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Channel: 新古今和歌集の部屋
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新古今和歌集 第十七 雑歌 岩田の小野のははそはら

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第十七 雜歌中

題しらず 式部卿宇合

 

  山城の

 

岩田の小野の

 

ははそ原

 

 見つつや君が山路

 

    越ゆらむ

読み:やましろのいわたのおののははそはらみつつやきみがやまじこゆらむ

 

意訳:山城の石田の小楢が紅葉している中を見ながら、あの人は山路を越えている頃だろうか。

 

作者:藤原宇合ふじわらのうまかい694~737不比等の子。遣唐副使として唐に渡る。常陸守の時常陸風土記編纂に関係したといわれる。

 

備考:万葉集 第九巻 1730 石田 京都市伏見区石田。古今和歌六帖。八代集抄


新古今和歌集 巻第十一 恋歌一 心をつくば山

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第十一 戀歌一

また通う人ありける女のもとに遣はしける  大中臣能宣朝臣


われならむ人に


  心をつくば山


    したに通はむ


道だにや


    なき



読み:われならぬひとにこころをつくばやましたにかよわむみちだにやなき 隠


意訳:私でない人に貴方は心を尽くしている(筑波山)。その人にわからないように通うこともできないのか。


作者:おおなかとみのよしのぶ921~991三十六歌仙、梨壷五人の一人。四位祭主。後撰和歌集の撰者。


備考:歌枕 筑波山 恋の歌に多く使われる。時代不同歌合、歌枕名寄

新古今和歌集 巻第一 春歌上 室の八嶋

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第一 春歌上

崇院に百首歌奉りける時  藤原輔朝臣


   朝がすみ


     ふかく見ゆるや


煙たつ


室の八島のわたり


    なるらむ



読み:あさがすみふかくみゆるやけむりたつむろのやしまのわたりなるらむ 隠


意訳:朝霞が深く見える場所が、煙立つことで有名な室の八島の辺りであろうか。


作者:ふじわらのきよすけ1104~1177藤原顯輔の子続詞花集の撰者


備考:歌枕 栃木県栃木市惣社町 思川の立ちこめる霧から煙と関連して歌われる。崇徳院御時百首 歌枕名寄、美濃新古今注

増鏡 第一 おどろのした 後鳥羽天皇即位

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かくて此御門、元暦元年七月廿八日御即位、そのほどの事、常のまゝなるべし。

平家の人々、いまだ筑紫にたゞよひて、先帝ときこゆるも御兄なれば、かしこに傳へ聞く人々の心ち、上下さこそはありけめと思ひやられて、いとかたじけなし。

同年の十月 廿五日に御禊、十一月十八日に大嘗會なり。主基方の御屏風の歌、兼光の中納言といふ人、丹波國長田村とかやを

神世よりけふのためとや八束穂に長田の稻のしなひそめけむ

御門いとおよすけて賢くおはしませば、法皇もいみじううつくしとおぼさる。

文治二年十二月一日、御書始めせさせ給ふ。御年七なり。おなじ六年建久元也、女御參り給。月輪關白殿の御女なり。后立ありき。のちには宜秋門院ときこえし御事なり。この御腹に、春花門院ときこへ給し姫宮ばかりおはしましき。建久元年正月三日、十一にて御元服し給。 おなじき三年三月十三日、法皇かくれさせ給にし後は、御門ひとへに世をしろしめして、四方の海波しづかに、吹風も枝をならさず、世治まり民安うして、あまねき御うつくしみの浪、秋津島の外まで流れ、しげき御惠み、筑波山のかげよりも深し。

よろづの道/\に明らけくおはしませば、國々に才ある人多く、昔に恥ぢぬ御世にぞ有ける。中にも、敷島の道なん、すぐれさせ給ける。御歌かず知らず人の口にあるなかにも、

おく山のおどろの下を踏みわけて道ある世ぞと人に知らせん

と侍こそ、まつり事大事と思されけるほどしるく聞こえて、やむ事なくは侍れ。

※神世より 本当は安徳天皇時  巻第七 賀歌 754 藤原兼光 壽永元年大嘗會主基方稻舂歌丹波國長田村をよめる

※おく山の  巻第十七 雑歌中 1633 後鳥羽院 住吉歌合に山を

増鏡 第一 おどろのした 水無瀬離宮

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鳥羽殿白川殿なども修理せさせ給て、つねに渡り住ませ給へど、猶又水無瀬といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しば/\通ひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひゞかして、遊びをのみぞし給。所がらも、はる/”\と川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の比、詩に歌を合はせられしにも、とりわきてことは、

見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕は秋となに思ひけむ

かやぶきの廊渡殿など、はる/”\と艷におかしうさせ給へり。御前の山より瀧落とされたる石のたゝずまひ、苔深き深山木に枝さしかはしたる庭の小松も、げに千世をこめたる霞の洞なり。前栽つくろはせ給へる比、人/\あまた召して、御遊びなどありける後、定家の中納言、いまだ下なりし時、たてまつられける。

ありへけむもとの千年にふりもせで我君ちぎる千世の若松

君が代にせきいるゝ庭を行水の岩こす數は千世も見えけり

いまの御門の御いみなは爲仁と申き。御母は能圓法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕うまつられけるほどに、この御門生まれさせ給て後には、内大臣通親の御子になり給て、末には承明門院ときこゆ。かの大臣の北方の腹にておはしければ、もとよりは、後親なるに、御幸ゐさへひき出で給しかば、まことの御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にて養ひたてまつらせ給ける。

かくて、建久九年三月三日御即位、十月廿七日御禊、十一月は例の大嘗會、元久二年正月三日御冠し給。いとなまめかしくうつくしげにおはします。御本性も、父御門よりは、すこしぬるくおはしましけれど、情け深う、物のあはれなど聞こし召しすぐさずぞありける。

※見渡せば 巻第一 春歌上 36 太上天皇 をのこども詩をつくりて歌に合せ侍りしに水郷春望といふことを

増鏡 第一 おどろのした 新古今和歌集勅命

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今の攝政は、院の御時の關白基通の大臣。その後は後京極殿良經ときこえ給し、いと久しくおはしき。此大臣はいみじき歌の聖にて、院の上おなじ御心に、和歌の道をぞ申おこなはせ給ける。

