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Channel: 新古今和歌集の部屋
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唐詩選画本 蘇氏別業 祖詠 

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 蘇氏別業

別業居幽處到來生

隱心南山當戶牖灃水

映園林竹覆經冬雪

庭昏未夕陰寥寥人

境外閒坐聽春禽


蘇氏別業 祖詠
別業幽処に居す
到来すれば隠心を生ず
南山戸牖に当り
灃水園林に映ず
竹は覆冬を雪を経し
庭は昏し未だ夕ならざる陰りに
寥寥たり人境の外
閒坐して春禽を聴く

家長日記 俊成九十賀屏風歌 後鳥羽院 かささぎの渡せる橋

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源家長日記
俊成入道九十の賀
今年、三位入道は、九十ぢの齢になむ滿ち侍る。此の道
にかばかり巧みなる人の、今に世に殘れる事、來しかた
行く末ありがたかンめるを、去年ごろまでは御會のたび
に強々しげにて參られしが、今年となりては、少しも身
じろぎも叶はずとて、かき絶え參られず。それにつけて
も、この世の面目を極め果てさせむとおぼしめして、か
の光孝天皇の御時、花の山の僧正仁壽殿に召して、賀を
賜れるを例として、和歌所にして賀を給ふべき仰せを下
さる。霜月の廿日あまり三日と定められて、まづ屏風の
歌とて召され侍り。

春帖
   霞
               攝政
春霞しのに衣を織り延へていかに干すらむ天の香具山
   若草
               御製
下萌ゆる春日の野邊の草の上につれなしとても雪の斑消え
   花
               有家朝臣
今日までは梢ながらの山櫻明日は雪とぞ花のふる里
夏帖
   郭公
               前大納言(忠)
ほととぎす鳴くべき聲に小夜更けて臥すかとすればしのゝめの空
   五月雨
               雅經
亀の尾の滝の白玉千代の數岩根にあまる五月雨の空
   納涼
               女房讃岐
行き歸り涼みに來つゝ楢柴やしばしの秋を袂にぞ知る
秋帖
   秋野
               女房宮内卿
月と言へば宿る影まで待つものを露吹く暮れの野邊の秋風
   月
               御製
秋の月白きを見れば鵲の渡せる橋に霜の冴えたる
   紅葉
               前大僧正(慈圓)
ながめつる心の色をまづ染めて木の葉に移る初時雨かな
冬帖
   千鳥
               女房丹後

建仁三年
八月十四日 詠進
八月十五日 選定 
十一月二十三日 和歌所開催


後鳥羽院御集 十二首
秋篠月清集 十二首
明日香井集 十二首
拾遺愚草 一首、勅撰集八首
拾玉集 3887~3906

牧水 秩父の春 飯能市

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しら/"\と
  流れて遠き
     杉山の
 峡のあさ瀬に
    河鹿鳴く
       なり


若山牧水
歌集くろ土 秩父の春

埼玉県飯能市 市民会館 駐車場

明月記 元久元年九月二十四日 部類所労術無し

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明月記 元久元年

九月
廿四日。天晴る。ー略ー。
近日和歌の部類、日毎に催すと雖も、所労術無き由、披露す。万事に興無し。公衆甚だ無益なり。道心を以て、憖旬月を送る。只耻辱を増す有るか。

唐詩選画本 峴山懷古 陳子昂

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 峴山懷古 
       陳子昂

秣馬臨荒甸登高覽

舊都猶悲墮涙碣尚想

臥龍圖城邑遙分楚

山川半入呉丘陵徒自出

賢聖幾凋枯野樹蒼烟

斷津樓晩氣孤誰知萬

里客懷古正踟躕


馬に秣て荒甸に臨み
高に登て旧都を覧る
猶悲む堕涙の碣
尚想ふ臥竜の図
城邑遥に楚を分ち
山川半ば呉に入る
丘陵徒に自から出で
賢聖幾か凋枯す
野樹蒼煙断へ
津楼晩気孤なり
誰か知む万里の客
古を懐て正に踟躕せんとは

