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Channel: 新古今和歌集の部屋
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日本書蹟大鑑 第二十巻 目次 蔵書

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日本書蹟大鑑
小松茂美著
   講談社
拾點伍

第二十巻


明正天皇
文智女王
北島雪山
醍醐冬基
木下順庵
藤村庸軒
慈胤法親王
河村瑞賢
幸仁親王
徳川光友
徳川光圀
吉良義央
鷹司房輔
小川坊城俊広
正親町実豊
北向雲竹
松下見林
大高源吾
大石良雄
堀部弥兵衛
神崎与五郎
持明院基時
向井去来
契沖
智月尼
伊藤仁斎
桂昌院
北村季吟
杉木普斎
戸田茂睡
栗山潜鋒
津田長忠
榎本其角
徳川綱吉
万里小路淳房
東山天皇
悦山道宗
徳川家宣
中院通茂
花山院定誠
寺井養拙
了然尼
浅見絅斎
狩野常信
貝原益軒
柳沢吉保
徳川綱条
尾形光琳
祐天


明月記 元久二年三月二十一日 新古今集竟宴の消息

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明月記 元久二年三月

二十一日。天晴る。竟宴の事、大理重ねて消息あり。竟宴の事、昨日只一首の風情を凝らして、予め参ずべしと云々。新相公奉行す。公卿は直衣。酉の刻と云々。或人の云ふ、新古今披露の日、巻々の始めの歌を講ぜらる。御遊并に和歌の会あるべしと云々。此の外全く才学なき者なり。日本紀の竟宴も、何に見えて候ひしやらんも、忘却し候ひ了んぬ。打任せては、竟宴何れも其の巻其の人を得たり。今度の無題、極めて大臣に候ふか。梅黄門の事、未だ承はり及ばず。是れ又、尚書を替へ候へば、任人疑ひなきか。凡そ当職、日を遂ひて厭却す。真実、縁尽き候ひ了んぬ。直物の時、辞退す。聞書を見るの処、頗る恐れ有り。忽ちに変改の由、頭弁に触れ候ひ了んぬ。前右衛門督とて両三年出仕、其の後遁世す。又、還任、時に依るべく候ふ。委細、紙上に尽くし難し。…略。

頭書図解 小倉百人一首 蔵書

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頭書圖解 小倉百人一首

池田東籬 亭書
森川保之 画圖

明治四十一年十一月十日發行

中村風祥堂





子供の手の怪

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こんな話がある。

昔々、桃薗と言うのは今の世尊寺の事を云うんじゃ。元々は寺でもなく、時に西宮の左大臣源高明様がお住まいになっておったんじゃ。

その時に寝殿の南東の母屋の柱に木の節の穴が開いておった。夜になると、その木の節穴から小さな子供の手が出て、人を招く事があったんじゃ。
大臣はこれを聞いて、大変不思議で怪しみ驚いて、その穴の上に経典を結い付け奉ったけれども、なお人を手招くので、仏像を懸け奉ったけれども、招く事が止まらなかった。この様にしても未だ止まらなかったんじゃ。二三夜をおいて夜半ばかりの人の皆寝静まる頃に必ず手招きしたんじゃ。
そうしている間に、ある人が又試してみようと、弓矢を一本その穴に差し入れたところ、その弓矢が指してある間は手招きする事が無かったので、その後は矢柄を抜いて弓矢の限りを穴に深く打入れたところ、それより後は手招きする事が絶えたんじゃ。
これを思うに、心得ぬ事じゃ。普通は、何かの霊などの仕業に違いない。それなのに、弓矢の効力が、まさに仏経に勝り奉りて、畏れ多い。そう言う事なので、その当時の人皆これを聞いて、大変怪しんみ疑ったと語り伝えたそうじゃ。

