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Channel: 新古今和歌集の部屋
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増鏡 第二 新島守 後鳥羽院崩御

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この浦に住ませ給ひて十七年ばかりにやありけん。延応元年といふ二月廿二日むそぢにて隠れさせ給ひぬ。

今一度、都へ帰らん御心ざし深かりしかど、ついにむなしくてやみ給ひにし事、いとかたじけなく、あはれになさけなき世も、今さら心うし。近き山に例の作法になしたてまつるも、むげに人ずくなに心細き御有樣、いとあはれになん。

御骨をばよしもちといひしほくめんのにふだうして御供にさぶらひしぞ首にかけ奉りて都に上りける。

さて大原のほつけだうとて、今も昔の御さうの所々ざんまい料に寄せられたるにて、勤め絶えせず。かの法花堂には修明門院の御さたにて、故院わきて御心とゞめたりしみなせどのを渡せれけり。今はのきはまでもたせ給ひけるきりの御ずゞなどもかしこにいまだはべるこそあはれにかたじけなく、拝み奉るついでのありしか。

始めはけんとくゐんと定めもうされたりけれど、おはしましゝ世の御あらましなりけるとて、にんぢの頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞えなほされけるとなん。

(了)

※十七年

十九年

※延応元年といふ

延応元年(1239年)二月二十二日崩御

※よしもちといひし

藤原能茂。秀能の子で左右衛門尉。法名西蓮。


延徳本 方丈記 行川のながれは

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行川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすんで、ひさしくとゞまることなし。世の中にある人もすみかも、又かくのごとし。

もろ/\の里〃に棟をならべ、いらかをあらそへる、たときいやしき人の住ゐも、世〃を経てつきせぬ物なれども、むかしありしは今はなし。或は去年さかへてことしほろび、あるひはきのふつくりてきょうやけぬ。既に人これにおなじ。すがたもかはらず、ふるまひもおなじけれども、いにし見し人は、百人が中にわづかにわづかにひとりふたり残れり。或は詞をまじへ、契りを結びし人も、浅茅が原の露と消え、あるひは名を聞、すがたを見し人もよもぎがもとの塵となる。又、あしたに生まれ、夕べに死するならひ、只水のうへのうたかたなり。

其ぬしと家と無常をあらそふさま、槿の露におなじ。ある時は花よりさきに露こぼれ、あるときはつゆよりさきに花しぼむ。かくのごとく、或はぬしさきだちて家はあり、あるひは家はうせて、ぬしのこり、ぬしとすみかとともにありといへども、うれへならぬ時は稀なり。

(大福光寺本)

ユク河ノナカレハタエスシテ、シカモゝトノ水ニアラス。ヨトミニウカフウタカタハカツキエカツムスヒテ、ヒサシクトゝマリタルタメシナシ。世中ニアル人ト栖ト、又カクノコトシ。

タマシキノミヤコノウチニ棟ヲナラヘ、イラカヲアラソヘル、タカキ□ヤシキ人ノスマヒハ、世々ヲヘテツキセヌ物ナレト、昔アリシ家ハマレナリ。或ハコソヤケテコトシツクレリ。或ハ大家ホロヒテ小家トナル。スム人モ是ニ同シ。トコロモカハラス、人モヲホカレト、イニシヘ見シ人ハ、二三人カ中ニ、ワツカニヒトリフタリナリ。朝ニ死ニ夕ニ生ルゝナラヒ、水ノアハニソ似タリケル。不知ウマレ死ル人、イツカタヨリキタリテイツカタヘカ去ル。又不知カリノヤトリタカ為ニカ心ヲナヤマシナニゝヨリテカ目ヲヨロコハシムル。

ソノアルシトスミカト無常ヲアラソフサマ、イハゝアサカホノ露ニコトナラス。或ハ露ヲチテ花ノコレリ。ノコルトイヘトモアサ日ニカレヌ。或ハ花シホミテ露ナヲキエス。キエストイヘトモ夕ヲマツ事ナシ。

