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新古今和歌集の基礎的研究 蔵書

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新古今和歌集の基礎的研究
後藤重郎著




塙書房刊


著者:後藤重郎
初版:昭和43年3月28日
発行:塙書房




序 ………高木市之助
序 ………久松潜一

序章 新古今和歌集成立史序説
第一章 選歌時代
 第一節 新古今時代の黎明
 第二節 和歌所設置・寄人任命・撰者選定
 第三節 藤原定家の選歌と天神信仰
第二章 御點時代
第三章 部類時代
 第一節 配當作業と配列作業
 第二節 卷頭歌に關する問題
第四章 竟宴本の成立
 第一節 竟宴 附竟宴本(第一類)
 第二節 序
第五章 切繼時代
 第一節 切繼の經過
第六章 切繼時代の諸本
 第一節 切繼時代の諸本(第二類)
 第二節 各部に關する諸問題(賀部・戀部・神祇部)
 第三節 作者名表記に關する問題
 第四節 烏丸本新古今和歌集に關する問題
第七章 家長本
 第一節 家長本成立の歴史的背景
 第二節 家長本の本文(第三類)
第八章 隠岐本
 第一節 隠岐本・同研究史概観
 第二節 隠岐本系諸本(第四類)
 第三節 隠岐本に關する諸問題
第九章 撰者名注記
 第一節 撰者名注記研究史概観
 第二節 撰者名注記を有する諸本
 第三節 撰者名注記に關する諸問題

附録
 異本所収歌一覧表・歌順異同一覧表
 撰者名注記一覧表
 隠岐本符號一覧表
索引
結びに代へて

斎宮女御 琴の音に 公任 高辻豊長筆色紙コレクション

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左  斎宮女御

琴のねに峯の

  松風かよふら
        し
   いづれの緒より

    しらべそめけむ


拾遺集
野宮に、斎宮の庚申し侍りけるに、松風入夜琴といふ題をよみ侍りける
琴のねに峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ

徽子女王。斎宮に卜定され、帰朝後に村上天皇の女御になった。


高辻殿豊長卿

高辻豊長
寛永二年(1625年)―元禄十五年(1702年)六月
初名は、良長と名乗る。
長純の男。実は東城坊長維の二男。一字名長。権大納言式部大輔正二位。
承応四年(1655年)豊長に改名。
貞享元年(1684年)権大納言
元禄七年(1694年)正二位

平成30年10月31日 參點九/拾二

明月記 建永元年九月二十五日

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明月記 建永元年

九月
廿五日。天晴る。清範早く参ずべき由を示す。巳の時、営みて参ず。述懐三首の歌、新古今に入るべし。書き出すべき由、仰せ事有り。又藤少将を召しに遣すと云々。午終許りに神泉に出でおはしますの後、少将と共に之を書き出さしむ。清範、神泉に持ちて参ず。即ち退出す。
―略―。

述懐三首の歌

遍昭 垂乳根は 公任 萩原員従筆色紙コレクション

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 右  僧正遍昭

たらちねはかゝれ
        り
とてしもむば
        け
たまのわがくろか
        む
みはなでずやあ



後撰集
初めて頭おろし侍りける時、物に書きつけ侍りける
たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪をなでずやありけむ

たらちめはかかれとてしもむばたまのわがくろかみをなでずやありけむ


萩原殿員從

萩原員従
正保二年(1645年)―宝永七年(1710年)
錦小路頼直の三男。
初名は信成、信康に改名し、豊国神社祠官萩原兼従の養子となって員従と名乗る。
元禄十五年(1702年):正三位


平成30年10月31日 參點九/拾二

2つの大江山 小倉山百人一首

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 小式部内侍

大江山
いく
  野ゝ
みちの
とを
ければ
まだ
 ふみも
見ず
あまの橋立
ーーーーーーーーー
○小式部内侍
和泉守橘道貞
女母ハ和泉式部
上東門院女房

橘諸兄公十一世
・仲遠───┐
┌─────┘
└道貞───┐
┌─────┘
└小式部内侍

新後拾
夏くさは
 しげりに
  けりな
  大江山
越て
  いくのゝ
 道見えぬ
   まで
ーーーーーーーーーーーーーーーー
此哥の心は小式部はいづみ式部が
子なり大内にて哥あわせのとき
かの母のあまのはしだてに住
けるがたのみてうたなどよませ
けるなどゝ○あふ人ありしをり
しも大内にて哥あわせのべし
おりしもある人の小式部が袖を
ひかへて天の橋立よりはやく
きたれる○とべしとき○此哥
をよみて人このふしんをはれ
たる哥なり此はしだていまだ
見ずましてふみまで○かよはし
たる○はなきといへる哥なり
小式部○年なるゆえ
      人不審し侍り
           し
          となり 
ーーーーーーーーーーーーーーーー