今昔物語集 巻第二十七
桃薗柱穴指出児手招人語第三
今昔、桃薗ト云ハ今ノ世尊寺也。本ハ寺ニモ无クテ有ケル時ニ、西ノ宮ノ左ノ大臣ナム住給ケル。其ノ時ニ寝殿ノ辰巳ノ母屋ノ柱ニ、木ノ節ノ穴開タリケリ。夜ニ成レバ、其ノ木ノ節ノ穴ヨリ小サキ児ノ手ヲ指出テ、人ヲ招ク事ナム有ケル。大臣此レヲ聞給テ、糸奇異ク恠ビ驚テ、其ノ穴ノ上ニ経ヲ結付奉タリケレドモ尚招ケレバ、佛ヲ懸奉タリケレドモ招ク事尚不止ザリケリ。此ク樣ニスレドモ敢テ不止ラズ、二夜三夜ヲ隔テ、夜半許ニ、人ノ皆寝ヌル程ニ必ズ招ク也ケリ。而ル間、或ル人亦試ムト思テ、征箭ヲ一筋其ノ穴ニ指入タリケレバ、其ノ征箭ノ有ケル限ハ招ク事无カリケレバ、其ノ後箭柄ヲバ抜テ、征箭ノ身ノ限ヲ、穴ニ深ク打入レタリケレバ、其ヨリ後ハ招ク事絶ニケリ。此レヲ思フニ、心不得ヌ事也。定メテ者ノ霊ナドノ為ル事ニコソハ有ケメ、其レニ、征箭ノ験、當ニ佛経ニ増リ奉テ恐ムヤハ。然レバ、其ノ時ノ人皆此レヲ聞テ此ナム恠シビ疑ヒケルトナム語リ傳ヘタルトヤ。

普通の怪談話は、原因が想定され、それに有り難い経文や仏像の力で調伏されるか回向により成仏させる。
しかし、この話は現実に目の前で起こった事を伝えている。

貴方はこの話を信じますか?

明月記 元久二年三月二十二日 新古今集竟宴準備

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明月記 元久二年三月

廿二日。天晴る。巳の時許りに殿に参ず。…略。
見参の次で、竟宴の事、昨日承はる。其の心を得ざる由申す。仰せて云ふ。昨日長房を以て仰せらる。廿七日以前に、清書出で来たるか。又、仮名序、其の以前に進むべし。又件の日の題を献ずべしといへり。申して云ふ、清書の事、更に叶ふべからず。仮令廿日の間に、書き出づべきか。仮名序、又更に出で来難し。題の事、只新古今功を終へらるるの由、の歌、宜しかるべきか。題有るべからざるか。若しくは、清書の序等を待たるるか。暫く延引せらるべし(近日、灸治に依り、出仕するに能はず)。廿七日に遂げ行はれば、此の両事叶ふべからざる由、申し了んぬといへり。此の事、更に心得ず。殿下、知らしめ給はず 。誰れ人の計らひ申す事か。…略。
和歌所に参じ、書き出す巻々を校合す。総州参会し、十余巻見了んぬ。文字等少々直さしむ。暁に退出す。…略。廿七日竟宴の詠歌止み了んぬ。只、巻々の初めの歌を読み上げ了んぬる後、御遊あるべし。其の伶人、皆新衆を召すべしと。毎事凡そ心得ず。笙(家方)、笛(親兼卿)、比杷(親定)、筝(経通、旧き所作)、拍子(親能、同じ)、琴(有雅)、篳(侍従盛兼)。

持明院宮
守貞親王。高倉天皇の第二皇子であり、母は七条院。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。

明月記 元久二年三月二十三日 新古今集竟宴日程

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明月記 元久二年三月

廿三日。天晴る。所に参ず。今日聞く、竟宴の事、未だ日時を定めず。今日家長、書状を在宣の許に遣はし、日時を勘へしむ。廿六日と云々。御清書の仮名序等、出来難し。仍て、此の中書を以て竟宴を遂げらるるの後、清書あるべし。序を継ぎ加へらるべしと云々。此の事、殊に忿ぎ思し食す。定めて事の故有るか。今日又少々之を見る。申の時許に退出す。