文治の比、千載集ありしかど、院いまだきびはにおはしまししかばにや、御製も見えざめるを、當代位の御ほどに、又集めさせ給。土御門の内の大臣の二郎君右衞門督通具といふ人をはじめにて、有家の三位、定家の中將、家隆、雅經などにの給はせて、昔より今までの歌をひろく集めらる。おの/\奉れる歌を、院の御前にて、身づからみがき整へさせ給ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も、さきにきこえつる攝政殿、とりもちて行なはせ給。

大かた、いにしへ奈良の御門の御代に、はじめて、右大臣橘朝臣勅をうけたまはりて、萬葉集を撰びしよりこのかた、延喜のひじりの御時の古今、友則、貫之、躬恆、忠岑。天暦のかしこかりし御代にも、一條攝政謙公、いまだ藏人少將などきこえけるころ、和歌所別當とかやにて、梨壺の五人におほせられて、後撰集は集められけるとぞ、ひが聞ゝにや侍らん。その後、花山の法皇の身づから書かせ給へる拾遺抄は十卷なり。白川院位の御時は、後拾遺集、通俊治部卿うけたまはる。崇院の詞花集は、顯輔三位えらぶ。又、白川院おりゐさせ給てのち、金葉集かさねて俊頼朝臣におほせて撰ばせ給にこそ、初め奏したりけるに、輔仁の親王の御なのりを書きたる、わろしとて返され、又奉れるにも、なに事とかやありて、三度奏して後こそ納まりにけれ。

かやうの例も、をのづからの事なり。をしなべては、撰者のまゝにて侍なれど、こたみは、院の上みづから、和歌浦に降りたちあさらせ給へば、まことに心ことなるべし。

増鏡 第一 おどろのした 千五百番歌合

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この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給しにも、すぐれたる限りを撰ばせ給て、この道の聖たち判じけるに、やがて院も加はらせ給ながら、猶このなみにはたち及びがたしと卑下せさせ給て、判の言葉をばしるされず。御歌にて優り劣れる心ざしばかりをあらはし給へる、中/\いと艷に侍けり。

上のその道を得給へれば、下もをのづから時を知る習にや。男も女も、この御世にあたりて、よき歌よみ多くきこえ侍し中に、宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣ときこえし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、官あさくてうち續き、四位ばかりにて失せにし人の子也。まだいと若き齡にて、そこひもなく深き心ばえをのみ詠みしこそ、いとありがたく侍けれ。

この千五百番の歌合の時、院の上のたまふやう、

こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内はまだしかるべけれども、けしうはあらずとみゆめればなん。かまへてまろが面を起こすばかり、よき歌つかうまつれよ
とおほせらるゝに、面うち赤めて、涙ぐみてさぶらひけるけしき、限りなき好きのほども、あはれにぞ見えける。さてその御百首の歌、いづれもとり/\なる中に

薄く濃き野邊のみどりの若草に跡まで見ゆる雪の村消え

草のの濃き薄き色にて、去年ふる雪の遅く疾く消けるほどを、おしはかりたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひよりがたくや。この人、年つもるまであらましかば、げにいかばかり、目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いと/\をしくあたらしくなん。

※薄く濃き 巻第一 春歌上 76 宮内卿 千五百番歌合に春歌

増鏡 第一 おどろのした 新古今和歌集竟宴

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かくて、この度撰ばれたるをば、新古今といふなり。元久二年三月廿六日、竟宴といふ事、春日殿にて行なはせ給。いみじき世のひゝきなり。かの延喜の昔おぼしよそへられて、院御製

いそのかみ古きを今にならべこし昔の跡を又尋ねつゝ

攝政殿良經の大臣

敷島や大和言の葉海にして拾ひし玉はみがかれにけり

つぎ/\、ずん流るめりしかど、さのみうるさくてなん。


増鏡 第一 おどろのした 清撰歌合

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また清撰の御歌合とて、かぎりなくみがゝせ給ひしも、水無瀬殿にての事なりしにや。当座に衆議判なれば、人々の心地いとど置き所なかりけんかし。建保二年長月の頃、すぐれたる限りぬき出で給ふめりしかば、いづれかおろかならん。中にもいみじかりけりし事は、第七番に左、院御歌、

明石潟浦路晴れ行く朝なぎに霧にこぎ入るあまの釣舟

とありしに、北面の中に、藤原秀能とて、年ごろもこの道に許りたるすきものなれば召し加へらるゝ事、常の事なれど、やんごとなき人々の歌だにも、あるは一首二首三首に過ぎざりしに、この秀能九首まで召されて、しかも院の御かたてに參る。さりてありつるあまの釣舟の御歌の右に、

契りおきし山の木の葉の下紅葉そめしころもに秋風ぞ吹く

と詠めりしは、その身の上にとりて、長き世の面目如何はあらん、とぞ聞き侍りし。

昔の躬恒が御階のもとに召されて、

弓張りとしもいふことは

と奏して、御衣たまはりしをこそ、いみじき事にはいひ傳ふめれ。また貫之が家に、枇杷の大臣、魚袋の歌返し、とぶらひにおはしたりしをも、道の高名とこそ日記には書きて侍れ。近頃は西行法師ぞ北面のものにて、世にいみじき歌の聖なめりしが、今の代の秀能、ほと/\古きにもたちまさりてや侍らん。この度の御歌合、大方いづれとなくうちみだして、すぐれたる限り、えり出でさせ給ひしかば、おの/\むら/\にぞ侍りける。

吉水の僧正慈圓と聞こえしまたゝぐひなき歌の聖にていましき。それだに四首ぞ入り給ひにける。さのみはこと長ければもらしぬ。

清撰歌合 建保二年九月十六、十七日十首出詠、二十七日撰進後、最終的に二十五日十五番で結審した模様。

藤原秀能 ふじわらのひでよし1184~1240秀宗の子。後鳥羽院の北面の武士。和歌所寄人。承久の変後出家。

弓張り 月の弓張りについて、醍醐天皇より御下問があり、大河内躬恒が、照る月を弓張りとしもいふことは山の端さして射ればなりけりと詠んだ故事。

貫之が家 藤原師輔が父からの魚の石帯の飾りの返礼の歌を紀貫之に依頼した大鏡の故事。

西行法師 さいぎょう1118~1190俗名佐藤義清23歳で出家諸国を行脚。

慈円僧正 じえん1155~1225藤原忠通の子兼実の弟。天台宗の大僧正で愚管抄を著す。

増鏡 第一 おどろのした 慈円長歌

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この僧正、世にもいと重く、山の座主にて物し給ふ事も年久しかりしその程に、やんごとなき高名数知らずおはせしかば、あがめられ給ふさまも、二もなく物し給ひしかど、猶あかず思すことやありけん。

