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Channel: 新古今和歌集の部屋
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彰考館蔵百人一首 かささぎの渡せる橋

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新古
鵲のわたせるはしにをく霜の白きをみれは夜そふけにける
此鵲の橋の事七夕の事にいへる烏鵲成橋登坂車線各別の事也。此哥の鵲橋は只天の事也。哥の心は霜満天と云義はかり也。家持か闇夜に起出て月もなくさえさえたる天にむかひて吟し出たる所也。霜の天に満たるとて眼前にふりたる霜にはあらす。晴夜の寒天さなから霜の満たるも見ゆるやうなる躰也。此義御説也。祇注に冬ふかく月もなく雲も晴たる夜霜は天にみちてさえ/\たる深夜なとにおき出て此哥を思はゝ感情かきり有へからすとあり。又鵲の橋の事きかねは事外枠大事に天皇のきけは又あまりにたやづきやうなるにより人の信もあさき事に成侍る間かきあらはし侍らすとあり。葬儀所なとまてはかやうにかきてヒセツにせしを末代の人は心あさきにや申あらはし侍る也。
大和物語云泉大将ひたりのおほいとのへまうて給へけり。外にて酒なとまいりてゑひて夜いたうふけてゆくりもなく物し給へり。おとゝおとろきていつくに物し給へるたよりにかあらんなときこえ給てみかうしあけさはくに壬生忠岑卿ともにあり。みはしのもとに松ともしなからひさまつきて御せうそこ申す。  鵲のわたせる橋の霜のうへを夜はにふみわけことさらにこそ となんの給と申す。あるしのおとゝあはれにおかしくおほしてその夜ひとよおほみきまいりあそひ給て大将も物かつき忠岑もろく給なとしけりと云々。猶略之。此哥も家持の鵲橋と同事にや侍らん。

彰考館蔵百人一首(幽斎抄)
宗祇抄を注釈の骨格とし、三条西家の説を継承する三条西実枝の講釈を取捨して細川幽斎がまとめたもの。慶長元年成立。

源家長日記 女流歌人

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此ころ世に女の歌よみすくなしなどつねになげかせ給。むかしより歌よみときこゆる女房せう/\侍。いんぶ門院の大輔も一とせうせにき。又さぬき、みかはの内侍、丹後、少将など申人々も今はみなよはひたけてひとへに後の世のいとなみしてこゝかしこの庵にすみなれて歌のこともすたれはてたればときどき歌めされなどするも念仏のさまたげなりとぞうち/\なげきあへるときゝ侍。此の人々のほかは又さらに聞こえず。心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なればさる人も侍らむ。又みにはぢてつゝしむ人も多かればなにのたよりにかきこゆべき。されば女の歌よみはこの古人たちなからむ後は更にたえなむずる事をくちをしき事にたび/"\仰せらる。

※いんぶ門院の大輔
殷富門院大輔
※さぬき
二条院讃岐。源頼政女。正治二年後鳥羽院初度百首で久しぶりに出詠し、内裏百番歌合1216年(建保4年)が最後の出詠。
※みかはの内侍
二条院三河内侍。寂念女。七条院大納言の母。
※丹後
宜秋門院丹後。源頼行女。讃岐とは従姉妹。異浦の丹後。後鳥羽院御口伝では「故攝政は、かくよろしき由仰せ下さるゝ故に、老の後にかさ上がりたる由、たび/\申されき」。正治二年後鳥羽院初度百首に出詠し、住吉社歌合1208年(承元2年)まで出詠。
※少将
小侍従ではないかと言われる。正治二年後鳥羽院初度百首出詠。

明月記 元久元年八月二十九日 例の和歌部類あり

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明月記 元久元年

八月
廿九日。天晴る。例の和歌部類あり。殿の御共して、院に参ず。―略―。

新古今秀歌 安田章生著 蔵書

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新古今秀歌   安田章生著





著者:安田章生
初版:昭和28年4月30日
発行:創元社

新古今集の内、歌三百五十四首を抄出し、評釈を加えた。
底本は、流布本で振仮名を施した。

「新古今について」に、アララギ派の正岡子規、島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明、釈迢空の新古今評を載せており、彼らが新古今をろくすっぽ読みもせず、新古今を軽視していた事が分かる。
新古今に好意を持った明星派の論調も載せている。