明月記 元久二年三月二十四日 九条家祖の歌

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明月記 元久二年三月

廿四日。天晴る。午後に小雨。…略。
相次で殿下に参ず。天徳入道右大臣殿の御歌、□勅撰に見ざる由之を申す。此の事遺恨なり。尋ね入るべきの由、申すべきなり。午の時許りに所に参ず。殿下申さしめ給ふ旨、家長に示し付け了んぬ。有家、家隆朝臣参入す。又一両の巻を見る。聊か酒肴を取り出す。夕に退出す。

恋歌三
九条入道右大臣
わびつつも君が心にかなふとて今朝も袂をほしぞわづらふ

夏歌 俊成 袖の白玉 筆者不明コレクション

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けふは又あやめの   ねさへかげそへて  みだれぞまさる     袖のしら珠 新古今和歌集 巻第三夏歌 述懐に寄せて百首歌よみ侍りけるに              皇太后宮大夫俊成 今日はまた菖蒲のねさへかけ添へて乱れぞまさる袖のしら玉 読み:きょうはまたあやめのねさへかげそへてみたれぞまさるそでのしらたま 保延六年述懐百首 平成29年10年28日 壱

日本書蹟大鑑 第二十一巻 目次 蔵書

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日本書蹟大鑑
小松茂美著
   講談社
拾點伍

第二十一巻


近衛基熙
高玄岱
久世重之
佐々木玄龍
池西言水
前田綱紀
隆光
英一蝶
近松門左衛門
新井白石
秋色尼
古筆了音
渡会園女
荻生徂徠
油小路隆真
大橋
各務支考
林鳳岡
霊元天皇
杉山杉風
紀伊国屋文左衛門
室鳩巣
細井広沢
荷田春満
伊藤東涯
近衛家熙
井上通女
近衛家久
武者小路実陰
森繁利
冷泉為久
中院通躬
尾形乾山
太宰春台
三輪執斎
石田梅岩
烏山光栄
百拙元養
桜町天皇
大岡忠相
祇園南海
山県周南
徳川吉宗
雨森芳州
祇園百合女
本多猗蘭
服部南郭
桃園天皇
売茶翁
関思恭
秋山玉山
家仁親王

明月記 元久二年三月二十五日 誤りだらけの集

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明月記 元久二年三月

廿五日。天晴る。所に参ず。終日沙汰し、晩頭に退下す。殊に窮屈。此の集、猶未だ見るを得ず。其の誤り多きか。人数多くして、還た事の妨げ有り。

明月記 元久二年三月二十六日 新古今竟宴当日

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明月記 元久二年三月

廿六日。天晴る。早旦、殿に参ず。仰せて云ふ、竟宴に猶参ずべき由仰せらる。仍て三条坊門に行く。時刻に及びて参ずべし。…略。三条坊門殿に参ず。終日、御前に在り。秉燭、御院參訖りて退出す。亥の時、東宮京極殿に行啓。

三条坊門殿
三条坊門南高倉東

新古今和歌集抄 蔵書

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新古今和歌集抄



編者:山崎敏夫
初版:昭和42年3月31日
発行:白帝社

新古今和歌集の約半数を大学の授業用に作成。

日本書蹟大鑑 第二十二巻 目次 蔵書

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日本書蹟大鑑
小松茂美著
   講談社
拾點伍

第二十二巻

白隠慧鶴
賀茂真淵
寂厳
冷泉為村
建部綾足
日解
万仞道坦
加賀千代女
谷川士清
池大雅
歌川
平賀源内
大谷永庵
湯浅常山
滋野井公麗
松下烏石
三井親和
横井也有
与謝蕪村
富士谷成章
加藤枝直
高芙蓉
池玉瀾
東坊城益良
龍公美
高山彦九郎
林子平
円山応挙
山本以南
沢田東江
宇田川玄随
澄月
森尹祥
梅荘顕常
小沢蘆庵
関其寧
菱田縫子
韓天寿
本居宣長
細井平洲
日野資枝
花扇
大塚蒼梧
木村蒹葭堂