明月記 元久元年七月二十二日 部類開始

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明月記 元久元年

七月
廿二日。天晴る。昏に大雨小雷。今日、撰歌の部類を始めらるべし。和歌所に参ずべき由、一昨日催し有り。仍て参入す。―略―。

伊勢 三輪の山 公任俊成 園基福筆色紙コレクション

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 右   伊勢

三輪のやまいかに
    まち
      みん
 としふとも
     たづ
       ぬる 
  人もあらじと

      おもへば


古今
仲平の朝臣あひしりて侍りけるを、離がたになりにければ、父が大和の守に侍りけるもとへまかるとて、よみてつかはしける
みわの山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば

みわのやまいかにまちみむとしふともたずぬるひともあらじとおもへば


園殿基福公

園基福
元和八年(1622年)―元禄十二年(1699年)十一月
園基音の子。霊元天皇の外伯父。主に明正天皇(109代)から東山天皇(113代)までの五帝にわたり仕えた廷臣で、官位は従一位准大臣まで昇った。園家14代当主。

平成30年10月31日 參點九/拾二

明月記 元久元年七月二十三日 部類留守に付けられる

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明月記 元久元年

七月
廿三日。天晴る。歌の部類、留守に付けらる。仍て河陽に参ぜず。但し家長、清範を尋ぬるに皆参じ了んぬと云々。未の時、御幸し了んぬ。

業平 世の中に 公任 吉田兼敬筆色紙コレクション

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 左 在原業平
      朝臣

よのなかに

  たへてさくらの

    なかりせば

 はるのこゝろは

  のどけから
       まし



古今集 春歌上
なぎさの院にて桜を見てよめる
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

よのなかにたえてさくらのなかりせばはるのこころはのどけからまし


吉田殿兼敬卿

吉田兼敬
承応二年(1653年)―享保十六年(1732年1月)十二月
神道家・歌人。吉田神社の祠官、吉田家当主。
幼名は万丸、初名は兼連。
元禄十年(1697年)名を兼敬と改名
享保十四年(1729年)正二位

平成30年10月31日 參點九/拾二

明月記 元久元年七月二十七日 春歌上下終る

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明月記 元久元年

七月
廿七日。天晴る。家長夜部京に帰る。其の告げに依り、和歌所に参ず。大理、大府卿(雅)、羽林、家長会合す。羽林執筆。相構へて、春の上下、形の如くに功を終ふ。夕に退下す。家長坏酌瓜子を勧む。大理以下、柿本の影胙と称す。今夜の行幸、参ぜず。

小倉山百人一首 かささぎの渡せる橋

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 中納言家持

かさゝぎの
 わたせる
橋に
をく
 霜の
しろき
   を
みればよぞ更
    にける
ーーーーーーーー
○中納言家持
天平元年己巳生ず
安丸孫旅人子云云
大伴宿祢安麿大
納言贈從二位大
伴宿祢旅人家持
大納言從二位八
雲御抄ニ曰万葉
の作者○ふきれ共
家持人丸赤人など
を棟梁とせり一
説に天智天皇大
伴皇子与多都
牟麿黒主が弟の
夜須良丸は安
麿と同人也可尋
之從三位中納言東
宮大夫右大弁太宰
少貮抔を経たり又
征夷将軍に任ず延
暦四年八月薨ず。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
此哥の心ははうゑひに月おちてからす
なきて霜天にみつといへる○ばかり
なり。やかもちがあんやにあふて月も
なくさへたる天にむかひてぎんじ思へる
なり。しも天に向ひてみちたるとて
目前にふりたる霜にあらず晴夜
の運天さながら霜のみちたると
見ゆるやうなる程也此は○御説也
かさゝぎからすのことなり七夕のあふ
ときからすの羽をならべてはしに
なすをうじ○かう○その橋とは
いふなり
○季注ニ曰冬の夜の更たる景
氣を直ぐにうつくしたり
ーーーーーーーーーーーーーーーー