延徳本 方丈記 若き子を

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わかき子をさきだてゝ、袖をしぼる老人もあり。或ははぐゝむ親にをくれて、路頭にさすらふみなし子、或は契を結ぶ夫妻にわかれて、比翼のかたらひ空しくなり、あるは頬をかくる主君をうしなひて、眷顧の思ひたちまち反す。

又、ともにあひむかへる時には、かれをはごくみ養むとて、さま/"\の心をついやし、貧しきものは財あらんことをのぞみ、冨るものは寶のうする事を歎くといへども、心にかなふことなし。

この故に、あるにつけてもうれへ、なきにつけてもうれへずといふことなし。

又、わづかにこれかなへば、かれかくることをなげき、彼是おなじくあらんことを思へども、おもふにしががふことなし。かやうに歎きつゝ、一生はつくるといへども、希望は盡きず。

延徳本 方丈記 つらつらこれらのことを思ふに

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つら/\これらの事を思ふに、家あれば、燒失の恐れあり。妻子あれば、はごくまむ思ひあり。眷属あれば、心にしたがはざるうらみあり。寶あれば、盗人の憚あり。田畠あれば、おほやけにつけて、あやぶみあり。

すべて、高き人にはしたがはんことをこばみ、くだれる人をばしがへむとはげむ。をよそ、やすき所なし。いづくにか此の身をやどさむ。

いかにいはんや、只この世ばかりの苦にして、後の世の恐れなくば、さてもありなん。

つたへ聞、人一日一夜のうちをふるに、八億四千の思あり。その念〃のうちになす所は、皆三途の業といへり。その三途におもむかんことは、久しき事かは。たゞ一の息とまり、二のまなこ閉るをまつばかり也。

新古今和歌集 羈旅歌 江口

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天王寺へ詣で侍りけるににわかに雨の降りければ江口に宿を借りけるに貸し侍らざりければよみ侍りける 西行法師

世の中を厭ふまでこそ難からめかりのやどりを惜しむ君かな
  返し           遊女妙

世の中を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ

延徳本 方丈記 爰にわれ、深き谷のほとりに

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爰にわれ、ふかき谷のほとり、閑なる林の間に、わづかなる方丈の草の菴をむすべり。
竹の柱をたて、苅萱をふき、松葉をかこひとし、古木の皮をしきものとせり。かたわらに筧の水をたヽへたり。東南のすみ五尺には、蕨のほどろをしきて、夜の床とし、さゆる霜の夜に身をあたヽむ。西南の角五尺には、窓をあけて、竹のあみ戸をたてたり。西の山はをばまぼるに便あり。西北のすみ五尺には、竹のすのこをしき、阿弥陀絵像を安置せるかたはらにつり棚をかまへ、往生要集ごときの文書を少〃をけり。

(参考 大福光寺本)

日野山ノヲクニアトヲカクシテノチ、東ニ三尺余ノヒサシヲサシテシハヲリクフルヨスカトス。南タケノスノコヲシキ、ソノ西ニアカタナヲツクリ、北ニヨセテ障子ヲヘタテゝ阿弥陀ノ絵像ヲ安置シ、ソハニ普賢ヲカキ、マヘニ法花経ヲゝケリ。東ノキハニ、ワラヒノホトロヲシキテ、ヨルノユカトス。西南ニ竹ノツリタナヲカマヘテ、クロキカハコ三合ヲゝケリスナハチ和歌管弦往生要集コトキノ抄物ヲイレタリ。カタハラニ琴琵琶ヲノヲノ一張ヲタツ。イハユルヲリ琴ツキヒワコレ也。カリノイホリノアリヤウ、カクノ事シ。ソノ所ノサマヲイハゝ南ニカケヒアリ。イワヲタテゝ水ヲタメタリ。林ノ木チカケレハツマ木ヲヒロウニトモシカラス。