唐詩選画本 同韋舎人早朝 沈佺期

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  同韋舎人早朝
       沈佺期

閶闔連雲起巖廊拂霧

開玉珂龍影度珠履鳫

行来長楽宵鐘盡明光

曉奏催一經傳舊徳五字

擢英○儼若神仙去紛從霄

漢廻千春奉休曆分禁喜趨倍

注○ 唐詩選によると才


韋舎人の早に朝すに同す
閶闔は雲に連て起り
巌廊は霧を払って開く
玉珂龍影度り
珠履雁行来る
長楽宵鐘尽き
明光暁奏催す
一経旧徳を伝へ
五字英才擢づ
儼として神仙の去りて
紛として霄漢従り廻るが若し
千春休曆を奉じ
分禁趨倍を喜ぶ

家長日記 新人女流歌人の発掘

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源家長日記

これをうけ給つめて侍おりしも、したしき女房のもとにまきものゝ侍をとりてみれば、女の手にて歌をかきたり。これをたづぬれば、七條院に候女房越前と申人なりときゝて、このうたをとりて持て參りたれば、あしからずやおぼしめしけん、行衞たづねよとおほせらるれば、まかりいでてたづぬるに、大中臣公親が女なり。さるは重代の人なりときゝて此よしを申す。範光朝臣うけ給て、くるまむかへにつかはす。いまは候めり。その歌のおくに侍し
 さぞなげに是もよしなきすさみ哉
      だれかあはれをかけてしのばん
これを御覽じいてゝごとに御めとゞめさせ給う。この歌の心を題にておの/\歌よめとおほせられて、おまへにさぶらふ人々よみあへり。いづれをさしてしるすべうもなかりしかば、かきとゞめず。この女房を心みんとおぼしめして、めしいだして秋のをはりの事にて侍しに、此比のうたよめとおほせられたりけるに、あらしをわくるさほしかのこゑなど聞えしはそのおりのとぞ。
宮内卿殿もうちつゞき參られ侍き。師光入道のむすめなり。家かぜたえずことにすぐれたるよし聞へ侍。そのゝち三位入道のむすめ歌たてまつりなどせらる。ふたい(ば)よりよのまじらひもむもれてすぎ給ひけんに、つねに歌めされなどし給を、わかきひたるさまをあはつけしと思給らんかし。されどうちあるべきことならねば、かきけちてやまんことをあたらしとおぼしめいたることばかりなり。又八條院に高倉殿と申人をはすなり。その人の歌とぞある人のかたり申ける。
 くもれかしながむるからに悲しきは
       月におぼゆる人のおもかげ
此歌きこしめして、それも歌たてまつりなどつねに侍。又七條院にこ大納言と申女房おはす。中納言宗綱卿むすめなり。しなたかき女房ははゞかりおもはるらん。されどちうだいの人はくるしからずとて、たづねいでさせ給う。中にも母はみかはの内侍なり。かた/"\の家の風いかでかむなしからん。おとこにも女はうにも、かくわかき歌よみおほくつどひて、ひるのほどは職事辨官參りこみて、萬きのまつり事共なめれば、よるぞ御うたあはせ和歌會よごとにはべる。こゝかしこのかくれにうちうめきつゝ、おのがじゝあんあへり。

※くもれかし
巻第十四 恋歌四
 題しらず          八條院高倉
曇れかしながむるからに悲しきは月におぼゆる人のおもかげ

唐詩選画本 王閬州筵奉酬十一舅惜別之作 杜甫

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 王閬州筵奉酬
 十一舅惜別之作 杜甫

萬壑樹聲滿千崖秋氣

高浮舟出郡郭別酒寄

江濤良會不復久此生

何太勞窮愁但有骨羣

盜尚如毛吾舅惜分手

使君寒贈袍沙頭暮黃

鵠失侶亦哀號


万壑樹声満ち
千崖秋気高し
浮舟郡郭を出で
別酒江濤に寄す
良会復た久からず
此の生何ぞ太だ労す
窮愁但だ骨のみ有りて
群盜は尚毛の如し
吾が舅手を分つを惜しみ
使君寒に袍を贈らる
沙頭暮の黃鵠
侶を失ひて亦哀号す