神祇歌、釈教歌が共に二首づつとなっている。巻軸歌の西行を外したのは西行研究の安田教授にしては残念。

うすくこき 宮内卿の没年1

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 千五百番歌合に
薄く濃き野辺のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ
          (建仁元年(1201年))

1 はじめに
宮内卿は、源師光の娘で兄弟に泰光、具親がおり、若くして後鳥羽院に使えた。
そして彗星の如く後鳥羽院歌壇に現れ、突然若くして亡くなった。
千五百番歌合に、後鳥羽院から推挙され、出詠し「うすくこき」の歌が評判となり、『若草の宮内卿』と呼ばれた。
彼女の歿年は不詳となっており、正徹物語には、「宮内卿は廿よりうちになくなりしかば」と二十歳前後に亡くなったと伝わっている。今回この問題を考えてみたい。

2 宮内卿の歌壇デビューと当時の評価
宮内卿の歌壇デビューは、正治二年十一月の新宮三首歌合(1200年)と明月記にあり、同時期後鳥羽院後度百首に出詠している。出仕後間もない頃と考えられているが、その若さでいきなり百首歌を後鳥羽院に詠進するというのはその力量を後鳥羽院が見抜いたからであろう。源家長日記によれば、後鳥羽院は歌壇には女流歌人が必要だが、殷富門院大輔、三河内侍など有名な歌人は亡くなっているか現役を退いており、現役女房は歌合に出詠するなどはしたないと考えて出て来ず、人材の不足を嘆いていた。
そして女流歌人として集められたのが、式子内親王、七条院大納言、後鳥羽院下野、俊成女、そして宮内卿である。
二条院讃岐、宜秋門院丹後姉妹や小侍従は、老齢で既に引退し尼となっていたが、歌会などに呼び出されていた。
後鳥羽院の女房として招かれた宮内卿に対する後鳥羽院の期待は大きく、後鳥羽院三度百首、通称千五百番歌合に抜擢された。歌人を30人集め、判定も工夫を凝らした空前絶後の催しだった。その様子は増鏡に詳しく記されており、後鳥羽院は、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内はまだしかるべけれども、けしうはあらずとみゆめればなん。かまへてまろが面を起こすばかり、よき歌つかうまつれよ」と仰せられ、「面うち赤めて、涙ぐみてさぶらひけるけしき、限りなき好きのほども、あはれにぞ見えける。」と如何に期待が高かったかが分かる。
後に後鳥羽院は隠岐に流されてから、古今百人の歌人を歌合形式に撰んだ時代不同歌合に、宮内卿は和泉式部と番わせ、最後に配置した。つまり最後のトリを飾る巻軸歌として「唐錦秋の形見や」を撰んでいる。
また、藤原定家は、恐らく後鳥羽院に提出した定家十体の中で宮内卿の三首撰んでおり、その鬼拉様の最後に「片枝さすをふのうらなし」を配置している。つまり、これも巻軸歌として選ばれている。
鴨長明は、無名抄「俊成卿女宮内卿兩人歌讀替事」の中で、「今の御代には、俊成卿女と聞ゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔に恥じぬ上手共成りける。」と評価したが、彼女の詠歌態度に「此人はあまり歌を深く案じて病に成りて、一度は死に外れしたりき。」とプレッシャーの中での詠歌に病となったと記している。父師光に注意されたが詠歌方法は止めず「終に命もやなくてやみにしは、そのつもりにや有りけん。」と残念がっている。
彼女の作歌活動に決定的に打撃を与えたのは、俊成卿九十賀の歌のミスであろう。
最後の詠歌は、当代の名のある歌人が召された元久元年春日社歌合で、宮内卿は俊成卿女と番い、三番とも両歌が優れていたので持となった。
落葉
八番 左 持         俊成卿女
月ぞもる音はしぐるゝ板間より木の葉ふりしく床のさむしろ
   右           女房宮内卿
ちりまがふ紅葉は庭のから錦しきもさだめずふく嵐かな
 左の莚、右のから錦、ともにをかしくきこゆ。可為持
暁月
八番 左 持         俊成卿女
袖におく露をたづねし秋の月しもまで残る在明の月
   右            宮内卿
これぞこの秋よりかねてまがひこし野原のしもに有明の月
 左右共に優也。為持
松風
八番 左 持         俊成卿女
かすが山みねのあらしも君がため松にふくなる万代のこゑ
   右            宮内卿
さびしさをわが身ひとつにこたふなりたそがれ時のみねのまつ風
又為持