延徳本 方丈記 又、かたはらに、琴琵琶をたて置けり

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又、かたはらに、琴琵琶をたて置けり。いはゆる折琴つぎ琵琶是なり。
今さらの身に○(は)おは(ふせ)ぬ手すさびながらも、昔わすれぬ名殘に、折ふしはかきなで〃、おもひをやる。子期がごときの知音も物せねど、興あれば、しば/\松のひヾきに●風の樂をたぐへ、岩がねにながるヽ水に流泉の曲をあやどる。藝はこれつたなければ、人の聞をよろこばしめむとにもあらず。獨しらべ、ひとり詠じて、みづから心やしなふ計なり。

※●火片に禾 秋の誤字か?

源家長日記 元久元年十一月十日春日社歌合

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此内大臣殿の御事に、ひさしく御歌あはせなどもはへざりき。そのつぎのとし冬比、春日社の歌合とて侍りき。此つかひはをなし程のよみくちと、世の人のてつかひおもへるをえりあはせられたりしかば、いつよりも此たびはまけしはやなどと、だれも/"\思あへり。此歌合に、よみくちときこゆるひとびとせう/\歌めされ侍。祝部成茂と申ものはし「めて歌めさるれば、成中がまご政中が子也。重代のうへによみくち」と人々申しあへり。読てたてまつりしうち落葉といふ題の歌、
冬の來て山もあらはに木のはふりのこる松さへみねにさびしき
此御歌合、和歌所にて衆儀はん也しに、この歌をよみあげたるを、たび/"\詠せさせ給、よろしくよめるよしの御氣色なり。
次のあしたによべの御歌合めしよせて御らんずるを、成茂が歌かんしおぼしめすよし、御教書を仰くださる。やがて御教書かきてつかはしき。

延徳本 方丈記 澤の根芹、峯の木のみ

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澤の根芹、峯の木の実み、あるにつけて命をつなぎ、麻の衣、藤のふすま、うるにしたがひて肌をかくす。
あながちにおしき命ならねば、粮のつきなん愁もおもはず。人にまじはる身ならねば、姿をはづる悔もなし。むくふべきちからなければ、人の思ひも願はしからず。名聞をおもはざれば、そしる人もうらめしからず。
をのづから、なすべき事あれば、即をのれが身をつかふ。ありくべき事あれば、みづからあゆむに、たゆからぬにはあらねども、馬鞍牛車と心をなやますよりはやすし。今、一身をわかちて、この用をなす。手のやつこ、足の乗もの、これよくわが心にかなへり。苦しき時はやすめ、勇む時/\はつかふ。つかへども、痛しからず。ものうしとても、かざらず。況や又よの常のふるまひならねば、何事をかは、さしもいとなみ、身をくるしめむ。万はあるにつき、なきにしたがひて、へつらひもとむる業なし。

延徳本 方丈記 心ざし道ふかければ

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心ざし道ふかければ、つれ/"\たる愁もなし。
谷の清水、峯の木だち、眼をよろこばしむる友なり。風の音、むしの聲、耳にしたがふしるかなり。春は、鶯のこゑを待えては、鸚鵡の囀と聞。松にかヽる藤なみ、紫雲のよそほひにて、なつかし。夏は、郭公をきヽ、かたらふごとに、四手の山路を契る。●は、くまなき月の影に、満月のかほばせをおもひやり、冬のあらしに散りまがふ紅葉をば、常ならぬ世のためしなりと見。
殊さら無言をせざれども、ひとりゐたれば、口業をもつくることなし。かたく禁戒を守らざれども、境界なければ、何につけてか破らん。