昔男時世妝 初冠

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昔男時世妝


      ならの京


  かす
   がの里


昔男時世妝巻之一
  ○むかしおとこ初冠の段
むかしおとこうゐ冠してならの京、春日の里にしる
よしして狩にいにけり。まづ此初段、業平ならの京に
ぬしの領地や在けん。そこらを狩などにも出られたると
見えたり。その里にとは、どこぞそこらのはにふ。今此
ごろの下屋敷などいはんやうなり。里離れの家に、かこはれ
者か、取て置の隠居娘にや、兄弟らしく、前栽に立て
ぴらりしやらりとしてゐるを、此まめおとこふと見付て
これはたまらぬ。かゝる人遠い野やしきにと、気を付て見ら
れれたるを、いとなまめいたる女はらから、此男垣間見てと


はいふ歟。こんな所で、此やうな艶顔の君のおはす事、思ひ
がけもないといふを、いとはしたなくてとはいふならん。いか様
京の場所、縄手あたりか石垣町で、どのやうな若詰ふり袖
でも、常住目に付てあれば、それ程にも思はれぬに、若は
岳崎あたりの隠家、大佛の馬町邊で、しぶ皮のむけた十
七八、浅黄縮の引しごき、ひやうごわけのひんしやんする
が、ひよつと目に懸た時は、てんとこりやと誰しも頭を振
かへつて見るやうな物で、その奈良の古里にて、そんな
見事な兄弟を見られたら、さすがの中將、常不○に
内裏上臈の十二単に裳をかけ、緋の袴の公道なるに、肝心
の靨と口もとを、桧扇で隠さるゝの斗を見られるた目


て、その比の町風、髪も時代の勝山わげ、赤い鈍子のうしろ
帯の結びさげでも見られたら、何が下地が好の道、心地ま
どひにけりとは、さりとては尤至極、早速歌でやつて見る
文作。途中なれば、短尺は有まいし、述の鼻紙に歌も書れず
あゝ扨とふぞ気の替つた事をもと、狩衣の裾を切て、歌
を書てやられしとや。いかさま是は、業平のあそばしさふ
な、後先なしの無算用な恋の仕懸。もしその恋が叶
はぬ時は、まづ狩衣ひとつの御揉と見ゆる。たゞし又
大やうなり。その比の至かも
  かすが野のわかむらさきのすりごろも
   しのぶのみだれみだれかぎりしらずも


此哥を業平、かの兄弟の中へどちらともなくやられし
所に、又どちらともなく、返哥とて、百人一首のうち河原
の左大臣のうた
  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへに
   みだれそめにしわれならなくに
といふて返哥をせらるる。つゐでおもしろきとは、よい
幸の返哥と思ふて、此女もしれもの。早速わかを合さ
れし。是をかく、いちはやきみやびをなんしけるとは
いふならん。逸早き風姿とは、間に合の恋のはめ句と
聞と、あんまり心もちがふまいが、兄弟のうちにても、そもそ
のしのぶの乱のかぎりしられぬは、姉ゆへか妹ゆへにかとすみ


づつくは恋の習ひ。よつて我ならなくに、わしが事なら
嬉しうて成まいにとの心かと聞ゆ。あゝ今時の粋ならまそつと味な、恋の仕懸もあらふのに、ちとは廻り遠い
やうなれども

家長日記 建仁元年八月十五夜の具親早退

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源家長日記

八月十五夜ことはりも過てくまなく侍しに、よもすがら連歌和歌會侍き。そのよいさゝかれいならぬ事いできて、具親とくいでられ侍。御たづねたび/\侍しに、そのよし申ともかゐなきとゝやおぼしめしけむ、いでぬる事をくちをしきこととおぼしめす御氣色なり。ながき夜も程なき心ちしてあけぬれば、おの/\まかりいづ。十六日のまたとうめしによりて大はんどころに參りたれば、おほせられし御事やさしく侍き。よべの月にしも具親早出したること、くちおしさ思ひしつめがたし。はやくわか所にめしこむべし。とおほせ有。おそろしきものからやさしくうけ給て、やがてめしにつかはす。御使にもさきだてまいりたれば、此よし申ふくめてめしこむ。布衣なよらかにてそこはかとながめゐたる氣色、いとをしくをかし。秋の日もくらしかねたるに、月もはなやかにさしいでゝ、よべのひかりなをくまなきをつく/"\ひとりながめて、とのももりつかさにてかくなん。
  くまもなく名におふ秋の空よりも
       思ひいである夜半の月かな
返事
  さぞなげに思ひわぶらん今宵しも
       かごとかましく月ぞさやけき
十七日のあしたにこのよしを奏し侍しかばゆるされにき。はかなき御むづかりとかをかぶる事なれど、をかしきふしにもなりぬべき事のみこれらまで侍よ。めしこめられしほどはおそろしく心まどひせしを、つく/"\と思ひとけば、よ人のきかんもこれはさまであしかるまじきことちおもはれたりしことはりなり。

