ、鬼ノ人ノ形ト成テ、此ノ女ヲ噉テケル也ケリ」トゾ、人云ケル。
然レバ、女、然様ニ人離レタラム所ニテ、知ラザラム男ノ呼バムヲバ、広量シテ、行クマジキ也ケリ。努怖ルべキ事也トナム語リ伝ヘタルトヤ。

鬼が人を食べたなど、昔話の物語だと思われるかも知れない。
しかし、平安時代の公式記録書である三代実録の仁和三年八月十七日の条に正にこの猟奇殺人事件が記載されている。

三代実録
仁和三年(887年)八月
十七日戊午。今夜亥時或人告、行人云、武徳殿東縁松原西有美婦人三人。向東歩行。有男在松樹下。容色端麗、出來與一婦人携手相語。婦人精感。共依樹下。數尅之間、音語不聞、驚恠見之。其婦人手足折落在地。無其身首。右兵衛右衛門陣宿侍者。聞此語往見。無有其屍。所在之人。忽然消失。時人以爲、鬼物變形。行此屠○。又明日可修轉經之事、仍諸寺衆僧被請。來宿朝堂院東西廊。夜中不覺聞騒動之聲。僧侶競出房外。須臾事靜。各間其由。不知因何出房。彼此相恠云、是自然而然也。◎是月、宮中及京師有如此不根之妖語人口卅六種不能委載焉。



貴方はこの話を信じますか?

明月記 元久二年正月十七日

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明月記 元久二年正月

十七日。天晴る。夜雪斑なり。…略
傳へ聞く。吉田社の南に、院の御所を立てらるべし。諸人の領を押し召さると、竜樹御前、光資を以て此の事を歎かる。

明月記 元久元年六月十五日 行遍

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明月記
元久元年六月
十五日天晴る。…略…今日祇園に神馬を立てらる。例の如し。まず御幣(仕丁を相具し願文を持つ)、次で神馬十匹(十列なり。御随身之に乗る)、近武以下なり。あかり馬二疋。兼澄の子男兼廉等之に乗る(近春落ちて死す。小屋立なり)。例の出でおはしますの後、宿所(九条)に帰る。小浴し、僵れ臥す。夜に入り熊野の行遍法橋来たりて談る。歌人なり。

行遍法橋
哀傷歌
見し人は世にもなぎさの藻塩草かき置くたびに袖ぞしをるる
恋歌四
なごりをば庭の浅茅に留め置きて誰ゆゑ君が住みうかれけむ
雑歌上
あやしくぞ帰さは月の曇りにし昔がたりに夜やふけにけむ
雑歌下
たのみありて今行末を待つ人や過ぐる月日を歎かざるらむ

布留の滝

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古今集
  秋歌上
仁和のみかどみこにおはしましける時ふるのたき御覧せむとておはしましけるみちに遍昭がははの家にやどりたまへりける時に庭を秋ののにつくりておほむ物がたりのついでによみてたてまつりける
             僧正遍昭
さとはあれて人はふりにしやどなれや庭もまがきも秋ののらなる

  離別歌
仁和のみかどみこにおはしましける時にふるのたき御覧しにおはしましてかへりたまひけるによめる
             兼芸法師
あかすしてわかるる涙滝にそふ水まさるとやしもは見るらむ


飛鳥井集 雅経
石上ふるの五月雨滝にそふいかで三笠のすゑのしら波

天理市のパンフレットには歌の記載が無かった事から。

神祇歌 熊野花盛 白河院

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咲きにほふ

  花のけしきを

    見るからに

 神のこゝろぞ

  そらにしら
       るゝ


   雍仁親王妃勢津子謹書


新古今和歌集 巻第十九神祇歌

 熊野へまうで給ひける道に花のさかりなりけるを
 御覧じて
          白河院御歌
咲きにほふ花のけしきを見るからに神の心ぞ空に知らるる

読み:
さきにほふはなのけしきをみるからにかみのこころぞそらにしらるる

熊野本宮大社
Y様より写真を頂き感謝。

時雨亭方丈記 福原遷都2

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をらむ。つかさくらゐに思ひをかけ主君のかげを
たのむ程の人は一日なりともとくうつろはむとはげ
み時をうしなひ世にあまされ○○○なき物は
うれへ○○とまりをり。軒をあらそひし人のすまゐ
日をへつゝあれ行。家はこぼたれて淀河にうかび
地はめのまへに畠となる。人の心もあらたまりてたゞ
馬鞍をのみ重○す。牛車を用とする人なし。
西南海の所領を○ひて東北國の庄園を
このまず。其時をのづからのたより有りて津の國
今の京にいたれり。所の有様を見るに其地ほど