躬恒 いづくとも 俊成 中院通茂筆色紙コレクション

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 左   凡河内躬恒

いづくとも春の

  ひかりはわかな
        くに
  まだみよしのゝ

      山は雪
        ふる

 


中院殿通茂公

中院通茂
寛永八年(1631年)―宝永七年(1710年)三月
老内大臣と呼ばれ、有職、歌道、書道、音曲等に深い。熊沢蕃山門下。
小倉事件での舌禍により勅勘を被り長期間謹慎。
貞享四年(1687年)小倉事件をめぐる霊元天皇への暴言により出仕を止められ、元禄6年(1693年)まで謹慎生活を送る。
宝永元年(1704年)2月内大臣に任じられ、わずか3日にして辞退
宝永二年(1705年)従一位

平成30年10月31日 參點九/拾二

明月記 元久元年七月二十八日 夏の部終ふ 

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明月記 元久元年

七月
二十八日。天晴る。早旦、殿下に参ず(夜部、行幸に御参り。坊門殿におはします)。御共して、五辻の新御所に向ふ(前大納言営み作る。来月八日に御渡り)。御覧じ廻す。午の時に還りおはします。途より和歌所に参ず。昨日の如く、家隆朝臣参会す(雅経殊に遅参)。大理櫃二合を取り寄せらる(銘、代々勅撰の上下)。破子、瓜、土器、酒等あり。又寒氷あり。大理自ら刀を取り、氷を削らる。入興甚し。納涼と雖も、外人無きにあらず。堪能と称して之を削る。白き布巾を以て、氷を裹みて、左手に之を扣く。皐陶の職、頗る軽々たり。各々饗応して之を食す。今日、夏の部を終ふ。七夕の歌、又之を書く。取り置きて退出す。夜に入りて帰る。

大理:通具

源家長日記 女流歌人

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此ころよに女の歌よみすくなしなど つねになげかせ給。むかしより歌よみときこゆる女房せうせう侍。
いんぶ門院の大輔も一とせうせにき。又さぬきみかはの内侍丹後少将など申人々も今はみなよはひたけてひとへに後の世のいとなみしてこゝかしこのいほりにすみなれて 歌のこともすたれはてたればときどき歌めされなどするも 念仏のさまたげなりとぞ うちうち なげきあへるときゝ侍

百人一首頼常聞書 かささぎの渡せる橋

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  中納言家持
新古
かさゝきの渡せる橋にをく霜のしろきをみれは夜そふけにける
此哥の作者の親は大伴宿禰旅人のこと此旅といふ字をもちととよむなり。当流の口伝也。哥のこゝろはあまの川の事也。おもしろき躰の哥と也。此はしにさきのはねをならへて七夕をわたすなり。それをかさゝきの渡せる橋といふなり。をく霜の白きをいはんためか。

百人一首聞書 頼常聞書
頼常は、東常縁の子と推察されている。
この本の柿本人麿の項により、常縁の注を継承した頼常の聞書と考えられている。(有吉保)

人麻呂 ほのぼのと 公任 芝山広豊筆色紙コレクション

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  柿本人麿

ほの/"\とあかし

のうらの朝きりに

しまがくれゆく

  ふねをしぞおもふ



古今集羇旅歌
題知らず よみ人知らず
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
このうたある人のいはく柿本の人麿がうたなり

ほのぼのとあかしのうらのあさぎりにしまがくれゆくふねをしぞおもう


芝山殿廣豊卿

芝山広豊
延宝二年(1674年)―享保八年(1723年)二月
藤原北家高藤流勧修寺家庶流である芝山家3代当主。
左中将四辻季輔の次男として誕生。権中納言芝山定豊の養子となる。和歌、書画を能くした。
元禄二年(1689)、初名季寿を広豊と改名
正徳四年(1714)従三位
享保四年(1719)参議兼右衛門督。



平成30年10月31日 參點九/拾二

明月記 元久元年八月七日 部類の沙汰の

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明月記 元久元年

八月
七日。天晴る。巳の時許りに殿に参ず。御共して院に参ず。部類の沙汰あるべき由、昨日催すと雖も、皆病を称して参ぜずと云々。未の時、即ち御幸了りて退出す。殿下是より先、還りおはしますと云々。―略―。

