あづまくだりの段
扨それよりふじの山を見あげ給へば、すでに五
月の晦日に、雪いとしろうふれり。爰の躰を、業平のあづま
下とて、繪などにも、業平は馬にめし、ちいさい童子がお○○
をかたげ白丁着た痩親仁が、立傘を持てふりかへり冨士山
を見てゆく所をかく。何様ふじの山の姿、原よし原より見る時
は、左右へ流れし山の裾、いまは煙はたゝねども、成ほど夏の季
に入ても、峯には雪が消残り、一すぢの横霞は、とんと刷毛で
引たやうに雨雲は山半よりすそに、常住むら/\うつす
りと見え、裾野は廣き浮嶋が原、何里の限り見え分ず
、ところ/"\にすん/"\とした立木の松が二三本づゝ、一村での
ちいさい森、あそこに薄すり、爰にはちよつとつまんだ程、誠に
どふも爰のけしき、三国無双の名所なれば、今更いはんは、ちと管
らしくはおはせど、絵に書たより聞たより、見てから是はと思ふ
のは、此冨士山の絶系。しかれどもそこらの馬かた、雲助たぐ
ひの者ともは常卓散に見てゐれば、一向に気もつかず。さり
とては此景、京か難波のあたりにあらば、一入と山の面目、よい
遊興の場所ならん。折にふれては幕酒の匂ひもせふに、是程
のけしきの山に、一年中遊山らしい人も来らず、やう/\と酒の香と
ては名物の白酒斗の香気を嗅るゝてあらふ。去程にかのなり
平も、一しほ爰にはめで給ひて
ときしらぬやまはふじのねいつとてか
かのこまだらに 雪の ふるらん
となん讀給ひけり。かのこまだらとは、雪のむら/\ふりかゝれ
り気色。扨もいつとてか、かくは時をもしらずふりぞとの哥の心
。その山を爰にたとふれば、日枝の山をはたち斗かさねあげ
たらんやうにして、形はすり鉢をうつむけにしたやうなりと
いふを塩尻のやうになん有けりとは書れし。又ある説にすり鉢
ではない。何やら走り星とやらしほりの山とやらいふ事じや共
聞たれど、俗に早う埒があいて、尤さふにおもはるゝは、やつはり
すり鉢がよさそふにぞ聞ゆれ。猶それより、どこを正途の当
もなく、まどひ/\行給ふに、伊豆箱根をこへ既に武蔵と下総
の中にある、隅田川にぞ来り給ふ。そも此角多河のその気色、こなた
の岸よりむかふの岸までは、川はゞ凡五丁斗。今わたせる両国橋は、武
蔵と下総の両国にかゝるがゆへの名也とか。此ごろこそは繁花の江戸の
都にて、夜昼となく往来も絶ず、川の面を見渡せば、よし原へ出か
くる人、爰の見付の舩宿より、猪牙といふ舩にのり、心いそ/\行も有、所
に住猟師ども艜に乗て蜆をかく。端午の節句の前後より、屋形
舩からくり、舟遊山のにぎはひ、又他国にはない事。大舩に幕を
はり簾をかけ、藝子をどり子上るり語り、堺町のこはいろし
種/"\の文作ひやうきんども、様/"\の十盃きげん、やかた衆町人達
あるひは女中はゞ○かた。此やうな暑い時、こんな涼しいところも
また、さすがは江戸のお影○と、よろこびあへる川逍遙の夕
ぐれ。両国橋に舩をよせ、いろ/\の花火ども、金銀を惜まず
夜風にむかふその気色、中/\筆にも詞にも及ぶまじ。是は
当代、そのかみ業平の爰に下り給ひし比は、さだめてこゝらは
、今のやうに人家とても有まじ。まして両国橋なんどゝはおもひ
どもよらぬ事。そのすさまじいものすごい、大川きしの爰まで
たどり/"\来給ひ、むれゐておもひやり給はゞ、限なくとをくも
来にけりとは、思召すもお理り、此川をわたり、いづくへさしてか
行べきと、こゝろ細くものわびしく、うち詠めゐ給ふに、されば
世にものいひさがなくにくげなる者は、馬かた舩頭とかやいふなる
に、ましてや何があづまそだちの、ゑびすこゞろもないわたし守
ども、これ爰な旅人たち、舟にのるならきり/\とのらしませ
日がくれますわいホウイ/\あたろわい、中の瀬へ棹をせいやい、てん
こちなふ舟一盃乗るによつて、舩のあしかしづむはやいホウイ/\
といふをきくに、わがふねの出ぬうちに、むかひの岸より人をのせてわた
して来る。舩頭同士のよばはり聲。つゐに見なれず、聞なれ給ぬ
事ばかり。みやこ人のこゝろのうち、誠あづまの風ならんとわびしう
かなしう、おもひながら舩にのれば、わたし守はつこうどにコレ乗合達
此川は横わたしで大事の川。たつたりゐたりめさるな。とつくりと
安坐かいてのりやりませといふに、みな人京におもふ人なきにし
もあらず。さる折しもしろき鳥の、觜と足と赤きとび来りて
、水のうへにあそびつゝ魚をとる。そのかたち鴫の大きさに見ける
。京にては見なれぬ鳥なれば、みな人見しらず。わたし守に問ければ
、これなん都鳥といふを聞て
名にしおはばいざ事とはんみやこ鳥
わがおもふ人はありや なしやと
とよめりければ舩こぞりて泣にけり。いかさまにも此うたの
餘情、みやこ鳥の名にしおはゞ、わが恋しく床しくおもふ人
は、恙なくもおはせんや。どふしてましますらん。いざ事とはんと
感情ふかくながめ給ひし。まづ大きなる河有といふより、爰の此のうた
までは、ひとつ/\の言葉のうちに、うき旅のつらいこゝろ、ふる里
のこひしい躰、よく/\おもひ思ふ程、哥の餘情の限りもなく、さき
に当代、両国橋すゞみ舩の賑ひをかける事は、すみ多川といふは
此川ではなふて、どふぞ外の川のやうにもおもふ人もあらんが、業平
の都鳥をよみ給ひしは、やつぱり今の両国橋のそこら、ざん
げ/"\六根清浄、なむ行者大菩薩といふて水をあびる
冨士垢離たちのたくさんなほとり、椎の木のあたりまでの
うちならんか。よく/\かんがへ、こゝろを付て見給べし
昔おとこいまやう姿巻の一終
新古今和歌集巻第十七 雜歌中
五月の晦に富士の山の雪白く降れるを見て
よみ侍りける
在原業平朝臣
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