改造文庫
第二部第五編
新古今和歌集
著者:吉澤義則 校注
発行:改造社出版
初版:昭和8年9月11日
底本は、某氏所蔵高野山伝来本。
校本として、國歌大観(コ)、八代集抄本(セ)、烏丸本(カ)及び前田本(マ)として符号で示す。
歌頭に○を符号したのは、隠岐削除歌。
隠岐跋、仮名序、本編、奥書、真名序の順。
奥書
斯集或人之需姉小路宰相基綱
染筆云々。頃右衞門尉平頼房感得。
此本凡兩冊上下一儉無誠※比謬者乎。
昔明應丙辰閏仲春下旬記之。
梧桐樹下羽林 藤判
右本全部二帖者左衞門尉源
親榮感得之。
永正元年季秋廿七日
※比 言偏に比
明応五年丙辰(1496年)
永正元年(1504年)
姉小路基綱(嘉吉元年(1441年) - 永正元年4月23日(1504年6月5日))は公卿、戦国大名、飛騨国司。妹の宗如は蓮如の4人目の妻。
姉小路昌家の子。飛騨の乱の後、古川城に入り古川姉小路を継いだ。戦国大名としてはやや力不足だったが和歌で才能を発揮し、度々宮中の歌会に参加。公家屈指の歌人として、将軍・足利義政に重用された。1465年に勅撰集が企画された際には、二十代の若さで和歌所寄人に召されたが、応仁の乱のため撰集は実現に至らなかった。1483年の足利義尚の和歌打聞には公家方手伝衆を勤めるなどし、京都では名が知れ渡っていた。三条西実隆にも先輩歌人として親交が深かった。
粟屋親栄
粟屋氏は、清和源氏義光流で、その一つに若狭粟屋氏、若狭国の戦国大名・若狭武田氏に仕えた一族が有る。
応仁の乱の頃の在京奉行人であった粟屋賢家は、武田元信の側近として先陣を承る等、活躍した。その子・粟屋親栄も古典文芸に親しむ風流人でもあったが、若狭武田氏の重臣として活動し、1507年(永正4年)に討死した。