唐詩選画本 春帰 杜甫

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 春歸
    杜甫

苔徑臨江竹茅簷覆

地花別来頻甲子歸

到忽春華倚杖看孤

石傾壷就浅沙遠鴎

浮水静軽燕受風斜

世路雖多梗吾生亦有

涯此身醒復酔乗興

即為家



春帰
    杜甫
苔径江に臨む竹
茅簷地を覆ふ花
別しより頻に甲子あり
帰り到れば忽にち春華
杖に倚り孤石を看
壷を傾て浅沙に就く
遠鴎水に浮んで静かに
軽燕風を受けて斜めに
世路梗がること多しと雖も
吾が生亦涯り有
此の身醒て復た酔ふ
興に乗じて即ち家と為す

建仁元年八月十五夜撰歌合

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建仁元年八月十五夜撰歌合

題 (月十題)
月多秋友 月前松風 月下擣衣 海邊秋月
湖上月明 古寺殘月 深山暁月 野月露涼
田家見月 河月
  作者 (25人)
  左
女房(後鳥羽院)
左大臣正二位藤原朝臣(良経)
沙彌釋阿(俊成)
俊成卿女
宮内卿
越前
丹後
散位正四位下藤原朝臣有家
沙彌寂蓮
從五位下行右馬助臣源朝臣家長
散位從五位下臣鴨県主長明
正六位上行左兵衛尉臣藤原朝臣秀能
  右
内大臣正二位兼行右近衛大將皇太子傳源朝臣(通親)
前權僧正慈圓
正二位行權大納言臣藤原朝臣忠良
參議正三位左近衛權中將越前權守臣藤原朝臣公經
小侍從
讃岐
散位正四位下臣藤原朝臣隆信
正四位下行左近衛權少將兼安藝權介臣藤原朝臣定家
正四位下行左近衛權中將臣源朝臣通具
散位正四位下臣藤原朝臣保秀
從五位上守左近衛權少將臣藤原雅經
從五位下守左兵衛佐臣源朝臣具親
從五位上行隼人正臣大江朝臣公景
  讀師
  講師
  判者 沙彌釋阿