百人一首経厚抄 かささぎの渡せる橋

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新古
かさゝきの渡せる橋にをく霜のしろきをみれは夜そ更にける
冬部
かさゝきの橋を読事此哥より始れり。此哥節々あれとも慥成不見。或一義寒夜の天漢の白きを見てかしこに鵲の橋も有こそすらめと推量りて渡せる橋にをく霜のと云也、と申儀を以て仮に可用之歟。追て有口伝。此哥を以て鵲を橋に霜を読事、口岑か哥に  /鵲の渡せる橋に置霜を夜半にふみ分ことさらにこそ  此哥大和物語にあり。曽祢好忠(曽丹とも云是ヲ字と云)
/鵲のちかふる橋のまとをにて隔る中に霜やをくらん
   ○中納言家持
/大納言従二位大伴宿祢旅人男。

百人一首経厚抄は、百人一首抄又は百人一首聞書と呼ばれ、奥書から享録三年(1503年)の成立で経厚法印著。青蓮院尊鎮法親王に講じた時の注釈。(位藤邦生)

三十六歌仙 12枚色紙評価

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三十六歌仙 12枚色紙

宗于
豊岡殿有尚卿
承応三年(1654年)-天和二年(1682年)九月

信明
平松殿時方卿
慶安四年(1651年)-宝永七年(1710)

清正
清閑寺殿熙定卿
寛文二年(1662年)-宝永四年一月(1707年)

貫之
傳法院殿實治公(三条実治)
慶安三年(1651年)‐享保九年八月(1724年)
号は暁心院観照。
元禄二年(1689年)実治と改名。
元禄六年(1693年):内大臣に就任

重之
高丘殿季起卿
寛文四年(1664年)-正徳五年一月(1715年)


富小路貞維卿
寛文八年(1668年)―正徳元年(1711年)
元禄二年(1689年)貞維と改名。

斎宮女御
高辻殿豊長卿
寛永二年(1625年)―元禄十五年(1702年)六月

遍昭
萩原殿員従
正保二年(1645年)―宝永七年(1710年)
貞享四年(1687年):従三位
元禄十五年(1702年):正三位

伊勢
園殿基福公
元和八年(1622年)―元禄十二年(1699年)十一月
貞享三年(1686)従一位准大臣

業平
吉田殿兼敬卿
承応二年(1653年)―享保十六年(1732年1月)十二月
元禄元年(1688年)従三位
元禄十年(1697年)名を兼敬と改名
享保十四年(1729年)正二位

躬恒
中院殿通茂公
寛永八年(1631年)―宝永七年(1710年)三月
宝永元年(1704年)2月内大臣

人麻呂
芝山殿廣豊卿
延宝二年(1674年)―享保八年(1723年)二月
元禄二年(1689)、初名季寿を広豊と改名
正徳四年(1714)従三位

極札とそれぞれの筆者の生没年を見ると、12名は全て同一時期に生きていた事が分かる。
この筆者の中で、唯一時代がヅレているのは、28歳で早世した豊岡有尚である。天和二年(1682年)没であれば、これらのシリーズが出来たのは、天和年間以前となる。
一方、極札を書き、屏風に張り付けたのは(色紙の裏に金箔の残がある)以下の理由からかなり後となる。
三条実治や富小路貞維が改名したのは元禄二年(1689年)、吉田兼敬が改名したのは、元禄十年(1697年)となっている。
従三位以上を「卿」、准大臣以上を「公」と敬称を付けられる。これに合わないのは、やはり豊岡有尚であり、公卿の地位までは至っていない。低い身分なのだが、娘が鷹司信子に従い、江戸に下向し徳川綱吉の側室(清心院)となった為に、死後追号されたのかも知れない。
極札には、中院通茂には「公」の称号を使っているが、通茂が内大臣となったのは、宝永元年(1704年)2月である。芝山広豊が正徳四年(1714)に従三位となる事から、「卿」となる。
萩原員従は、貞享四年(1687年):従三位となっているので、本来は「卿」の称号となるが、無記載となっているが書き忘れたのであろう。
伝法院殿實治公は、内大臣以上で伝法院の称号を持った者はいないが、実治の名を持つのは三条実治だけなので、鑑定者の勘違いであろう。
三十六歌仙歌は、藤原公任と同歌人を別の感覚で選んだ藤原俊成の二種類がある。

明月記 元久元年八月二十四日 和歌を部類

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明月記 元久元年

八月
廿四日。天晴る、催しに依り、院に参ず。和歌を部類し、晩に退出す。
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