(前田家本)
居らむ。官、位に思ひを懸け、主君の蔭を
頼むほどの人は、一日なりとも疾く遷ろはんと励
み、時を失ひて、期する所無き者は、
憂へながら留まり居り。軒を争ひし人の住まひ、
日を経つゝ荒れゆく。家は毀たれて淀川に浮かび、
地は目の前に畠となる。人の心皆改まりて、たゞ皆
馬鞍をのみ重くす。牛車を用する者無し。
西南海の領所を願ひて、東北國の荘薗を
好まず。その時、自ずから頼りありて、津の國の
今の京に至る。所の有樣を見るに、その地、ほど

(大福光寺本)
ヲラム。ツカサクラヰニ思ヲカケ主君ノカケヲ
タノムホトノ人ハ一日ナリトモトクウツロハムトハケ
ミ時ヲウシナヒ世ニアマサレテコスル所ナキモノハ
ウレヘナカラトマリヲリノキヲアラソヒシ人ノスマヒ
日ヲヘツゝアレユク。家ハコホタレテ淀河ニウカヒ
地ハメノマヘニ畠トナル。人ノ心ミナアラタマリテタゝ
馬クラヲノミヲモクス。ウシクルマヲヨウスル人ナシ。
西南海ノ領所ヲネカヒテ東北ノ荘薗ヲ
コノマス。ソノ時ヲノツカラ事ノタヨリアリテツノクニノ
今ノ京ニイタレリ。所ノアリサマヲミルニ

羅城門

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こんな話がある。
昔、摂津の国辺りより、小金持ちの家に盗みに入ろうと京へ上った男がおった。京に到着したが未だ日が高いため、羅城門の下に立って隠れていたが、朱雀の方には人が沢山往来していたので、人がいなくなるのを待とうと思って門の下で待っていると、山城の方より、大勢の人々がやって来る音がしたので、彼らに見られまいと思って、門の上層にそっとよじ登った所、見ればほのかに火が灯しているのじゃった。
盗つ人は、怪しい事だと思って連子より覗くと、若き女が死んで横たわっているのがあった。その枕元に火を灯して、酷く年老いた真っ白な白髪の老婆が、その死人の枕元に居て、死人の髪を乱暴に抜き取っているのであった。
盗っ人はこれを見るに、理解が出来ず、「これはもしや鬼では無いだろうか?」と思って怖ろしかったが、「もしかして死人の幽霊かも知れぬ。脅して試してみよう。」と思ってそっと戸を開けて刀を抜き、
「こいつめ!こいつめ!」
と叫びながら走り寄ると、老婆は慌てて、手をすり合わせて狼狽すると盗っ人は、
「婆あ!これは何をしているんだ?」
と問い質すと老婆は、
「この方は、私の主人でございますが、お亡くなりになったのですが弔いをしてくれる人がいないので、こうしてここに置いているのです。最近食べる物も満足にしておりませんので、その御髪が背丈より長いので、抜き取って鬘にして売ろうとして抜いていたのです。お助けて下され。」
と言ったので、盗っ人は死人の着たる衣と老婆の着たる衣と抜き取った髪をは奪い取って、急いで駆け下りて逃げ去ったんじゃ。
さて、その羅城門の上層には、死人の骸骨が多くあった。死んだ人を葬る事が出来ぬ者が、この門の上に捨てていたのじゃった。
この事は、その盗っ人が人に語っていたのを聞き継いで、こうして語り伝えているんじゃ。

今昔物語集
羅城門登上層見死人盗人語第十八
今昔、攝津ノ國邊ヨリ盗セムガ為ニ京ニ上ケル男ノ、日ノ未ダ明カリケレバ、羅城門ノ下ニ立隠レテ立テリケルニ、朱雀ノ方ニ人重ク行ケレバ、人ノ静マルマデト思テ、門ノ下ニ待立テリケルニ、山城ノ方ヨリ人共ノ数来タル音ノシケレバ、其レニ不見エジト思テ、門ノ上層ニ和ラ掻ツリ登タリケルニ、見レバ、火髴ニ燃シタリ。盗人、「恠」ト思テ、連子ヨリ臨ケレバ、若キ女ノ死テ臥タル有リ。其ノ枕上ニ火ヲ燃シテ、年極ク老タル嫗ノ白髪
白キガ、其ノ死人ノ枕上ニ居テ、死人ノ髪ヲカナグリ抜キ取ル也ケリ。盗人此レヲ見ルニ、心モ不得ネバ、「此レハ若シ鬼ニヤ有ラム」ト思テ怖ケレドモ、「若シ死人ニテモゾ有ル。
恐シテ試ム」ト思テ、和ラ戸ヲ開テ、刀ヲ抜テ、「己ハ己ハ」ト云テ走リ寄ケレバ、嫗手迷ヒヲシテ、手ヲ摺テ迷ヘバ、盗人、「此ハ何ゾノ嫗ノ此ハシ居タルゾ」ト問ケレバ、嫗、「己ガ
主ニテ御マシツル人ノ失給ヘルヲ、繚フ人ノ无ケレバ、此テ置奉タル也。其ノ御髪ノ長ニ餘テ長ケレバ、其ヲ抜取テ鬘ニセムトテ抜ク也。助ケ給ヘ」ト云ケレバ、盗人、死人ノ着タル
衣ト嫗ノ着タル衣ト抜取テアル髪トヲ奪取テ、下走テ迯テ去ニケリ。然テ其ノ上ノ層ニハ死人ノ骸骨ゾ多カリケル。死タル人ノ葬ナド否不為ヲバ、此ノ門ノ上ニゾ置ケル。此ノ事ハ其ノ盗人ノ人ニ語ケルヲ聞継テ此ク語リ傳ヘタルトヤ。