院に奉られける長歌

さてもいかに わしのみ山の月のかげ鶴の林に入りしより経にける年を数ふれば二千年にも過ぎはてゝ後の五つの百年になりにけるこそかなしけれ あはれ御法の水のあわの消えゆく頃になりぬればそれに心を澄ましてぞ我が山川に沈み行く 心あらそふ法の師はわれも/\と青柳のいと所せくみだれきて花も紅葉も散り行けば木ずゑ跡なきみ山邊の道にまよひて過ぎながらひとり心をとゞむるもかひもなぎさの志賀の浦跡垂れましゝ日吉のや神のめぐみを頼めども人の願ひをみつかはの流れも淺くなりぬべし 峰の聖のすみかさへ苔の下にぞむもれゆくうちはらふべき人もがな あなうの花の世の中や 春の夢路は心なしくて秋の木ずゑを思ふより冬の雪をもたれかとふ かくてや今はあと絶えんと思ふからにくれはとりあやしき夜のわが思ひ消えぬるばかりを頼みきて猶さりともと花の香にしひて心を筑波山しげき嘆きのねをたづねしづむ昔の魂をとひ救ふ心は深くしてつとめ行くこそあはれなれ 深山のかねをつくづくと我が君が代を思ふにも峰の松風のどかにて千世に千とせをそふるほど法のむしろの花の色 野にも山にもあすか川あすより後や我が立ちし杣のたつきのひゞきよりみねの朝霧晴のきてくもらぬ空にたち帰るべき

 反歌

さりともと思ふ心ぞなほ深き絶えでや絶え行く山川の水 

元久二年四月の作

 

※鷲の御山の月影 霊鷲山

鷲の山隔つる雲や深からむ常に澄むなる月を見ぬかな 康資王母 後拾遺

今日ぞ知る鷲の高嶺に照る月を谷川汲みし人の影とは 藤原師時 金葉

※鶴の林 沙羅双樹

薪尽き雪降りしける鳥野辺は鶴の林の心地こそすれ 法橋忠命 後拾遺

※あな卯の花

世の中をいとふ山への草木とやあなうの花の色にいでにけむ 読み人知らず 古今集

※水の泡の消え行く

水の泡の消えて憂き身といひなから流れて猶も頼まるるかな 紀友則 古今集

※花も紅葉も散り行きて梢の跡

降る雪は消えても暫し留まらなん花ももみちも枝に無きころ 読み人知らず 後撰集

※かひもなぎさ

忍ぶれどかひもなぎさの海人小舟波は掛けても今は恨みじ 読み人知らず 金葉集

※心を筑波山

筑波山端山繁山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり 源重之 新古今

われならむ人に心をつくば山したに通はむ道だにやなき 大中臣能宣朝臣 新古今

※我が立ちし杣の 

阿耨多羅三藐三菩提の佛たちわがたつ杣に冥加あらせたまへ 傳大師 新古今

増鏡 第一 おどろのした 定家長歌

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定家の中將折節御前にさぶらひければ、この返しせよとて、さし給はするに、いとゝく書きて御覽ぜさせけり。

久方の天地ともに限りなき天つ日つぎを誓ひてし神もろともにまもれとて我がたつ杣を祈りつゝ昔の人のしめてける 峰の杉むら色かへずいく年々をへだつとも八重の白雲ながめやる都の春をとなりにて御法の花も衰へず匂はんものと思ひおきし末葉の露も定めなきかやが下葉に亂れつゝもとの心のそれならぬうきふししげき呉竹になくねをたつるうぐひすのふるすは雪にあらしつゝ跡絶えぬべき谷がくれこりつむなげき椎柴のしひて昔にかへされぬ 葛のうら葉は恨むとも君は三笠の山高み雲ゐの空にまじりつゝ照日を世々に助けこし星の宿りをふりすてゝひとり出でにしわしの山よにも稀なるあとゝめて深き流れに結ぶてふ法の清水に底澄みて濁れる世にも濁りなし 沼の蘆間に影宿す秋の半ばの月なれば猶山のはを行きめぐり空吹く風を仰ぎても空しくなさぬ行く末をみつの川なみたちかへり心のやみをはるくべき 日吉の御かげのどかにて君を祈らん よろづ世に千世を重ねて松が枝をつばさにならす鶴の子のゆづるよはひはわかの浦や今も玉藻をかきつめてためしもなみにみがきおくわが道までも絶えせずは言の葉ごとの色々に後見ん人もこひざらめかも

君を祈る心深くは頼むらん絶えてはさらに山川の水

定家 ふじわらのさだいえ1162~1241ていかとも読む藤原俊成の子京極中納言とも呼ばれ新古今和歌集新勅撰和歌集の選者小倉百人一首の撰者古典の書写校訂にも力を注いだ。

明月記 元久二年四月

廿日 天晴る。巳の時に參上す。小時にして、家長長歌を持ち來たる(大僧正詠進し駄給ふと云々)。此の歌に和し進むべきの由、仰せ事あり。長歌曾て未だ之を詠ぜず。卒爾勿論か。但し、出でおはでおはします已後に退出し、即ち篇を終ふ。文の如く点を加えず。形の如く清書し、又持參して家長に付け、内々御覽を經。直すべくば、直し進むべきの由を申す。還り來たりて云うふ、神妙なりといへり。此の如きの事、早速き還りて渋らざるに似たり。道のために不当なりと雖も、沈思するに依りて、風情を得べからず。早速きに依りて、頗る堪能を表はすべきの由。相励ますと所なり。返し下されず。之を以て悦びとなす。又退出す。

※ 我がたつ杣

阿耨多羅三藐三菩提の佛たちわがたつ杣に冥加あらせたまへ 傳大師 新古今集

※末葉の露も定め無き茅が下葉に乱れつゝ

あはれなり野辺の刈萱乱れても下葉は暫し露とまりけり 藤原俊成 俊成五社百首

※うきふししげき 

今更になにおひいつらむ竹のこのうきふししげき世とはしらすや 凡河内躬恒 古今集

増鏡 第二 新島守 上洛

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建久の初めつかた都に上る。そのいきほひいかめしきこと、いへばさらなり。道すがらあそびものどもまゐる。とほたふみのくにはしもとのしゅくつきたるに、例のあそびめおほく、えもいはずそうぞきて參れり。頼朝うちほゝゑみて、