明月記 元久元年十一月九日 御製切り入れ

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明月記 元久元年

十一月
九日。天晴る。巳の時、殿に参じ、又院に参ず。和歌所に於て、大府卿と、部類歌ニ御製を切り入れ了んぬ。申の時に退出す。―略―。明日春日の歌合せ、衆議判。巳の時に参ずべしと云々。毎日出仕、筋力の疲れ極めて甚しく、甚へ難し。

※明日春日の歌合
元久元年春日社歌合

唐詩選画本 送儲邕之武昌 李白

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 送儲邕之武昌
      李白

黄鶴西樓月長江萬

里情春風三十度空憶

武昌城送爾難爲別銜

杯惜未傾湖連張樂地山

逐泛舟行諾謂楚人重

詩傳謝朓清滄浪吾有曲

寄入櫂歌聲


儲邕の武昌に之くを送る
黄鶴西楼の月
長江万里の情
春風三十度
空しく憶ふ武昌城
爾を送って別を為し難く
杯を銜み惜んで未だ傾けず
湖は楽を張る地に連なり
山は舟を泛ぶる行を逐ふ
諾は楚人の重きを謂ひ
詩は謝朓の清きを伝ふ
滄浪吾に曲あり
寄て棹歌の声に入る

歌論 八雲御抄 雅経評

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雅経が、「鳴く音もよはの」と詠みたりしをば、家隆が、「露のぬきよはの嵐」と詠みたるに似たりと、定家難じ申しき。一文字二文字といふとも、耳に立つ様なる事を取るがあしき也。凡そ雅経はよき歌人にでありしを、後京極摂政の、人の歌を取るといはれけると聞きしを、さしもやと思ひしに、建暦の詩歌合の時、有家が「末の松やまずとととへ」と詠みたりしを、評定の時、定家、雅経などしきりに感じ申ししを、同年七月に五首の会ありしに「あしひきのやまず心にかかりでも」とやがて、詠みたりしは、いかなる事にか。雅経、さしも有家をうらやましく思ふべき程の歌よみにでもなきだにかかり。

明月記記事による新古今編纂年表 部類

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うすくこき 宮内卿の歿年2 詠歌歴と新古今

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3 宮内卿の詠歌歴と新古今
宮内卿の詠歌歴を見ると、以下通り、百首歌二度、五十首歌二度とかなりハードなものになっている。これを昼夜を問わず、ほとんど寝ないで秀歌を作り続けたら過労死するだろう。

正治二年(1200年)
十一月七日 新宮三首歌合
冬 正治二年後鳥羽院後度百首
 立田山あらしや峰によわるらむわたらぬ水も錦絶えけり

建仁元年(1201年)
二月 老若五十首歌合 宮内卿局 宮内卿 勝12負19持19
 かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えね春は来にけり 勝
 からにしき秋のかたみやたつた山散りあへぬ枝に嵐吹くなり 勝
 竹の葉に風吹きよわる夕暮の物のあはれは秋としもなし 負
三月 通親亭影供歌合 女房宮内卿 勝2負2持2
 柴の戸をさすや日かげのなごりなく春暮れかかる山の端の雲 勝
三月 新宮撰歌合 宮内卿(後鳥羽院官女師光女) 負2持1
四月 鳥羽殿影供歌合 女房宮内卿 負1持2
八月三日 和歌所影供歌合 女房宮内卿 勝2負1持3
八月十五日 八月十五夜撰歌合 宮内卿 勝4持2
 心あるをじまの海士のたもとかな月宿れとは濡れぬものから 勝
 まどろまで眺めよとてのすさびかな麻のさ衣月にうつ声 勝
九月十三日 和歌所影供歌合 宮内卿 勝2無判1
九月~十二月 仙洞句題五十首
 花さそふ比良の山風ふきにけり漕ぎ行く舟のあと見ゆるまで
 あふさかやこずゑの花をふくからに嵐ぞかすむ關の杉むら
 月をなほ待つらむものかむらさめの晴れゆく雲のすゑの里人
 霜を待つ籬の菊のよひの間に置きまよふいろは山の端の月
十二月二十八日 石清水社歌合 宮内卿 負1