藤原季仲の御堂と藤原邦恒の「邦恒堂」の現在

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藤原季仲の御堂と藤原邦恒の「邦恒堂」の現在を探して欲しいとの依頼に。

図書館で平安後期の地図と現在の地図を重ねて見ると、藤原季仲御堂は四条通の郵便局の向かいのようである。


四条通南佐井西通西とすれば、京都市右京区西院坤町となる。




周囲を徘徊したが、痕跡は残っていない。
寳蔵院と言うお寺があったが、由来とかは有りませんでした。


春日(佐井)通と佐井西通の間も念のため調べたが、何も無かった。

新古今和歌集 梅村弥右衛門板 蔵書

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新古今和歌集
 上下二巻

上巻
仮名序
春哥~羇旅哥
下巻
戀哥一~釈教哥
真名序




佐々姓文庫
牧埜○臧書



早稲田大学
新古今和歌集梅村弥右衛門板
刊行年不明


巻第14の巻頭書名:新古今和謌集


巻第五の巻名:秌哥下
巻第四の秋哥上と異字体を使用

ドッペルゲンガーの乳母

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こんな話がある。

昔々、源雅通の中将と言う方がおられ、丹波の中将と呼ばれておったんじゃ。そのお屋敷は、四条よりは南、室町よりは西にあったのじゃ。
彼の中将がその家に住んでいた時に、二歳ばかりの稚児を乳母に抱かせて、南面と言う所でただ一人離れ居て子を遊ばせていたほどに、にわかに子が怯えて火が付いたように泣き出し、乳母の叫び声が聞こえたので、中将は北面にいたのだったが、これを聞いて、何事かと知らぬまま、太刀を引っ提げて走って行って見ると、同じ姿の乳母が二人居て、中に子供を置き、左右の手足を掴んで引っ張り合っていたんじゃ。
中将は、驚いてよくよく見たが、共に同じ乳母の姿、形であったんじゃ。どちらが本物の乳母か分からない。そこで、「一人はたぶん狐などに違いない。」と思って、太刀を閃かせて、走り掛かると、一人の乳母はかき消すように居なくなったんじゃ。
その時子供も乳母も気を失って倒れたので、中将は使用人どもを呼び、験力有る僧などを呼び寄せて加持祈祷などをしていたところ、乳母が気が付き、起き上がったんじゃ。中将は、
「いったい何があったのだ」と尋ねると、乳母が云うには、
「若君を遊ばせ申しておりますと、奥の方から見知らぬ女房が突然出て来て、『これは我が子供だ。』と言って、奪いとったので、奪われまいと引っ張ったところ、殿様がお出でになって、太刀を閃かせて走り掛からせなさいましたので、その時、若君を打ち捨てて、その女房は奥の方に逃げたのでございます。」と聞いて、中将は非常に恐ろしくなったんじゃ。

そう言うことで、人気の無い所では幼児を遊ばせてはならぬものだと言い合ったんじゃ。
狐が化かしたのであろうか、又物の怪だろうか、分からずじまいに終わったとこう語り伝えているんじゃ。