   秋哥上
 八月十五夜和歌所歌合に深山月といふことを
 左持            摂政太政大臣
深からぬ外山の庵のねざめだにさぞな木の間の月はさびしき

(八月十五夜和歌所歌合に)月前松風
 左勝            寂蓮法師
月は猶もらぬ木の間もすみよしの松をつくして秋風ぞ吹く

 左勝            鴨長明
ながむれば千々に物思ふ月に又我身ひとつの嶺の松かぜ

 八月十五夜和歌所歌合に海辺秋月といふことを
 左勝            宮内卿
心あるをじまの海士のたもとかな月宿れとは濡れぬものから

 左持            宜秋門院丹後
わすれじな難波の秋の夜半の空こと浦にすむ月は見るとも

 左勝            鴨長明
松島やしほ汲む海士の秋の袖月はもの思ふならひのみかは


 和歌所歌合に田家月を
 右負            前大僧正慈円
雁の来る伏見の小田に夢覚めて寝ぬ夜の庵に月をみるかな


 左勝            皇太后宮大夫俊成女
稲葉吹く風にまかせて住む庵は月ぞまことにもりあかしける

  秋哥下
 和歌所歌合に月の下に衣打つといふことを
 左勝            摂政太政大臣
里は荒れて月やあらぬと恨みてもたれ浅茅生に衣打つらむ

 左勝            宮内卿
まどろまで眺めよとてのすさびかな麻のさ衣月にうつ声

   賀歌
 八月十五夜和歌所歌合に月多秋友といふこころを
よみ侍りし
 左勝            寂蓮法師
高砂の松もむかしになりぬべしなほゆく末は秋の夜の月


   雑哥上
 和歌所の歌合に湖上月明といふことを
 左勝            宜秋門院丹後
夜もすがら浦こぐ舟はあともなし月ぞのこれる志賀の辛崎

 和歌所歌合に深山暁月といふことを
 左勝            鴨長明
よもすがらひとりみ山野まきの葉にくもるもすめる有明の月

うすくこき 宮内卿の歿年4 建仁元年名月の早退 

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5 建仁元年八月十五夜撰歌合の具親の早退
源家長日記の建仁元年八月十五夜の名月の日、「くまなく」快晴の日、「そのよいさゝかれいならぬ事いできて、具親とくいでられ侍」と突然源具親が早退した。
当時、建仁元年(1201年)左兵衛佐に任ぜられ、同年7月和歌所寄人になったばかりである。身分は低いものの、昨年の冬に妹宮内卿とともに、正治二年後度百首を詠進し、老若五十首歌合に参加して、直前にも後鳥羽院第三度百首(千五百番歌合)を詠進したばかりと目され、和歌や蹴鞠で後鳥羽院にも目を懸けられた二十歳前後の新進気鋭の公達であった。
その夜は、八月十五夜撰歌合も行われ、俊成女、秀能、長明、後鳥羽院、良経と対戦して全敗だったが、宮内卿とともに撰ばれる程注目されていた。
ここで三つの疑問が生じる。
一つ目は、新米の公達が、その左大臣や内大臣、僧正、大納言等の臨席に、とっとと所要で抜け出せるものなのか?である。左兵衛佐位下っ端は最後まで有象無象の衆として残るものである。取締役、大株主を始めとする御歴歴が参加の本社パーティーの余興中に子会社の新入社員が勝手に抜け出す様なもの。今も昔もあり得ない。
次に後鳥羽院が、多くの群臣の中で、従五位の具親がいない事を残念がる事です。もしかしたら、具親に関心があったのではなく、妹の宮内卿に関心があったのでは無いだろうか?何らかの事で、宮内卿が宿下がりしていて、兄の具親に近況を聞きたかったのでは無いだろうか?
最後は、家長がこの事を家長日記に記載した事である。家長日記は、日々の記録ではなく、家長自身の半生を振り返る為に記載したものであり、実際とは違う思い込みや記憶違いが見られると指摘されている。つまり特に印象が残った事を記載した。
左兵衛佐の身分の低い者が、歌合を途中退場しただけである。その日の歌合の様子や管弦の遊び、参加した群臣の様子等を記する方が印象に残るのでは無いか?それが、具親の歌合の早退である。
おそらく後鳥羽院がそれに異常に関心を持った事が、「れいならぬ事いできて」と記載したのでは無いだろうか?
では、何故具親は、歌合を早退したのだろうか?
理由は当たり前なのだが、急用が出来た。これは例えば、通っている女房に会いに行くような軽薄な理由では無い。
そして、その理由は他人、特に後鳥羽院には伝える事が憚れる事では無いだろうか。
そこで考えられるのは、宮内卿はその詠歌方法から、後鳥羽院第三度百首に慣れない百首、しかも後鳥羽院からの期待は大きく、プレッシャーの中で詠進した事で体調を崩して、この夜前には後鳥羽院の御殿から宿下がりをして療養していたのでは無いだろうか。そこで後鳥羽院は兄の早退をとても気にしていたかも知れない。
そして撰歌合に十二首詠進するよう勅が下り、体調の悪い中、無理に詠進したのでは無いだろうか。
その疲労が頂点に達し、その夜ついに宮内卿は血を吐き倒れたとの報が具親に告げられ、急遽帰宅したのだと考えられる。
しかも、後鳥羽院からの期待だけが宮内卿の支えであるのに、病気を理由に後鳥羽院の関心が薄れるのを宮内卿が恐れたのでは無いだろうか。だから理由を誰にも告げなかった。
次の日、宮内卿の病状が和らぎ、早朝関係者に謝罪する為に早速出仕した。押し込められている時には、妹の病状を心配し、「そこはかと(なく)ながめたる気色」と思いに沈んでいるようであったとなった。昨日の自分の成績は全敗だったが、命を削って作歌した宮内卿は、「心あるをじまの海士のたもとかな」を始め勝4持2の成績、女房の持とは、実質的には勝であった。
その一点の雲もないが不安の十五夜より、病状を持ち直して一安心と妹の将来の不安が混じった十六夜の方が「思ひ出である」と歌にし、それを感じて家長は歌を控え、日記に記載したのでは無いだろうか。
状況証拠とその推察しかない説だが、この時が「病に成りて、一度は死に外れしたりき。」となったものと考える。