橋本の君に何かを渡すべき

といへば、かじはら平三かげときといふものヽふ、とりあへず

たヾそまやまのくれであらばや

いとあいだなしや。むまくらこんくゝり物など、運びいでゝ引きければ、喜びさわぐ事限りなし。

その年十一月九日ごん大納言になされて、うこんだいしやうを兼ねたり。しはすの一日頃、よろこび申しゝて、同じき四日やがてつかさをば返したてまつる。この時ぞ諸国のそうついぶくしという事承りて、ぢとうしきに我が家のつはものどもなし集めける。この日本国の衰ふるはじめはこれになるべし。

さてあづまに歸りくだる頃、上下いろ/\のぬさ多かりし中に、年頃祈りなど行ひしよしみづの僧正、かのながうたのざすのたまひ遣はしける。

あづまちのかたになこその関の名は君をみやこに住めとなりけり

御返し、頼朝

都には君にあふさか近ければなこその関は遠きとをしれ

その後もまたのぼりて、東大寺の供養にもむでまでたりき。かくて新院土御門の御位の初めつかた、正治元年正月あづまにてかしらおろして同じ十三日に年五十三にてかくれにけり。ぢしよう四年より天の下に用ゐられてはたとせばありや過ぎぬらん。

※勿来の関 福島県いわき市勿来にあった関所(写真)

新古今和歌集 仮名序

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新古今和謌集 假名序

やまと哥は、むかし天地ひらけはじめて、人のしわざいまださだまざりし時、葦原中つ國の言の葉として、稲田姫、素鵞の里よりぞ傳はれりける。しかありしよりこのかた、その道さかりにおこり、そのながれ今に絶ゆることなくして、色にふけり心をのぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり。かかりければ、代々の帝もこれを捨てたまはず、撰びおかれたる集ども、家々のもてあそび物として、言葉の花のこれる木のもともかたく、思の露漏れたる草隠れもあるべからず。

しかはあれども、伊勢の海き渚の玉は、拾ふとも蓋くることなく、いづみの杣しげき宮木は、曳くとも絶ゆべからず。物みなかくの如し。哥の道またおなじかるべし。

これによりて、右衞門督源朝臣通具、大藏卿藤原朝臣有家、左近中將藤原朝臣定家、前上總介藤原朝臣家隆、左近少將藤原朝臣雅經等におほせて、昔今の時を分たず、高き賤しき、人を嫌はず、目に見えぬ神佛の言の葉も、うばたまの夢に傳へたることまで、廣く求め、普く集めしむ。おの/\撰び奉れるところ、夏引の絲の一筋ならず、夕べの雲のおもひ定めがたきゆゑに、の洞、花かうばしきあした、玉の砌、風涼しきゆふべ、難波津のながれを汲みて、み濁れるを定め、淺香山の跡をたづねて、深き淺きをわかてり。

萬葉集に入れる哥は、これを除かず、古今よりこのかた、七代の集にいれる哥をば、これを載することなし。ただし、ことばの園に遊び、筆の海を汲みても、空飛ぶ鳥の網を漏れ、水に住む魚の釣を脱れたるたぐひ、昔もなきにあらざれば、今もまた知らざるところなり。

凡て集めたる哥、二ちぢ二十巻、名づけて新古今和哥集といふ。

春霞立田山に、初花を忍ぶより、夏は妻戀する神なびの時鳥、秋は風に散るかづらきの紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮までに、みな折りにふれたるなさけなるべし。

しかのみならず、高き屋に遠きを望みて、民の時を知り、末の露もとの雫によそへて人の世を悟り、玉鉾の路のへに別を慕ひ、天ざかる鄙の長路に都を思ひ、高間の山の雲居のよそなる人を戀ひ、長柄の橋の浪に朽ちぬる名を惜しみても、心のうちに動き、ことばほかにあらはれずといふ事なし。いはむや住吉の神は片そぎの言の葉を殘し、傳大師はわがたつ杣の思をのべ給えり。かくの如き知らぬ昔の人の心をもあらはし、行きて見ぬ境のほかの事をも知るは、ただこの道ならし。

そも/\昔は五たび譲りし跡を尋ねて、天つ日嗣の位に備はり、今は、やすみしる名をのがれて、はこやの山にすみかをしめたりといへども、すべらぎは怠る道をまもり、星の位は政をたすけし契りを忘れずして、天の下しげきことわざ、雲の上のいにしへにも變らざりければ、萬の民、春日野の草の靡かぬかたなく、四方の海、秋津洲の月しづかに澄みて、和かの浦の跡を尋ね、敷島の道をもてあそびつゝ、この集を撰びて永き世に傳へむとなり。

かの萬葉集は、哥の源なり。時移り事隔たりて、今の人が知る事かたし。延喜の聖の御代には、四人に勅して古今集を撰ばしめ、天暦のかしこき帝は、五人におほせて後撰集をあつめしめ給へり。その後、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載等は、皆一人これをうけたまはれる故に、聞きもらし、見及ばざるところもあるべし。よりて、古今後撰の跡を改めず、五人のともがらを定めて、しるし奉らしむるなり。そのうへ、みづから定め、てづからみがけることは、遠くもろこしの文の道をたづぬれば、濱千鳥跡ありといへども、我が國、やまと言の葉の始まりてのち、呉竹の世々にかかる例なんなかりける。このうち、みづからの哥を載せたること、古きたぐひはあれど、十首には過ぎざるべし。しかるを今かれこれ選べるところ、三十首にあまれり。これみな、人のめたつべきいろもなく、心とゞむべきふしもありがたきゆゑに、かへりて、いづれとわきがたければ、森の朽葉かずつもり、みぎはの藻屑かき捨てずなりぬることは、道にふけるおもひ深くして、後の嘲を顧みざるなるべし。

時に元久二年三月廿六日になんしるしをはりぬる。目をいやしみ、耳を尊ぶるあまり、いそのかみ古き跡をはづといへども、流を汲みて源を尋ぬる故に、富の小川の絶えせぬ道を興しつれば、露霜は改まるとも、松吹く風の散りうせず、春秋はめぐるとも、空ゆく月のくもりなくして、この時に逢へらむものは、これを喜び、この道を仰がむものは、今を忍ばざらめかも。