建仁二年(1202年)
五月二十六日 仙洞影供歌合 女房宮内卿 負3
九月十三日 水無瀬恋十五首歌合 女房宮内卿 勝3負10持2
 聞くやいかにうはの空なる風だにもまつに音する習ありとは 勝
九月二十六日 若宮撰歌合 女房宮内卿 持2
※聞くやいかにうはの空なる風だにもまつに音する習ありとは
九月二十九日 水無瀬桜宮十五番歌合 宮内卿 持2
※聞くやいかにうはの空なる風だにもまつに音する習ありとは
※ 千五百番歌合 宮内卿 勝29負26持35
 薄く濃き野邊のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ 勝
 片枝さす麻生の浦梨はつ秋になりもならずも風ぞ身にしむ 勝
注※ 若宮撰歌合と水無瀬桜宮十五番歌合は、水無瀬恋十五首歌合の撰歌合
注※ 千五百番歌合は、九月二日に後鳥羽院から百首歌詠進の勅があり、途中で歌合形式に変更され、翌年三月完成

建仁三年(1203年)
六月十六日 影供歌合 女房宮内卿 勝2負1
七月十五日 八幡若宮撰歌合 女房宮内卿 勝1負2持1
十一月二十三日 俊成卿九十賀

元久元年(1204年)
十一月二十日 春日社歌合 女房宮内卿 持3

未詳
思ふことさしてそれとはなきもの秋の夕べを心にとぞとふ

正治二年後鳥羽院後度百首は、所謂無名歌人の力量を計る為に、若手を中心に召されており、範光、家長、雅経と長明、具親と宮内卿の兄妹、女房の越前らが参加している。
従ってその詠歌を良しと後鳥羽院が認め、実質的に歌壇デビューは老若五十首歌合であろう。この老若五十首歌合で宮内卿は十五六歳の小娘で有りながら、当時著名だった御子左家の歌人達に対して驚異的な成績を残す。その成績を示すと以下の通りである。
定家 勝5敗3持2
慈円 勝1負5持2※
忠良 勝2負2持6
寂蓮 勝2負3持5
家隆 勝2負6持2
注※232番は永青文庫では越前となっているが、配列や233番越前との関係から誤記として宮内卿歌とした。
一般的に歌合と言っても、身分がはっきりとしている貴族社会で、格下でしかも若い宮内卿が優った歌でも持とする事が多い。寂蓮の代表作と言われる「暮れていく春の湊は知らねども霞に落つる宇治の芝舟」(45番)に持としている。この会を主催した後鳥羽院のニュー・ウェイブ・デビューの試みは成功したのである。
又、新宮撰歌合では、宮内卿の歌に対して判者の俊成は、「以右(宮内卿)勝とすべきよし申すを左右ともに左(俊成)を可為勝之由申請也」と敵味方とも反対しているので自身の勝としたと言う辛うじて面目を保ったような事もあった。
建仁元年十二月二十八日 石清水社歌合から翌年五月二十六日 仙洞影供歌合まで5ヶ月空いている。参加できる歌の催しが無かったかも知れない。

唐詩選画本 旅夜書懐 杜甫

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 旅夜書懐 杜甫

細草微風岸危檣

獨夜舟星隨平野

闊月湧大江流名豈

文章著官因老病

休飄〃何所似天

地 一 沙鷗


旅夜懐ひを書く
細草微風の岸 
危檣独夜の舟
星隨て平野闊く
月湧いて大江流る
官は因りて老病にて休む
飄飄何の似る所ぞ
天地の一沙鷗

明月記記事による新古今編纂年表 切継編

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唐詩選画本 船下夔州郭宿雨湿不得上岸別王十二判官  杜甫