唐詩選画本 早秋与諸子登虢州西亭観眺 岑参

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 早秋與諸子登虢州
 西亭観眺
      岑參

亭高出鳥外客到

与雲齊樹點千家小

天圍萬嶺低殘虹挂

陝北急雨過関西酒榼

緣青壁瓜田傍綠溪微

官何足道愛客且相

携唯有鄉園處依々

望不迷


 早秋諸子と虢州の西亭に
 登りて観眺す
       岑參
亭高くして鳥外に出で
客到て雲と斉し
樹点して千家小さきに
天囲んで万嶺低し
残虹陝北に挂り
急雨関西を過ぐ
酒榼青壁に縁り
瓜田緑溪に傍ふ
微官何ぞ道ふに足らん
愛客且く相携ふ
唯鄉園の処有り
依々として望迷ず

明月記 正治二年後鳥羽院後度百首

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正治二年
十二月

廿二日。天晴る。早旦、院に参ず。中島の宮に於て、家長百首の歌を読み上ぐ。寂蓮、家隆等三人に聴聞すべきの由、仰せあり。百首聞き了んぬる(御製真実に殊勝)の間、左大臣殿、参ぜしめ給ふと云々。即ち門前に参ず。御参の由、女房に申す。ー略ー。

国貞 当世美人風流遊 浮世絵コレクション

守覚法親王五十首歌

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守覚法親王五十首歌 21首

   春歌上 守覺法親王五十首歌よませ侍りけるに              藤原定家朝臣 春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるるよこぐもの空 守覺法親王五十首歌に              藤原定家朝臣 大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月 守覺法親王の五十首歌合に              藤原定家朝臣 霜まよふ空にしをれし雁がねのかへるつばさに春雨ぞ降る

   春歌下 守覺法親王五十首歌よませ侍りける時              藤原家隆朝臣 この程は知るも知らぬも玉鉾の行きかふ袖は花の香ぞする

   夏歌 守覺法親王五十首歌よませ侍りける時              藤原定家朝臣 夕ぐれはいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ

   秋歌上 守覺法親王五十首歌よませ侍りける時              藤原家隆朝臣 明けぬるかころもで寒しすがはらや伏見の里の秋の初風 守覺法親王五十首歌よませ侍りけるに              顯昭法師 萩が花まそでにかけて高圓のをのへの宮に領巾ふるやたれ 守覺法親王五十首歌よませ侍りけるに              藤原家隆朝臣 有明の月待つやどの袖のうへに人だのめなる宵のいなづま

   秋歌下 守覺法親王家五十首歌の中に              藤原家隆朝臣 蟲の音もながき夜飽かぬふるさとになほ思ひそふ松風ぞ吹く 守覺法親王五十首歌よみ侍りけるに              春宮權大夫公繼 もみぢ葉の色にまかせて常磐木も風にうつろふ秋の山かな

   冬歌 守覺法親王五十首歌よませ侍りけるに              皇太后宮大夫俊成 ひとり見る池の氷に澄む月のやがて袖にもうつりぬるかな 守覺法親王五十首歌よませ侍りけるに              皇太后宮大夫俊成 雪降れば峯のまさかきうづもれて月にみがける天の香具山

   離別歌 守覺法親王五十首歌よませ侍りける時              藤原隆信朝臣 誰としも知らぬわかれの悲しきは松浦の沖を出づる舟人

   羇旅歌 守覺法親王の家に五十首歌よませ侍りけるに旅歌              皇太后宮大夫俊成 夏刈の葦のかりねもあはれなり玉江の月のあけがたの空              皇太后宮大夫俊成 立ちかへりまたも來て見む松島やをじまの苫屋波にあらすな              藤原定家朝臣 こととへよ思ひおきつの濱千鳥なくなく出でしあとの月影              藤原家隆朝臣 野邊の露うらわの浪をかこちてもゆくへも知らぬ袖の月影