※注
下線の「すべらぎは怠る道をまもり」とあるが「新編 日本古典文学全集 新古今和歌集」では「すべらぎは子たる道をまもり」となっている。院にとって天皇は息子なので、子が正しいし可能性が大きい。しかし、中国の古代の聖帝は、政務を何もしないで国を治めたという話もあることから、怠るままとした。

インターネットで見ることができる写本(リンク 國學院図書館参照)を見てみると「をこたる」と「こたる」の二通りあり、また、「新潮 日本古典集成 新古今和歌集」久保田純 校訂をみると道教の帝王観として「帝王道」と訳されていた。

新古今和歌集 仮名序 訳

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仮名序 現代訳

大和の国の歌は、昔天地が開け始めて、人の営みがまだ始まっていない時に、日本の言葉として櫛名田比売、素戔嗚尊が住んでいた里より伝わった。その昔より今まで、その和歌の道盛んに興り、その流れは今に絶えることはなくて、恋情に没頭したり、心中を述べる仲立ちとして、世を治めて、民の心を和らぐ道具としていた。そういうわけで、代々の天皇もこれを捨てることはせず、いくつもの勅撰集は、家々の必携本として、美しい歌は拾い尽くされ、思いの優れた歌は隠れていることもあるわけがない。

そうはあっても、伊勢の海の清い渚の玉は、拾っても尽きることはなく、和泉の杣山の森の茂っている宮を作る木は、伐っても絶えることはない。すべての物はかくの如くある。歌の道も同じである。

そこで、右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近中将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近少将藤原朝臣雅経らに命じて、昔と今を分けず、身分の高い、卑しいといった人で区別せず、目に見えない神仏の歌も、(うばたま:枕詞)夜の夢に伝えることまで、広く求め、全てにわたって集めさせた。おのおの撰んで奉じたところ、(夏引きの糸の:序詞)一様ではなく、(夕べの雲の:序詞)思いを取捨するのが難しい故に、上皇御所の庭の花が香ばしい朝、敷石の美しい、風が涼しい夕方、和歌の父母であるの「難波津に咲くやこの花」の流れを汲んで、良い歌できの悪い歌を定め、「浅香山影さへ見ゆる」の跡を尋ねて、深い歌、浅い歌を分けた。

撰歌の方針として、万葉集の歌は、これを除かないで、古今和歌集より、七代の勅撰和歌集の歌は、これを載せることはない。ただし、多くの歌を調べ撰んでも、空飛ぶ鳥も網を逃れて、水に住む魚も釣られるのを逃れるたぐいは、昔も無いわけでないので、今もまだ知られていない歌もあるかもしれない。

全て集めた歌は、二千首、二十巻あり、名付けて新古今和歌集という。

春は、家持の春霞立田山に初花をしのぶことより、夏はよみ人知らず(実は後鳥羽院)の妻恋する甘南備山のほととぎすの歌を、秋は、人麿の風に散る葛城の紅葉の歌、冬は赤人の白妙の富士の高嶺の雪が積もっている年の暮れまで、みんなその折に触れた感情を歌にしている。それだけじゃなく、仁徳天皇の賀歌では、高き山の上から望んで、民の様子を知り、遍昭の哀傷歌では、葉の末にある露かもとの雫かに添えて、人の世を悟り、貫之の離別歌は、玉鉾の道の寒さに別れを慕い、人麿の旅歌では、遠く離れた土地からの長旅に都を思い、よみ人知らずの恋歌では、高い山の雲居のような遠く離れた人を恋い、忠岑の雑歌には、摂津の長柄の橋が波により朽てしまった名を惜しんでも、心の内に動くものは、言葉の歌となって現れないということがない。

いわんや、住吉の神は、片削ぎの歌を残して、伝教大師最澄は、比叡山に建てた延暦寺の平安の思いを述べられました。かくの如く、知らない昔の人の心をも表し、行って見たことがない辺境の他の事も知るのは、ただ和歌の道だからだ。

その昔、継体天皇が五度即位を辞退した帝位の、(天つ日嗣の)天皇となり、今は日本国中を知る天皇の位を譲り、上皇の館に住んでいるが、息子の天皇は、古代中国の帝王道を守り、公卿は政を助けてくれる約束を忘れないで励んおり、天下の煩雑な政務や天皇時代の昔と変わらないことから、多くの民は、(春日野の草の:序詞)従い、四方の海や日本国土は治まっているので、昔の和歌の跡を訪ねて、(敷島の:枕詞)和歌の道を楽しみつつ、この和歌集を撰んで、後々の世まで伝えようとした。

かの万葉集は、歌の源だ。だいぶ時代が経て、今の人がその読み方を知ることは難しい。延喜の醍醐天皇の御代には、四人に勅命を下して、古今集を撰ばせ、天暦のかしこき村上天皇は、梨壺の五人に命じて後撰集を集めさせた。その後、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載集などは、みんな一人の選者が勅命を承ったので、聞き漏らした、見つけられなかった歌もあるだろう。よって、古今や後撰の歌の例に従って、五人の選者を任命して、撰歌を奉らせた。その上、自ら(後鳥羽院)歌を撰び、自分で磨きをかけることは、遠く中国の梁の武帝太子蕭統が文選を撰んだ文学の路をたずねてみると事例としてはあるが、(浜千鳥の:枕詞)その先例のように、我が国の大和歌の始まって後、(呉竹の:枕詞)先例など無かった。

このうち、和歌集の撰歌を命じた帝の自らの歌を撰ぶことは、昔の例はあったけど、十首以下であった。しかるに、今色々選んだところ、私(後鳥羽院)の歌が三十首以上も撰ばれた。これは皆が、人の目を注ぐ美しさもなければ、心を留める内容もないが故に、どの歌が良いか判別しにくく、(森の朽葉:枕詞)数が積もり、(汀の藻屑:枕詞)捨てられなくなってしまったからで、和歌にふける思い深くしていたことで、後世の嘲りを顧みないことだ。

時に、元久二年三月二十六日に、この和歌集ができあがった。現代の見えるものを軽視して、古くて伝え聞くことしかできないものを重視するあまり、(いそのかみ:枕詞)優れた勅撰集を辱めるとはいえども、その流れを汲んで、源をたずねた故に、(歌のもう一つの源流であるよみ人知らずの聖徳太子への感謝の歌の富の小川の)絶えない道を興したところ、(露や霜はすぐ消えて改まるけれど、松に吹く風の散ることはなく)この集は人々の記憶から消えることはなく、(春秋は巡ってきたが、空行く月に曇りは無く)年を経てもその輝きは変わらない。この和歌集の完成の場面に会えるものは、これを喜んで、後世の人でこの道を仰ごうと思うものは、和歌集の完成した時代を偲んでくれないだろうか。