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船下夔州郭宿雨湿不得

上岸別王十二判官

 依沙宿舸舩石瀨

 月娟〃風起春燈亂

 江鳴夜雨懸晨鐘

 雲外濕勝地石堂

 偏柔艣輕鷗外含

 悽覺汝賢


船にて夔州の郭に
下りて宿す、雨湿
ふて岸に上るを得
ず、王十二判官に
別る
      杜甫
沙に依て舸船に宿す
石瀬月娟々たり
風起て春灯乱れ
江鳴て夜雨懸る
晨鐘雲外に湿ひ
勝地石堂偏に
柔艣軽鷗の外
悽含んで汝の賢を覚ふ

うすくこき 宮内卿の歿年3 宮内卿死去の疑問

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4 宮内卿死去の疑問
前述の同時代を生きた鴨長明が執筆した無名抄 俊成卿女宮内卿兩人歌讀替事に
此人はあまり歌を深く案じて病に成りて、一度は死に外れしたりき。父の禪門何事も身のありての上の事にこそ。かくしも病になるまでは、いかに案じ給ふぞ。と諫められけれども用ゐず、終に命もやなくてやみにしは、そのつもりにや有りけん。寂蓮は此事をいみじがりて、兄人の具親少將の、哥に心を入れぬをぞ憎み侍し。
とある。
実は、寂蓮は建仁二年七月二十日没。宮内卿は詠歌活動中である。「終に命もやなくてやみにし」を「寂蓮は此事をいみじがりて」となると、寂蓮の死去前に宮内卿が死んでいなければならなくなる。
寂蓮と長明は、和歌を通じてとても仲がよく、同じく無名抄會歌姿分事によると、長明は三体和歌の提出前に寂蓮に見せている。三体和歌は、後鳥羽院から三体の歌体に分けて詠歌するように要求され、当時の歌人達も逃げて参加せず、九条良経、慈円、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、長明だけだったとある。
実はこの三体和歌は、建仁二年三月二十日に開催されている。宮内卿の詠歌が建仁元年十二月二十八日から5ヶ月止まっていた時期になる。
これを宮内卿の「病に成りて、一度は死に外れしたりき。」した時と考えた場合、合理的に説明がつく。源家長日記によれば、「常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、よるひる奉公おこたらず」と和歌所に常に出勤していた事から、同じく寄人となっていた宮内卿の兄の具親から情報を聞き出し、寂蓮と噂していたのでは無いだろうか。六百番歌合で顕昭と所謂独古鎌首論争した程の歌に対してまじめな寂蓮にとって、後鳥羽院が主催した老若五十首歌合は、若年者との対戦を、後鳥羽院への和歌の指導と考えて参加したのでは無いだろうか。後鳥羽院以外の聞いたこともないような若手、15、6歳の小娘の歌を始めは馬鹿にしていたのでは無いだろうか。それが、十戦中二敗五引分、天台座主慈円に対しても実質的に負けの持4と言う驚異的な成績になってしまったので、宮内卿の歌に対する興味は増し、甥の定家、姪の俊成女並みに彼女の将来への期待が大きかったのでは無いだろうか。「寂蓮は此事をいみじがり」と長明が記す程になったと推察される。

昔男時世妝 蔵書

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浮世草子
昔男時世妝(むかしおとこいまようすがた)



