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Channel: 新古今和歌集の部屋
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うすくこき 宮内卿の歿年4 建仁元年名月の早退 

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5 建仁元年八月十五夜撰歌合の具親の早退
源家長日記の建仁元年八月十五夜の名月の日、「くまなく」快晴の日、「そのよいさゝかれいならぬ事いできて、具親とくいでられ侍」と突然源具親が早退した。
当時、建仁元年(1201年)左兵衛佐に任ぜられ、同年7月和歌所寄人になったばかりである。身分は低いものの、昨年の冬に妹宮内卿とともに、正治二年後度百首を詠進し、老若五十首歌合に参加して、直前にも後鳥羽院第三度百首(千五百番歌合)を詠進したばかりと目され、和歌や蹴鞠で後鳥羽院にも目を懸けられた二十歳前後の新進気鋭の公達であった。
その夜は、八月十五夜撰歌合も行われ、俊成女、秀能、長明、後鳥羽院、良経と対戦して全敗だったが、宮内卿とともに撰ばれる程注目されていた。
ここで三つの疑問が生じる。
一つ目は、新米の公達が、その左大臣や内大臣、僧正、大納言等の臨席に、とっとと所要で抜け出せるものなのか?である。左兵衛佐位下っ端は最後まで有象無象の衆として残るものである。取締役、大株主を始めとする御歴歴が参加の本社パーティーの余興中に子会社の新入社員が勝手に抜け出す様なもの。今も昔もあり得ない。
次に後鳥羽院が、多くの群臣の中で、従五位の具親がいない事を残念がる事です。もしかしたら、具親に関心があったのではなく、妹の宮内卿に関心があったのでは無いだろうか?何らかの事で、宮内卿が宿下がりしていて、兄の具親に近況を聞きたかったのでは無いだろうか?
最後は、家長がこの事を家長日記に記載した事である。家長日記は、日々の記録ではなく、家長自身の半生を振り返る為に記載したものであり、実際とは違う思い込みや記憶違いが見られると指摘されている。つまり特に印象が残った事を記載した。
左兵衛佐の身分の低い者が、歌合を途中退場しただけである。その日の歌合の様子や管弦の遊び、参加した群臣の様子等を記する方が印象に残るのでは無いか?それが、具親の歌合の早退である。
おそらく後鳥羽院がそれに異常に関心を持った事が、「れいならぬ事いできて」と記載したのでは無いだろうか?
では、何故具親は、歌合を早退したのだろうか?
理由は当たり前なのだが、急用が出来た。これは例えば、通っている女房に会いに行くような軽薄な理由では無い。
そして、その理由は他人、特に後鳥羽院には伝える事が憚れる事では無いだろうか。
そこで考えられるのは、宮内卿はその詠歌方法から、後鳥羽院第三度百首に慣れない百首、しかも後鳥羽院からの期待は大きく、プレッシャーの中で詠進した事で体調を崩して、この夜前には後鳥羽院の御殿から宿下がりをして療養していたのでは無いだろうか。そこで後鳥羽院は兄の早退をとても気にしていたかも知れない。
そして撰歌合に十二首詠進するよう勅が下り、体調の悪い中、無理に詠進したのでは無いだろうか。
その疲労が頂点に達し、その夜ついに宮内卿は血を吐き倒れたとの報が具親に告げられ、急遽帰宅したのだと考えられる。
しかも、後鳥羽院からの期待だけが宮内卿の支えであるのに、病気を理由に後鳥羽院の関心が薄れるのを宮内卿が恐れたのでは無いだろうか。だから理由を誰にも告げなかった。
次の日、宮内卿の病状が和らぎ、早朝関係者に謝罪する為に早速出仕した。押し込められている時には、妹の病状を心配し、「そこはかと(なく)ながめたる気色」と思いに沈んでいるようであったとなった。昨日の自分の成績は全敗だったが、命を削って作歌した宮内卿は、「心あるをじまの海士のたもとかな」を始め勝4持2の成績、女房の持とは、実質的には勝であった。
その一点の雲もないが不安の十五夜より、病状を持ち直して一安心と妹の将来の不安が混じった十六夜の方が「思ひ出である」と歌にし、それを感じて家長は歌を控え、日記に記載したのでは無いだろうか。
状況証拠とその推察しかない説だが、この時が「病に成りて、一度は死に外れしたりき。」となったものと考える。

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