● 火片に禾。秋の誤字か。

延徳本 方丈記 もし、かうばしき友

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もし、かうばしき友、芝の戸をたヽいて入來れば、往事をかたり、來縁を契る。それ、世間名聞寄合の爲に契らず。只後世菩提の眞の善知識のためにかたらふ。
心に佛を念じ、手に經巻をにぎるに、妨る人もなし。倦よれば、をのづから怠るに、恥べき人もなし。
心いさめば、又はじむ。念佛し、讀經するに、名聞の爲にせざれば、人にかざることなし。檀那をいのらざれば、しるしのなきことをうらみず。
但、みづから慚愧の心を起し、信教の思あらんことを持ばかり也。

延徳本 方丈記 方丈のすまゐたのしきこと

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方丈のすまゐたのしきこと、かくのごとし。冨る人にむかひていふにあらず。たヾ、身ひとつにとりて、心のひくかたなれば、原憲が百つヾり、顔子が一瓶のあとをおもふばかり也。
是をうたがはしくおもはヾ、魚と水の情を見よ。魚は水にあかず。

延徳本 方丈記 今、方丈の草の庵

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今、方丈の草の庵、よくわが心にかなえり。故に、万物をゆたかにして、うれはしき事、さらになし。

一生夢のごとくにうちすぎ、迎の雲を待えて、菩薩聖主に肩をならべ、不退の浄利に詣しつヽ、如来の寳藏をひらひて、功徳の聖財ゆたかにして、世〃生〃の父母師長をたすけ、六道四生の群生をみちびかむ事、いくばくの樂みぞや。

延徳本 方丈記 墨ぞめの衣ににたる

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墨ぞめの衣ににたるこヽろかととふひとあらばいかヾこたえむ

門蓮胤誌之

此本奥書

方丈記者是祇翁之所持以長明自筆卷物写之篳

誠筐中之重寳也

延徳二年三月上旬

肖栢判

明月記 建仁二年正月廿五日 式子内親王一周忌

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建仁二年正月
廿五日 天陰る。雨降り止む。
午の時許りに束帯して大炊御門の旧院に參ず。今日御正日なり。入道左府経営さると云々。彼の一門の人済々。
予、衆に交はらずして尼に謁す。
大納言殿退出。今日、此の院を出で左女牛の小家に住せられるべし。仍て車を貸す。
即ち九條殿に參ず。女院御佛事、海慧律師導師。夜に入り、事訖る。布施をごりて退出す。

明月記 建仁二年九月廿五日 竜寿御前(定家姉)式子内親王月命日供養

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建仁二年九月
廿五日 天晴る。竜御前渡らる。寂光院に実(まめやか)に參ずと云云。

竜寿御前 藤原定家同母姉。式子内親王に仕え先斎院大納言と呼ばれる。建久七年橘兼仲妻妖言事件で式子内親王洛外追放で式子内親王を自宅に引き取る。

玉葉 建久二年四月廿四日 海恵

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玉葉
建久二年四月廿四日
御室御弟子、高松院御腹、澄憲令生之子也。雖密事人皆知之

海恵 承安2年(1172年)生、承元元年(1207年)死去と推定。
御室 守覚法親王。久安6年3月4日生、 建仁2年8月26日薨去。真言宗仁和寺第6世門跡。式子内親王同母兄。

源家長日記 式子内親王懐古 軒端の梅

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齋院うせさせ給にしまえのとし、百首歌たてまつりしに、
軒端の梅もわれをわするな
と侍しにが、大炊殿の梅の、つぎのとしの春、こヽちよげに咲きたりしに、ことしは斗はひとりごたれ侍りし。

※軒端の梅
ながめつる今日は昔になりぬとも軒端の梅よわれを忘るな
後鳥羽院正治二年初度百首

※ことし斗は
源氏物語 薄雲
二條院の御前の櫻をらんじても、花の宴のをりなど、思し出づ。今年ばかりはとひとりごち給ひて
古今集 哀傷歌
深草の野辺のさくらし心あらば今年ばかりは墨染にさけ