春日野

初段
かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られず


芥川

六段
白玉かなにとぞ人の問ひし時露と答へて消えなましものを


東下り

九段
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ


武蔵野

十二段
武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり


桑子

十四段
中/\に恋に死なずは桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり

夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる

栗原のあねはの松の人ならば都につとにいざといはましを


年にまれなる人

十七段
あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人も待ちけり

けふ来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありと花も見ましや


享保十六辛亥陽節朔旦 作者 也来

作者:三宅也来

序作年:1736年

唐詩選画本 次北固山下 王湾

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 次北固山下 王灣

客路青山外行舟緑

水前潮平両岸闊

風正一帆懸海日生殘

夜江春入舊年郷書

何處達歸雁洛陽邊


北固山下に次る
     王湾
客路青山の外
行舟緑水の前
潮平にて両岸闊く
風正め一帆懸る
海日残夜に生じ
江春旧年に入る
郷書何この処に達す
帰雁洛陽の辺

明月記 建仁元年六月 千五百番歌合勅命

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明月記 建仁元年六月

六日。此の間家長を以て、百首忩ぎ進むべきの由、仰せ事あり。仍て退出し、構へて進むべきの由、申す。
六日
此間以家長、百首可忩進之由、有仰事。仍退出可構進由申之。

十一日。巳の時、百首を持ちて参ず。右中弁に付けて進入す。宜しきの由、御気色あるの由、弁之を語る。
十一日。巳時持參百首。付右中辨進入、宜之由、有御氣色由、辨語之。

十三日。今日内府并に宰相中将、自余の上北面等多く百首殊に宜しきの由、御気色あるの趣、粗之を示す。日来沈思し、心肝を摧く。今此の事を聞く。心中甚だ涼しく、感涙に及ぶ。生れて斯の時に遇ふ。自愛休み難し。
十三日
今日内府并宰相中將自余上北面等、多百首殊宜之由、有御氣色之趣、粗示之。日來沈思摧心肝、今聞此事、心中甚涼、及感涙、生而遇斯時、自愛難休。
《一条兼良抄出『明月記 歌道事』》

廿三日。三条殿に参ず。今朝別事御座さずと云々。百首早く持ちて参ずべき由、仰せあり。仍て之を給はりて、院に参じ、右中弁に付けて、進入し了んぬ。
廿三日。天晴、申後甚雨。參三条殿。今朝別事不御座云々。百首早可持參之由、有仰。仍給之、參院、付右中辨進入了。午時許退出。在坊門。

唐詩選画本 渡揚子江 丁仙芝

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 渡揚子江 丁仙芝

桂楫中流望空波

兩畔明林開揚子

驛山出潤州城海

盡邊音静江寒朔

吹生更聞楓葉下

淅瀝度秋聲


揚子江を渡る
    丁仙芝
桂楫中流に望む
空波両畔明かなり
林は開く揚子駅
山は出だす潤州城
海尽きて辺音静かなり
江寒くして朔吹生ず
更に聞く楓葉の下ることを
淅瀝として秋声度る

うすくこき 宮内卿の歿年4 宮内卿の歿年と明月記の呼称

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5 宮内卿の歿年と明月記の呼称
宮内卿に関して、藤原の定家はその日記である明月記の中でどのように記載しているかと言うと、以下の通り有る。

正治二年三月十二日 八条殿(未の時許り)女房を尋ぬる所(【宮内】)退出すと云々。

正治二年十一月七日 歌合三首、評定了りて還りおはします。是より各々退出すべきの由、仰せ有り。ー略ー。題、紅葉梢に残る。寒夜の埋み火。海浜に夜を重ぬ。有家、今夜題を給はり、歌を献ず(里亭よりと云々)。今夜の歌皆以て負け了んぬ。御製一首、【師光が娘】一首(持)、伊勢の女房一首と云々。

建仁元年三月十六日 内大臣、権大納言藤原朝臣(後々に於ては姓を加へず。事々シキ故なり)、大弐(又姓を加へず。頗るマギラカス)、前権僧正(慈円、微音)、隆信朝臣、通具〃〃、保家〃〃、有家〃〃等、此の如し。左兵衛佐具親、右馬助家長、鴨長明(五位と雖もその身凡卑。仍て、六位に准じて之を読む)、寂蓮、但し書手(清範)に於ては、只抑へて公卿の名を書き、端には権大納言忠良、奥ザマニハ忠良ト書く。此の条然るべからざるか。女房に於ては、【宮内卿】、越前ト読む。御製ヲバ女房と書く(同じく読む)。入道殿は御名を書き、入道ト読み了んぬ。