雅通中将家在同形乳母二人語第廾九
今昔、源ノ雅通ノ中将ト云フ人有キ、丹波中将トナム云ヒシ。其ノ家ハ四条ヨリハ南、室町ヨリハ西也。彼ノ中将、其ノ家ニ住ケル時ニ、二歳許ノ児ヲ乳母抱テ南面也ケル所ニ、只獨リ離レ居テ児ヲ遊バセケル程ニ、俄ニ児ノ愕タヽシク泣ケルニ、乳母罵ル音ノシケレバ、中将ハ北面ニ居タリケルガ、此レヲ聞テ何事トモ不知ラデ、大刀ヲ提テ走リ行テ見ケレバ、同形ナル乳母二人ガ中ニ此ノ児ヲ置テ、左右ノ手足ヲ取テ引シロフ。中将、奇異ク思テ吉ク守レバ、共ニ同乳母ノ形ニテ有リ、何レカ實ノ乳母ナラムト云フ事ヲ不知ズ。然レバ、「一人ハ定メテ狐ナドニコソハ有ラメ」ト思テ、大刀ヲヒラメカシテ走リ懸ケル時ニ、一人ノ乳母掻消ツ樣ニ失ニケリ。其ノ時ニ、児モ乳母モ死タル樣ニテ臥シタリケレバ、中将、人共ヲ呼テ、験有ル僧ナド呼バセテ加持セサセナドシケレバ、暫許有テ乳母例心地ニ成テ起上タリケルニ、中将、「何ナリツル事ゾ」ト問ヒケレバ、乳母ノ云ク、「若君ヲ遊バカシ奉ツル程ニ、奥ノ方ヨリ不知ヌ女房ノ俄ニ出来テ、『此レハ我ガ子也』ト云テ、奪取ツレバ、不被奪ジト引シロヒツルニ、殿ノ御マシテ大刀ヲヒラメカシテ走リ懸ラセ給ヒツル時ニナム、若君モ打弃テ、其ノ女房奥樣ヘ罷ツル」ト云ケレバ、中将、極ク恐ケリ。然レバ、「人離レタラム所ニハ幼キ児共ヲバ遊バスマジキ事也」トナム人云ケル。狐ノ□タリケルニヤ、亦、物ノ霊ニヤ有ケム、知ル事無クテ止ニケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。

西洋でもドッペルゲンガー現象と呼ばれ怪奇現象の一つに数えられる。平安時代の日本でも起こった記録として注目すべきかも知れない。

貴方はこの話を信じますか?

明月記 元久二年三月二十七日 新古今竟宴次第

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明月記 元久二年三月

廿七日。天晴る。早旦坊門殿に参ず。夜前の儀、大略。殿御参りの後、神泉より還りおはします。御湯殿の後、御寝。数刻の後、驚かしめ給ふ。今夜、自身に於ては詠歌すべからざる由、仰せ合せらる。更に然るべからず。尤も御製あるべきの由、殿下申さしめ給ふ其の後、歌御案ずと云々。二首見合せ奉られ、一首計り申さしめ給ふ。御清書了りて出でおはします。丑の時か(○頭書に此の集の序に撰歌五人の名を載せらる。予、未だ復任せず。後代のため、其の道理なし。此の日の以前に復任すべきの由申すと雖も、或は日次なく、或は上卿なし。遂に行はれずして、今日に過し了んぬ。近代の事、只一旦の興有り。始末の沙汰に及ばず。私力及ばざる事か。官位を書かれ了んぬトアリ)。弘御所に於いて、此の事有り(例の和歌所の北)。元三の御薬の時に出でおはしますの所なり。北に御座を儲けて(二帖、東西の行)、其の南二行に帖を敷く(南北の行)。対の座を公卿の座となす。北西に御簾を掩ひ有り。殷富門院、東宮を御覧ず。殿下、前太政大臣(各々冠、直衣)、先づ座におはします。良々久しくて出でおはします。家長、御前の縁に在り。仰せ承りて、公卿を召す。左衛門、隆衡、経家(束帯)、参上して著座す。相国、仰せを伝へて家長を召し、有家を召す。有家文台の下に参上す。予め文台、切り燈台を儲く。新古今集、文台の上に在り。序を読む。通具卿、講師の後に参じて之を詠ず。春の部の初め四五首詠じ了りて、講師退出す。次で、歌人次第に歌を置く。兵衛佐具親以上、秀能、清範、家長、歌を人に付して、之を置かしむ。少将忠定、宮内少輔宋宣(宋宣、清範、夜前臨期に之に入る)、少将雅経、左衛門権佐親房、上総家隆ゝゝ、前兵衛佐家衡ゝゝ、前右馬保季ゝゝ、左中将経通ゝゝ、大蔵卿有家ゝゝ。公卿上を見る。殿下座を起たずして、置かしめ給ふ。次で家隆を召す。家隆参上して講師。有家ゝゝ仰せに依り、講師の後に参じて詠吟す。了りて、歌人退下す(両度の読師、前太政大臣)。次で伶人著座す。殿上の五位、御遊の具を置く。拍子高仲ゝゝ、枇杷右大弁、筝経通、琴隆雅、笛親兼卿、篳盛兼、笙隆衡卿。御遊了りて入りおはします。人々退出すと云々。殿下、九条に渡りおはしますと云々。午の時許りに退下す。抑々此の事、何の故に行はるる事ぞや。先例にあらず。卒爾の間、毎事調はず。歌人又歌人にあらず。其の撰不審なり。