賀歌 神無月 元輔 色紙コレクション

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神無    よろ
  月     づ
         代
 もみぢ  かゝ
  を(も)  れ
しらぬ    峰の
 常磐   しら
  木に     雲



新古今和歌集巻第八 賀歌
 貞信公家屏風に
           清原元輔
神無月もみぢも知らぬ常磐木によろづ代かかれ峰の白雲

かみなづきもみぢもしらぬときはぎによろづよかかれみねのしらくも

平成29年9月17日 壱點陸壱/九枚

明月記 二月十九日切接ぎ

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明月記二月

十九日 晴陰不定なり。雨雪風寒し。今日院に参ずべき由兵庫頭家長の許に示し送る(此の次いでに慶事を示す)。…略
日入以降院に参ず(神泉に御幸の後なり)。家長、秀能、宗宣(宮内少輔)、和歌所に在りて叫び入る。此の日來、撰歌の詞を書き、切り継ぎ殊に忩がる。尤も参ずべき由、御気色あり。触れ告げんと欲する処、遠所に在るの由之を聞きて、京に出づるを相待つの由、家長之を示す。毎日参ずべしと云々。憖に領状す。

和歌所寄人

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和歌所
建仁元年七月二十七日
 二条殿弘御所(二条高倉殿:二条南、押小路北、高倉西、東洞院東)の 北面
建仁三年二月四日
 京極殿(東弘御所)へ移設

寄人
左大臣藤原良経
内大臣源通親
天台座主慈円
釈阿入道
源 通具 ☆
藤原有家 ☆
藤原定家 ☆
藤原家隆 ☆
藤原雅経 ☆
源 具親
寂  連 ☆

開闔
源 家長

寄人追加
藤原隆信
鴨 長明
藤原秀能

明月記 二月二十一日 真名序

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明月記 二月

廿一日。天晴る。巳の時総州門前を過ぎ、只今参ずる由を告ぐ。即ち和歌所に参ず。修理大夫、養ひ奉る姫宮参じ給ふ。侍従敦通、御共に在り。俄に神泉に御幸し了りんぬる後、大府卿参ず。宗宗座に在り。四人に沙汰す。晩、家長又杯杓。左大弁、撰集の序を持ちて参ず。今日奏覧し了りんぬ。殿下に覧ずべき由、新宰相之を承り、猶返し給ふ。副へらるる事等ありと云々。…略。

明月記 二月二十二日 良経御覧

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明月記 元久二年二月

廿日。天晴る。巳の時、所に参ず。宗宣、家長、具親、秀能之を切り継ぐ。殿下御参り。障子を開きて御覧ず。此の間、神泉に御幸し了りんぬ。殿下、御退出と云々。具親破子を取り出す(草子、風流)。酒を巻物の如き竹筒に入る。燭に退出す。今日、恋の部を終ふ。又釈教の部を終ふ。雑の部多きの間、人数多きの時を相待つ。神祇の部、之を取り出す。予、身憚るに依り、此の部恐れ有る由、家長に示し了りんぬ。神の歌、甚だ多し。又神の歌の次第、尤も測り難し。一旦の沙汰をなすと雖も、万代の証拠に備ふべし。暗に神の御名字を列する。恐れ極まり無し。仍て手を交へず。