新古今和歌集 真名序

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新古今和謌集 眞名序

夫和哥者、群之祖、百福之宗也。玄象天成、五際六情之義未著、素鵞地靜、三十一字之詠甫興。爾來源流寔繁、長短雖異、或抒下情而達聞。或宣上而致化。或屬遊宴而書懷、或採艷色而寄言。誠是理世撫民之鴻徽、賞心楽事之龜鑑者也。

是以聖代明時、集而録之。各窮精微。何以漏脱。然猶崑嶺之玉、採之有餘。林之材、伐之無盡。物既如此。謌亦宜然。

仍詔【誥】參議右衞門督源朝臣通具、大藏卿藤原朝臣有家、左近衞權少將藤原朝臣定家、前上總介藤原朝臣家隆、左近衞權少將藤原朝臣雅經等、不擇貴賤高下、令拾錦句玉章。神明之詞、佛陀之作、為表希夷、雜而同隷。始於曩昔、迄于當時。彼比總編、各俾呈進。毎至玄圃花芳之朝、鎖砌風涼之夕斟難波津之遺流、尋淺香山之芳躅。或吟或詠抜犀象之牙角、無黨無偏、採翡翠之羽毛。裁成而得二千首。類聚而為二十巻。名曰新古今和謌集矣。時令節物之篇、屬四序而星羅、衆作雜詠之什、並群品而雲布。綜緝之致、蓋之備矣。

伏惟、來自代邸、而踐天子之位、謝於漢宮。而追汾陽之蹤。今上陛下之嚴親也。雖無隙帝道之諮詢、日域朝廷之本主也。爭不賞我國之習俗。方今せん宰合體、華夷詠仁。風化之樂萬春、春日野之草悉靡、月宴之契千秋、秋津洲之塵惟靜。誠膺無為有截之時、可題【頤】【顕】染毫操牋之志。故撰斯一集、永欲傳百王。

彼上古之萬葉集者、蓋是和哥之源也。編次之起、因准之儀、星序惟遙、煙欝難披。延喜有古今集。四人含綸命而成之。天暦有後撰集。五人奉綸【絲】言而成之。其後有拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載等集。雖出於聖主【王】數代之勅、殊恨為撰者一身之最。因茲訪延喜天暦二朝之遺美、定法河歩虚、五輩之英豪、排神仙之居。展刊修之席而已。斯集之為體也、先抽萬葉集之中、更拾七代集之外。深索而微長無遺、廣求而片善必擧。但雖張網於山野、微禽自逃。雖連筌於江湖、小鱗【鮮】偸漏。誠當視聽之不達、定有篇章之猶遺。今只随採得、且所勒終也。

抑於古今者、不載當代之御製。自後撰而初加其時之天章。各考一部不滿十篇。而今所入之自詠、已餘三十首。六義若相兼、一両雖可足、依無風骨之絶妙、還有露詞之多加。偏以耽道之思、不顧多情之眼。

凡厥取捨者、嘉尚之餘、特運冲襟。伏羲基皇而四十萬年。異域自雖觀聖造之書史焉、神武開帝功而八十二代、當朝未聽叡策之撰集矣。定知、天下之都人士女、謳謌斯道之遇逢矣。不獨記仙洞無何之郷、有嘲風弄月之興、忽【亦】欲呈皇家元久之歳、有温故知新之心。修撰之趣、不在茲乎。

【于時】聖暦乙丑王春三月云爾。

※【 】内は、本による異同
※ 太字は、漢字コードの無い字を、意味で置き換えました。また全く無い字をひらがなとしました。


新古今和歌集 真名序 読み下し文

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真名序読み下し文

 それ和歌は、群徳の祖、百福の宗なり。玄象天成り、五際六情の義未だ著れず、素鵞の地静かに、三十一字の詠はじめて興る。しかしてより、源流まことに繁く、長短異なりといえども、或は下情を抒べて聞に達し、或は上徳を宣べて化を致し、或は遊宴につらなり懐を書し、或は艶色を採りて言を寄す。誠にこれ理世撫民の鴻徽、賞心楽事の亀鑑なる者なり。

ここを以て聖代の明時、集めてこれを録す。おのおの精微を窮む。何を以てか漏脱せむ。

然れども猶崑嶺の玉、これを採れども余りあり。林の材、これを伐れども尽くることなし。物既にかくの如し。歌もまた宜しく然るべし。

よりて、参議右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近衛権少将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近衛権少将藤原朝臣雅経らに詔して、貴賤高下を択ばず、錦句玉章を拾はしむ。神明の詞、仏陀の作、希夷を表さむ為に、雑えて同くしるせり。曩昔より始めて、当時に迄るまで。かれこれ総べ編みて、おのおの呈進せしむ。玄圃花芳しきの朝、鎖砌風涼しき夕に至るごとに、難波津の遺流をくみ、淺香山の芳躅を尋ね、或は吟じ或は詠じて、犀象の牙角を抜き、党無く偏無くして、翡翠の羽毛を採れり。裁成して二千首を得、類聚して二十巻と為す。名づけて新古今和歌集と曰う。時令節物の篇、四序をつけて星のごとくつらなり、衆作雑詠の什、群品を並べて雲のごとく布けり。綜緝のむね、けだしここに備へり。

伏して惟んみるに、代邸より来りて、天子の位を踐み、漢宮を謝して。汾陽の蹤を追い。今上陛下の厳親なり。帝道の諮詢に隙無しといえども、日域朝廷の本主なり。いかでか我が国の習俗を賞せざらむ。

方今せん宰体を合はせ、華夷仁を詠ず。風化の万春を楽しみ、春日野の草悉く靡びき、月宴の千秋を契り、秋津洲の塵これ静かなり。誠に無為有截の時にあたり、染毫操牋の志を題す【やしなう】【顕す】べし。故に斯に一集を撰び、永く百王に伝えむと欲す。

かの上古の萬葉集は、けだしこれ和歌の源なり。編次の起り、因准の儀、星序これ遙かにして、煙爵披き難し。延喜に古今集有り。四人含みて綸命をこれを成しき。天暦に後撰集有り。五人綸【絲】言を奉じてこれを成しき。その後、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載等の集有り。聖主【王】数代の勅に出づといえども、殊に恨むらくは撰者一身の最と為す。これに因りて延喜天暦二朝の遺美訪いて、法河歩虚五輩の英豪を定め、神仙の居を排きて、刊修のむしろを展ぶるのみ。