新古今和歌集竟宴和歌

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後鳥羽院
新古今和歌集竟宴
     和歌
いそのかみふるきをいまにならべこし
むかしのあとをまたゝづねつゝ

    應製倭歌
 摂政太政大臣從一位藤原朝臣良經上
しきしまやゝまとこと
ばのうみにしてひろ
ひしたまはみがゝれ
にけり

    應 製一首
 從一位行皇太弟傳臣藤原朝臣頼實上
わかのうらなみものど
けきみよなればかき
あつめたるたまもし
ほぐさ

    太上皇應 製一首
 從二位行權中納言兼左衛門督臣源朝臣通光上
ちよまでとよするたま
もをかきつめてなみ
もいくよのわかのうら


     竟宴應
    太上皇製倭歌
 参議正三位行右衛門督兼備中權守臣源朝臣通具上
むかしいまのむかしを
うつすたまのこゑこゑ/"\
きみかちよぞきこゆる




よろづよのことのはいまやしげからむけふふきそむるわかのうらかぜ




ふりにけるあとにまかするみづくきもなほゆくすゑのためしにぞかく



しきしまややまとしまねのかぜのつてけふのためとやたえずふきけむ



いくちたびきみがみことのけふにあはむわかのうらかぜふきつたへつゝ



わがきみのながきたからとしきしまややまとことのはかきあつむらむ


よるなみもこゑしつむらしいにしへにいまふきかよふわかのうらかぜ



きみすめばよするたまももみがきいでつちよもつたへよわかのうらかぜ

     太上皇製和歌
 正五位下行左近衛權少將兼加賀權介臣藤原朝臣雅經上
きみがよになれぬる
わかのうらかぜに
あまねきなみやしま
のほかまで

     太上皇製和歌
 防鴨河使正五位下行左衛門權佐臣藤原朝臣親房上
ふりにけることのはとては
あつむれどむかしはかゝる
ためしやはある

  應   太上皇製和歌
 正五位下行宮内少輔臣平朝臣宗宣
なかきよのためし
なるかなしきしまや
やまとみことのゆくすゑ
のはる

     太上皇製和歌
 左近衛權少將正五位下兼行阿波權介臣藤原朝臣忠定上
みなひとのことはの
つゆもあらはれて
はこやの山にみがく
月かげ


     太上天皇製和歌
 從五位上行左兵衛佐臣源朝臣具親上
ふくかぜものどけきき
みのよゝのあとむかし
にかへるわかのうらなみ

     太上皇製和歌
 從五位下守兵庫頭臣源朝臣家長上
わかのうらにもしほもる
みのいとまなみけふより
のちやたちもはなれむ

     太上皇製和歌
 左近衛將監臣藤原朝臣清範 三木菅上字无
よものうみのうら/\
ごとにたづねみてひ
ろへるたまのこゑもあ
りけり

     應製倭歌
 正六位上行主馬首兼左衛門少尉臣藤原朝臣秀能上
いくちよもことばの
はなのいろにみよむか
しもきかぬはなのま
とゐを

元久二年三月二十六日新古今和歌集竟宴
                和歌
    御製講師 右衛門督通具
      講師 前上総介家隆
      讀師 前太政大臣