明月記 元久二年二月二十三日 饗応の肴

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明月記 元久二年二月

二十三日。天晴る。…略。大府、総州、宗宣等あり。又切り継ぐ。…略
其の間、予、酒肴を儲くべし。待ち参りて、之を取り居ゑしむ。家長、清範等帰り来たりて之を見る。饗応の詞を加へ、取り破るべからず。見参に入るべき由、相議す。予、左右を答へず。遂に破らずして之を置く。長櫃(一)。酒肴の様、土高器を小さき折敷に居う。柏を敷き、海松を盛りて柏を覆ふ。其の柏に、わだつみのかざしにさすといはふももの歌を書く。又折敷に絵をかきて杯を居る。瓶子は、紅の薄様を以て口を裹み、実には鳥の汁を入る。花橘を文字木にて書く。花橘を懸子にて上に入れて、其の下を三重、中を分けて菓子六種を入る。ひじきを又外居に入る。ひじきの物には袖をの歌を書き、其の下に魚鳥六種を菓子の如くに入る。青き瓶は口を裹まず、藤の花を指す(糸を以て之を結ぶ。房、殊に長し)。件の瓶に酒を入る。檀紙(下絵)を立て文に作りて、其の中に箸を入れ(表書に、武蔵あぶみと書く)、外居に飯を入れ、其の上に餝ちまきを積み入れて、飯を隠して見せず。以上を取り居ゑしむ。此の外、密々に土器酬等を相具し、閑所に置きて取り出さず。伊勢物語の内の物なり。昏黒、雑の上の部、切り入れ了りて、各々退出す。此の間に、還りおはしますと云々。

※わたつみの
伊勢物語 八十七段
その夜、南の風吹きて浪いと高し。つとめて、その家の女の子どもいでて、浮き海松の浪に寄せられたるひろひて、家の内にもて来ぬ。
女方より、その海松を高杯にもりて、かしはをおほひていだしたる、かしはにかけり。
 わたつみのかざしにさすといはふ藻も君がためにはをしまざりけり
ゐなかの人の歌にては、あまれりや、たらずや。

※ひじき物には袖を
伊勢物語 三段
むかし、をとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもといふ物をやるとて、
 思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつゝも
二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時のことなり。

※藤の花
伊勢物語 百一段
むかし、左兵衛の督なりける在原の行平といふありけり。その人の家によき酒ありと聞きて、上にありける左中弁藤原の良近といふをなむ、まらうどざねにて、その日はあるじまうけしたりける。なさけある人にて、かめに花をさせり。その花のなかに、あやしき藤の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸ばかりなむありける、それを題にてよむ。よみはてがたに、あるじのはらからなる、あるじしたまふと聞きて来たりければ、とらへてよませける。もとより歌のことはしらざりければ、すまひけれど、しひてよませければかくなむ、
 咲く花の下にかくるる人を多みありしにまさる藤のかげかも

※武蔵あぶみ
伊勢物語 十三段
むかし、武蔵なる男、京なる女のもとに、「聞ゆれば恥づかし、聞えねば苦し」と書きて、うはがきに、「むさしあぶみ」と書きて、おこせてのち、音もせずなりにければ、京より、女、
 武蔵鐙さすがにかけて頼むには問はぬもつらし問ふもうるさし
とあるを見てなむ、たへがたき心地しける。
 問へばいふ問はねば恨む武蔵鐙かかるをりにや人は死ぬらむ

※餝ちまき
伊勢物語 五十二段
むかし、男ありけり。人のもとよりかざりちまきおこせたりける返りごとに、
 あやめ刈り君は沼にぞまどひける我は野にいでて狩るぞわびしき
とて、雉をなむやりける。

明月記 二月二十五日 慈円御覧

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明月記 元久二年二月

廿五日。暁より雨降る。巳の時許りに所へ参ず。彼是語りて云ふ。一昨日の物、即ち御前に取り出す。皆 召し入れられ了んぬ。和歌所に返し給ふと云々。籠居凶服の者、初めての出仕、事に於て恐れを成すの間、此の如き事、聊か以て安堵す。御気色の程を知るか。大僧正参じ給ふ。大府卿と切り継ぎを見る。暮に雑の下を切り継ぎ了んぬ(総州之を見る)。昏黒に退下す。…略。

明月記 元久二年二月二十六日 恋歌二継出

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明月記 元久二年二月

廿六日。天晴る。巳の時許りに所に参ず。家隆朝臣参ず。雑の下を継ぎ出(直カ)す。恋の十二の部、今日又少々継ぎ直す。人定めて、悪気に処するか。恋の部は、極めて優なるべし。存外に又多し。仍て憚りを忘れて直すの間、日暮れ了りんぬ。有家朝臣又読み出す所の巻々を見る。各々退出す。…略。家長を以て、仰せ事に云ふ。神祇の部、神に次第を立つるは、熊野の御列次、其の恐れ有り。仍て春の部を先となし、四季に立つべしといへり。神の歌の事、惣じて事の恐れ有るに依りて、事を身の憚りに寄せ、之を知らず。…略。
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