この集の体たるや、先ず萬葉集の中を抽き、更に七代集の外を拾う。深く索めて微長も遺すこと無く、広く求めて片善も必ず挙げたり。但し、網を山野に張るといえども、微禽自らに逃れ、筌を江湖に連ぬといえども、小鱗ひそかに漏る。誠に視聴の達らざるに当りて、定めて篇章の猶も遺れること有らむ。今は只随採得せるに随いて、しばらく勒し終る所なり。

そもそも古今においては、当代の御製を載せず。後撰より初めてその時の天章を加へたり。各一部を考ふるに、十篇に満たず。しかるに今入るる所の自詠は、已に三十首に余れり。六義若し相兼ねば、一両に足るべしといえども、風骨の絶妙無きに依りて、還りて露詞の多く加われること有らむ。偏に道に耽るの思いを以て、多情の眼を顧みず。

おおよそ、その取捨せるは、嘉尚の余り、特に冲襟を運らせり。伏羲皇徳を基して四十万年。異域自ら聖造の書史を観るといえども、神武帝功を開きて八十二代、当朝未だ叡策の撰集を聴かず。定めて知りぬ、天下の都人士女、斯道の逢うに遇えるを謳歌せむことを。

独り仙洞無何の郷、嘲風弄月の興有るを記すのみならず、また皇家元久の歳、故きを温ねて新しきを知るの心有るを呈さむと欲す。修撰の趣、ここに在らざらむや。

干時聖暦乙丑王春三月しか云う。

新古今和歌集 真名序 意訳

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真名序意訳文

それ和歌は、様々な徳の祖、百福の根源である。日、月、星などの天ができて、歌の基である五つの人間関係である君臣、親子、兄弟、夫婦、朋友と六つの感情である喜び、怒り、哀れみ、楽しみ、愛、悪の区分がまだはっきりとしていなかった神代の時代に、出雲の素鵞の地で、静かに、素戔嗚尊の三十一字の歌が始めて興った。それ以来、その歌の源流はまことに繁栄し、長歌短歌の形式があるとといえども、ある時は下々の意見を詠んで天皇のお聞に達し、ある時は陛下の徳を宣べて民を教化し、ある時は遊宴に出席して懐を書き、ある時は、男女の情愛や四季の美しさを採って言葉にしてきた。誠にこれは世を治め、民を慈しむ帝王の偉大な徳行である。

このような理由から歴代の天皇は、歌を集めてこれを記録した。おのおの勅撰集は精微を極めているから、どうして秀歌の漏れなどあるだろうか。だけれどもなお、崑嶺山の玉は、これを採れども余りがあり、林の材木は、これを伐れども尽きることはない。物でもかくの如くだ。歌もまた同じく然るべし。

よって、参議右衛門督源朝臣通具、大蔵卿藤原朝臣有家、左近衛権少将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近衛権少将藤原朝臣雅経らに詔して、身分の高い低いを択ばず、錦のような美しい歌や玉のような優れた文章を収集させた。神様の言葉、仏陀の作も奥深い真理を表す為に、普通の歌に交えて同じく集めた。古代より始めて、現代に至るまで、かれこれ総べて編集して、おのおの差し出させた。院御所の花がかぐわしい朝から、禁裏の庭に風涼しき夕べに至るごとに、難波津の末裔をくみ、淺香山のの立派な業績を尋ね、吟じたり詠じたりして、犀の角象の牙のような優れた歌を抜き出し、党派意識無く偏らず、かわせみの羽毛のような優れた歌を採った。形を整えて二千首を得て、分類して二十巻となった。名づけて新古今和歌集という。季節の風景を詠んだ歌は、四季の順に従って、星のごとくつらなり、多くの人の様々な歌は、群がり雲のように連なって広がっている。編集の結果ここに備えている。

謹んで考えてみるに、王族の一人にすぎなかったが、図らずも天皇となり、宮殿を退いて、上皇となった。今の天皇陛下の父親だ。帝王の政治に相談を受け、暇がないとえども、日本の朝廷の主として、どうして我が国の習俗である歌を賞せずいられようか。

現在君臣は一致団結して政治を行っているので、国内や海外でも仁政を謳歌している。下の者へ徳化が、万代の春まで続くことを楽しみ、春日野の草はことごとく靡びくように民は従い、観月の宴に千秋の繁栄を約束し、日本は乱もなく静かである。誠に人為を用いず自ずか

らよく治まっている泰平の時にあたり、筆を染めて紙をとって文筆への志を題す【やしなう】【顕す】べきだ。故にここに一集を撰び、永く代々の天皇に伝えようとする。

かの上古の万葉集は、けだしこれ和歌の源なり。編纂の由来や、典拠の問題は、星の並びのようにこれ遙かにして、煙が晴れないようにはっきりしない。延喜の醍醐天皇の時代に古今集が有り。四人が勅命を受けてこれを成した。天暦の村上天皇の時代に後撰集が有り。五人は勅命を奉じてこれを成した。その後、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載等の集が有る。天皇数代の勅命によって出来たといえども、ことに残念なのは、撰者一人でそれらの集が撰ばれたことだ。そういうわけで延喜天暦二朝の先例に習って、公卿の中の優れた五人の英豪を撰者と定め、仙洞御所に和歌所を設置して、編集の場所を設けた。

この集の内容は、先ず万葉集の中の歌を抽出し、更に七代集に撰ばれた歌以外の歌を拾う。深く探って少しでもよい作品は残すことなく、広く求めて部分的に良い歌も必ずあげた。但し、網を山野に張っても、小鳥は自らに逃れ、筌を川や湖に仕掛けても、小魚がひそかに漏れるものだから、誠に見聞及ばないままに、定めて作品が猶も遺れること有るだろうが、今はただ採録できた作品によって、仮に編纂し終わったところだ。