建仁元年三月二十八日 大臣殿の御共して院に参ず。今日左右の和歌を撰せらる。申の時許りに出でおはします。仰せに依り、各々方の歌を撰す。左の方、弘御所の簾中に於て(簾を下ろす)撰せらると云々。大臣殿、内府、寂蓮、家隆朝臣と云々。右の方、御所に於て(北面)撰せらる。座主御前に候し給ふ。大弐之を読む。予、雅経少将等祗候す。作者を隠して(一巻に書き連ぬ)読み上ぐ。先づ合点す。次で、巻き返して合点す。歌を読み上げて重ねて、師点を合す。両点の歌、卅八首あり。又巻き返して、今度は作者を付く(合点の許に、之を付く)。御製甚だ多し。自余多少各々入る。権大納言、兼宗中将等其の中に漏る。仰せて云ふ、作者各々一首は必ず入るべし。御製を出すべし。巨多見苦しき事なりと。人々然るべからざる由を申す。重ねて評定す。良々久しく諍ひ申す。遂に御定了んぬ。卅六首を撰び定めらる。毎題の員数を知らず。只十題の内、卅六首なり。愚詠今度多く御意に叶ふと云々。面目身に過ぎたる者なり。大略。
御製七、座主六、権大納言一、兼宗中納言一、宰相中将(公経)三、大弐二、予五、雅経三、具親一、家長一、女房【宮内卿】三、讃岐一、丹後二。

建仁三年正月十五日 雅経、具親、予、家隆病みて参ぜず、俊ー卿女、【宮内卿】、越前。御製講師兼宗卿、講師(長房)、読師(大相国)。

建仁三年八月十四日 九十の賀の屏風歌、今日、詠信すべき由、夜中に重ねて仰せらる。ー略ー今度の作者は、親定(御製)、殿下、大僧正、有家朝臣、定家、雅経、讃岐、丹後、【宮内卿】、俊成卿女。
ー俊成九十賀屏風和歌ー

元久二年十一月二十六日 八条院宮内卿の局の宿所に行き向ふ。
(源家俊室)

承元元年(建永二年)五月十日 【宮内卿の局】、昨日逝去。常に馴るゝ人なり。甚だ悲し。近習の奏事容易く達す。心操甚だ柔和。

承元元年(1207年)五月十日の条に『宮内卿の局』とあって、「昨日逝去」と有る。逝去と記載されているのに、宮内卿の歿年が不詳とされているのは何故だろうか?
当時、宮内卿とする者が三人いる。
一人目は、後鳥羽院宮内卿で「師光が娘」と最初は記していたが、女房名の宮内卿と新古今和歌集の表記と同じくなる。
ややこしいのは、八条院にも宮内卿と称する女房(源家俊室)がいて、定家は、姉の八条院三条(俊成女の母)、八条院権中納言(延寿御前)、八条院按察、たまきはるの作者と目されている建春門院中納言(健御前)が八条院に仕えていて、八条院の家司(姉の小間使)をしており、正治二年三月十二日と元久二年十一月二十六日はこの八条院の宮内卿を訪ねている。
又、藤原家隆は、元久三年に宮内卿となっており、明月記も建永元年八月十五日宮内卿と記載されている。
この明月記の宮内卿表記を誰にするかと

稲村 榮一(訓注明月記 松江今井書店発行) によれば、後鳥羽院宮内卿としている。

後鳥羽院御集によれば、建仁三年八月十五日に「八月十五夜和歌所当座五首」とあり、明月記の参加と当日題が出され出席が必須の歌会であるので、当日宮内卿も参加したかも知れない。

明月記 元久元年八月二十二日 家長等の告口

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明月記 元久元年

八月
二十二日。天晴る。左金吾の亭に向ふ。近日家長等讒言し、天気不快の事多く、告げ示さる。予、御点の歌等を謗り、歌の善悪一身に弁へ存ずる由、誇張の気有りと云云。新大納言之を聞きて云ふ。彼の身、和歌に於て自讚の気色あり。猶以て奇怪に処せらる。世上恐るべしと云々。午の時許りに御所に参ず。例の出でおはしまし了んぬ。退出するの次で、大丞に謁し帰宅する。

左金吾:西園寺公経
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