   雜歌中 守覺法親王五十首歌よませ侍りけるに閑居のこころをよめる              藤原有家朝臣 誰かはと思ひ絶えてもまつにのみ音づれて行く風は恨めし 守覺法親王五十首歌よませ侍りけるに閑居のこころを              藤原定家朝臣 わくらばに問はれし人も昔にてそれより庭の跡は絶えにき

   雜歌下 守覺法親王五十首よませ侍りけるに              寂蓮法師 背きても猶憂きものは世なりけり身を離れたる心ならねば 守覺法親王五十首歌よませ侍りけるに              源師光 長らへて生けるをいかにもどかまし憂き身の程をよそに思はば

明月記 建久八年 守覚法親王五十首歌

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建久八年
十二月

五日。天晴る。少輔入道来る。一日召しに依り、仁和寺宮に参ず。仰せに云ふ、五十首和歌を詠まんと欲す。定家父子、詠進すべきの由、相示すべしといへり。時に云ふ、身憚り多しと雖も、此の事を聞きて左右なく領状。宮の御事更に似ざる事なり。


守覚法親王五十首歌

時代不同歌合の成立年について

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時代不同歌合の成立年については、樋口芳麻呂は、
①秀能の「久方の」は出家後の百首であるので、承久三年以降
②定家が権中納言、家隆が正三位から、貞永元年(1232年)~嘉禎元年(1235年)九月の間
③後鳥羽院二首、秀能一首は遠島御歌合の歌なので、嘉禎二年七月頃。
と異本間の差異により成立年を推計している。
②と③の矛盾について疑問を呈しているが、新古今の切出し入れの性格をみれば、一度成立後、自身と秀能の歌を差し替えたのは明白。

国語と国文学
昭和30年8月號
時代不同歌合攷18ー32p

百人一首拾穂抄 かささぎの渡せる橋

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百人一首拾穂抄 北村季吟
天和元年霜月冬至日

中納言家持 延暦二年七月十九日任中納言
万葉ノ勸物ニ云〈仙覚法師ノ説〉大伴宿禰家持。大納言贈二位安麿孫大納言旅人子。〈御抄 拾芥抄 作者部類等ノ説同之〉延暦四年八月ニ薨ス云云。〈猶袋草子ニ委。〉大伴ノ姓ハ者天智天皇孫。大友ノ皇子ノ子与多王大伴ノ姓を給ふよし紹運録にあり。安麿は与多王ノ孫也。拾芥抄ニ云。万葉集廿巻。京中納言〈定家卿〉抄ニ云。撰者無慥説世継物語ニ云。万葉集者高野〈孝謙〉御時。諸兄大臣奉之ヲ云云。但件集橘ノ大臣薨之後ノ歌多ク書之ヲ似タリ家持卿之所ニ註ス尤以テ不審ナリ云云〈諸兄ノ死後家持撰びつき給ふ由仙覚抄ニアリ〉

かさゝぎのわたせる橋にをく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける
新古今冬題しらず云云。家持集には夜は更にけり云云。かさゝぎの橋とは、淮南子ニ云ク。烏鵲填テ河ニ成テ橋ヲ以テ度ス織女ヲ云云。是七夕の夜の事なるを。爰にかり用ひて橋に置たる霜のありさまをかく云也。歌の心は明なり。宗祇云。冬ふかく月もなく雲も晴たる夜。霜は天にみちてさえ/\たる深夜などに起出て 此歌をおもはゞ感情かぎりあるべからず云云。師説云 為家後撰抄云 定家御説此歌此世の橋をかよはして読歟云云 深夜の心すみまさる折ふし 橋の一すじみえて霜あきらかに置わたせるさま さらに此世界ともおぼへず感情身にあまりて天上の鵲の橋にやなどおもひよそへてよみ出せる也。当意の景気おもひやりて見侍るべし。御抄云忠峯〈大和物語〉√鵲のわたせる橋の霜のうへを夜半にふみ分ことさらにこそ  此歌も家持の歌をとれり
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