そもそも古今においては、当代の宇多上皇や醍醐天皇の御製を載せず、後撰より初めてその時の村上天皇の御製を加えた。それぞれの勅撰集を考えるに、御製は十首に満たず。しかるに今集の入撰した自詠は、すでに三十首以上だ。もし私の歌が六義(風・賦・比・興・雅・頌の漢詩の六体)を兼備していれば、一、二首で十分だといえども、表現の優れた絶妙の歌が無いので、かえってつまらない歌の多く加われることとなっただろう。ひとえに歌道に耽る思いを以て、情趣の解する人の批判を顧みない結果だ。おおよそ、その取捨選択に際して、作品を賞する余り、特にこだわりのない心を巡らせた。古代中国の皇帝の伏羲の皇徳の発明した文字を基として四十万年たち、中国では自ら皇帝の編纂した書物を読むことがあるといえども、神武天皇が帝政を開いて八十二代、まだ我が国では天子の意見による撰集を聴かない。都人の男女は、歌道が繁栄するこの時に遭遇したことを喜び讃え、謳歌することを知るだろう。

この集は、独り仙洞御所で、風をうそぶき月をもてはやした興の有るを記録したのみならず、また皇家の元基が久しく続くことを祈念した年号元久の歳、故きを温ねて新しきを知るの心が有ることを示そうとするものである。本集の編撰の趣旨は、ここに在るといえる。

聖暦乙丑の元久二年の泰平の三月しかとこの序文を記した。

新古今和歌集 隠岐本識語

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新古今和謌集        隠岐本御識語

いまこの新古今【集】は、いにし元久のころほひ、和謌所のともがらにおほせて、ふるきいまの哥をあつめしめて、そのうへみづからえらびさだめてよりこのかた、いへ/\のもてあそびものとして、みそぢあまりのはるあきをすぎたれば、いまさらあらたむべきにはあらねども、しずかにこれをみるに、おもひおもひの風情、ふるきもあたらしきもわきがたく、しな/"\のよみ人、たかきいやしきもすてがたくして、あつめたるところの哥ふたちゞなり。

かずのおおほかるにつけてはうたごとにいうなるにしもあらず。そのうち、みづからが哥をいれたること三十首にあまれり。みちにふける思ふかしといふとも、いかでか集のやつれをかへりみざるべき。

おほよそたまのうてな、かぜやはらかなりしむかしは、なほ野邊のくさしげきことわざにもまぎれき。いさごのかど、月しづかなるいまは、かへりてもりのこずゑふかきいろをわきまへつべし。

むかしより集を抄することは、そのあとなきにしもあらざれば、すべからくこれを抄しいだすべしといへども、攝政太政大臣に勅して假名の序をたてまつらしめたりき。すなはちこの集の栓とす。しかるを抄せしめば、もとの序をかよはしもちゐるべきにあらず。これによりてすべての哥ないし愚詠のかずばかりをあらためなほす。

しかのみならず、まき/\の哥のなかかさねて千哥むもゝちをえらびて、はたまきとす。たちまちにもとの集をすつべきにはあらねども、さらにあらためみがけるはすぐれたるべし。

あまのうきはしのむかしをききわたり、やへがきのくものいろにそまむともがらは、これをふかきまどにひらきつたへて、はるかなる世にのこせとなり。

新古今和歌集 隠岐本識語 訳

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新古今和歌集 隠岐本識語 現代語訳

今この新古今集は、先の元久の当時、和歌所の撰者に命じて、古い歌と今の歌を集めさせ、その上、自ら撰び定めてよりこの方、家々の楽しみとして三十年も過ぎたが、今更改めるべきではないが、ゆっくりとこれを眺めてみると、思い思いの風情、古い歌も新しい歌も分別が難しく、それぞれの歌人、身分の高い低いにかかわらず棄てがたくて、集めてきたところの歌が二千首になっている。

数が多くなると歌毎にそれほどでもないものある。そのうち、自らの拙い歌を入れたのが三十首以上となった。その歌集に没頭したと思うかもしれないが、どうしても歌集がみすぼらしくなってしまうのを顧みないでいられなくなった。

おおよそ、すばらしい御殿の中で、世間の風がやわらかだった昔は、野原の草が繁った様な世間の色々な事に紛れてしまった。隠岐の砂浜の門にかかる月は静かになった今は、顧みても森の梢が深い色を判断できる様になった。

昔より歌集を更に改定することは、ないわけでもないので、全てこれを改定しようかと思うが、摂政太政大臣に命令して、仮名序を作らせた。すなわちこの歌集の要点とした。したがって、歌集を改定すれば、元の序は使うわけにもいかないのでこの序を書いた。

以上のことから、全ての歌の中から劣った歌の数ばかりの集ということを改め直した。それだけではなく、それぞれの巻の中の歌から千六百首を撰んで、二十巻とした。それによってもとの歌集を棄てるべきではないが、更に改めて良くしたものは優れたものだ。

最初の和歌である伊弉冉尊(いざなみ)・伊弉諾尊(いざなぎ)の神が日本列島を作ったときの天の浮き橋があった最初の歌を聞いて過ごし、須左之男命が詠じた最初の短歌である八重垣の雲の色に心を寄せる人々は、この歌集を大事にして、伝えて、いつまでも世に残してくれ。

増鏡 第二 新島守 隠岐

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四つにて位につき給ひて、十五年おはしましき。おり給ひて後、土佐の院十二年、佐渡の院十一年、なほあめの下は同じことなりしかば、すべて三十八年が程、この國のあるじとして萬機のまつりごとを御心ひとつにをさめ、もゝのつかさを從へ給ひしその程、吹く風の草木をなびかすよりもまされる御有樣にて、遠きをあはれみ、近きをなで給ふ御惠み、雨のあしよりもしげければ、つの國のこやのひまなきまつりごとを聞き召すにも、なにはのあしの亂れざらん事をおぼしき、はこやの山の峰の松も、やう/\枝を連ねて千代に八千代を重ね霞の洞の御すまひ、幾春をへても空行く月日の限り知らずのどけくおはしましぬべかりつる世を、あり/\てよしなき一ふしに、今はかく花の都をさへたち別れ、おのがちり/”\にさすらへ、いそのとまやに軒を並べて、おのづからことゝふものととては、浦につりするあま小船、鹽燒くけぶりのなびくかたをもわがふるさとのしるべかとばかり、ながめ過ぎさせ給ふ御すまひどもは、それまでと月日を限りたらんだに、あす知らぬ世のうしろめたさに、いと心細かるべし。ましていつを果てとか、めぐりあふべき限りだになく、雲のなみ煙の浪のいくへとも知らぬさかひに、世をつくし給ふべき御さまども、くちをしといふもおろかなり。

後鳥羽院

生没:誕生 治承四年(1180年)-崩御 延応元年(1239年)

在位:寿永2年(1183年)-建久9年(1198年)

承久の変 承久3年(1221年)

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