この浦に住ませ給ひて十七年ばかりにやありけん。延応元年といふ二月廿二日むそぢにて隠れさせ給ひぬ。
今一度、都へ帰らん御心ざし深かりしかど、ついにむなしくてやみ給ひにし事、いとかたじけなく、あはれになさけなき世も、今さら心うし。近き山に例の作法になしたてまつるも、むげに人ずくなに心細き御有樣、いとあはれになん。
御骨をばよしもちといひしほくめんのにふだうして御供にさぶらひしぞ首にかけ奉りて都に上りける。
さて大原のほつけだうとて、今も昔の御さうの所々ざんまい料に寄せられたるにて、勤め絶えせず。かの法花堂には修明門院の御さたにて、故院わきて御心とゞめたりしみなせどのを渡せれけり。今はのきはまでもたせ給ひけるきりの御ずゞなどもかしこにいまだはべるこそあはれにかたじけなく、拝み奉るついでのありしか。
始めはけんとくゐんと定めもうされたりけれど、おはしましゝ世の御あらましなりけるとて、にんぢの頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞えなほされけるとなん。
(了)
※十七年
十九年
※延応元年といふ
延応元年(1239年)二月二十二日崩御
※よしもちといひし
藤原能茂。秀能の子で左右衛門尉。法名西蓮。