軒端の梅 式子内親王家関係者

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皇族

式子内親王 久安5年- 建仁元年1月25日 賀茂斎院

父 後白河法王 大治2年9月11日 - 建久3年3月13日 在位:久寿2年7月24日 - 保元3年8月11日

母 藤原成子 生年不詳 -安元3年3月11日 後白河天皇後宮典侍 高倉三位局。権大納言藤原季成の娘

弟 守覚法親王 久安6年 - 建仁2年8月26日 仁和寺第6世門跡。

姉 亮子内親王 殷富門院 久安3年- 建保4年4月2日 斎宮

姉 好子内親王 久安4年- 建久3年7月3日 斎宮

妹 休子内親王 保元2年 - 嘉応3年3月1日 斎宮

弟 以仁王 仁平元年- 治承4年5月26日

伯母 子内親王 八条院 保延3年4月8日- 建暦元年6月26日 鳥羽天皇・美福門院皇女。全国二百以上の荘園を保有した。式子内親王は、寿永二年の平家の都落ちの混乱時に、八条院の常磐殿に疎開、その後八条殿に住んだが、式子内親王が八条院と姪の以仁王姫を呪詛した疑いを持たれ、八条院を退去し出家。

海慧 承安2年(1172年)-承元元年(1207年) 澄憲・高松院隠し子。守覚法親王弟子。

 

三条家

滋野井公時 保元2年(1157年)-承久2年4月23日 参議 権大納言滋野井実国の次男。妻は吉田経房女。

滋野井実宣 生誕 治承元年(1177年)-安貞2年11月22日 大納言 公時の長男。北条時政・牧の方の娘と結婚。

実房 久安3年- 嘉禄元年8月17日 建久元年に左大臣となり、建久7年辞任し、同年4月出家して法名は静空。式子内親王一周忌法要を経営。

実快法眼(徳大寺家)
徳大寺公継
西園寺実明
公房

吉田家

経房 永治2年-正治2年閏2月11日 権大納言 藤原光房男。式子内親王は大炊御門殿を後白河院から遺産したが、借地している九条兼実が立ち退かなかった為、経房の別邸に引き取られる。

定経 、保元3年-寛喜3年2月14日 従三位・参議。経房男。

資経
行舜僧都
親雅
成経
平経高
為季 斎院別当
定高
能光
清長
隆頼

御子左家
俊成
斎院女別当
竜寿御前 大納言
覚弁僧都
家綱
定家

頼実

軒端の梅 式子内親王の生涯

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久安5年(1149年)誕生 三条高倉第?

平治元年(1159年)11歳 10月25日 内親王宣下。斎院に卜定。紫野斎院野宮殿


嘉応元年(1169年)21歳 7月26日に病により退下 四条殿

承安4年(1174年) 26歳 三条高倉殿


治承4年(1180年)5月26日 32歳 以仁王事件により以仁王戦死

養和元年(1181年) 33歳 法住寺萱殿



寿永2年(1183年) 35歳 平家都落ちの混乱期に八条院の山荘の常磐殿?へ避難

文治頃(1185年頃) 八条院に、同居。

八条院(京都駅八条口)

総合案内所プレート


建久元か2年(1190、1191年) 八条院と以仁王姫を式子内親王が呪詛したとの疑いをかけられ、八条院からの退去。白河押小路殿で出家。


建久3年(1192年)、3月13日後白河院崩御により、大炊御門殿ほかを相続するも借地していた九条兼実が移動を拒否したので、吉田経房別邸勘解由小路殿へ引越す。

建久7年(1194年)6月19日 橘仲兼妻の妖言事件により洛外追放処分を受けるが、竜寿御前の七条坊門の旧宅に移り処分は不問となる。

建久7年12月20日 11月の政変により九条家が失脚し、大炊御門殿に引越す。


正治2年 後鳥羽院初度百首に出詠

建仁元年(1201年)1月25日 大炊御門殿にて薨去。享年53。
大炊御門跡地にあった梅



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