明月記 元久二年三月二十八日 新古今翌々日の切り出し

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明月記 元久二年三月

廿八日。終日雨降る。夜に入りて雨止み。家長参ずべきの由を示す。即ち、所に参ず。竟宴の歌を持ち来たる。之を書き記す。勅撰猶見るべき由、仰せ事有り。仍て少々引き見る。賀の部の子の日の歌、清正、経信卿の歌相似たり。仍て夾算を加ふ。又哀傷の部、或所より撰進する和泉式部に御返事の上東門院の御歌、周防内侍が歌に相似たり。此の二首奏せしむ。仰せ、経信子の日を止むべし。哀傷のの部の二首、除くべからず。相並べて入るべしと。
宗宣(書き手、宗宣、以経、行能見ず)参ぜず。今日、直さず。…略。

賀歌
709 藤原清正
子の日してしめつる野辺の姫小松ひかでや千代のかげを待たまし
728 大納言経信
子の日する御垣の内の小松ばら千代をば外の物とやは見る

哀傷歌
776 上東門院
思ひきやはかなく置きし袖の上の露を形見にかけむものとは
777 周防内侍
浅茅原はかなく置きし草の上の露をかたみと思ひかけきや

夏歌他 日政筆掛軸コレクション

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千とせふる

 尾上の小松

  うつしうへて

萬代までの

  友とこそみめ


 五月 盧橘

ほとゝぎすなくや

 さ月のやどが
      ほに
 かならずにほふ

   軒のたちばな


 十月 残菊

かみなづき

 しもよのきくの

    にほはずは

 あきのかたみに

    なにをゝ
      かまし


  式子内親王

わすれめやあ

 ふひをくさに

    引むすび

かりねののべの

   露のあけぼの


     元政

池のみづ人

    の

 こゝろに

   似たり
     けり
  にたり



千載集
 閑院の家にて、はしめて対松争齢といへるこころをよみ侍りける
 入道前関白太政大臣
千とせふるをのへの小松うつしうゑて万代までのともとこそみめ

ちとせふるをのへのこまつうつしうゑてよろつよまてのともとこそみめ

拾遺愚草 巻中
 御仁和寺宮月なみの花鳥の歌の絵にかかるべきこと
 あるをふるき歌かずのままにありがたくはいまよみ
 てもたてまつるべきよしおほせられしかば
詠花鳥和歌各十二首
         定家
ほととぎすなくやさつきのやどがほにかならずにほふのきのたちばな

かみなづきしもよのきくのにほはすはあきのかたみになにをおかまし

新古今和歌集 巻第三 夏歌
齋院に侍りける時神館にて
             式子内親王
忘れめやあふひを草にひき結びかりねの野辺の露のあけぼの



日政(通称:元政上人 元和9年(1623年)- 寛文8年(1668年))
日蓮宗の僧・漢詩人。山城・深草瑞光寺 (京都市)を開山した。俗名は石井元政。号は妙子・泰堂・空子・幻子・不可思議など。
地下官人・石井元好の五男として生まれる。姉は彦根藩主井伊直孝の側室・春光院である。 近江・彦根で、13歳から城主の井伊直孝に仕える。
幼少から山水を愛し、たびたび京都に赴いていたところ、泉涌寺・雲龍院の如周が法華経を講ずるのを聴いて感ずるところあり、病弱なこともあって1649年(慶安2年)に職を辞し、出家して日蓮宗・妙顕寺の日豊について僧となる。中正院の日護・本性寺の日徳と交流し日蓮宗の秘奥を究めた。
1655年(明暦元年)33歳で伏見深草に称心庵(後の瑞光寺)を営み、竹葉庵と号し仏道の修行に励んだ。翌年、79歳になる母の妙種を伴い身延山に参詣し、帰り道に江戸の井伊邸に母を託し、自身は日本橋に宿を取ったところ、甥にあたる井伊直澄はたびたびその屋敷に招待したが日政はそれを固辞し母を連れて京に帰った。その年に庵のそばに仏殿などを開き、深草山瑞光寺を開山し、法華経修行の道場とし、門下の宜翁を上座としてともに修行した。修行の合間に詩歌を楽しみ、熊沢蕃山・北村季吟など多数の著名人と交友関係があった。
深草で死後、遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。

平成29年11月19日 肆點伍肆肆
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