平家物語巻第一
五 祇王が事
事の口をしさよ。いかにせんと思ふを、人にしらせじと、おさ
ふる袖のひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。佛御
前是をみて、あまりに哀に覚えければ、入道殿に申ける
は、あれはいかに、ぎわうとこそ見参らせ候らへ。日比めされ
ぬ所にてもさふらはゞこそ。是へめされさふらへかし。さら
ずはわらはにいとまをたべ。出参らせんと申けれ共、入道
いかにもかなふまじきと宣ふ間、ちからおよばで出ざり
けり。入道やがて出あひたいめんし給ひて、いかにぎわう
其後は何事か有。仏御前があまりにつれ/\げに見
ゆるに、今やうをもうたひ、舞なんどをもまうて、仏なぐ
さめよとぞ宣ひける。祇王参る程では、ともかくも入道
殿の仰をはそむくまじき物をと思ひ、ながるゝ涙をおさ
へつゝ、今やう一つぞうたうたる。佛もむかしはぼんぶなり。
我らも終には仏なり。いづれも仏性ぐせる身を、へだつ
るのみこそかなしけれと、なく/\二返うたふたりけれ
ば、其ざになみゐ給へる平家一門の公卿殿上人、諸大夫、侍
にいたるまで、皆かんるいをそもよほされける。入道もげ
にもと思ひ給ひて、時に執ては神妙にも申たり。さては
舞も見たけれ共けふはまぎるゝ事出きたり。此後はめ
さず共つねに参りて、今やうをもうたひ、舞などをもま
ふて、仏なぐさめよとぞ宣ひける。ぎわうとかうの御返
事にも及ばず、涙をゝさへて出にけり。ぎわうまゐらじ
と思ひさだめし道なれ共、母の命をそむかじと、つらき道
におもむいて、二たびうきはぢをみつる事の口をしさよ。か
くて此よに有ならば、又もうきめにあはんずらん。今はたゞ
身をなげんと思ふ也といへば、いもうとのぎ女是を聞いて、姉
身をなげば、我も共に身をなげんといふ。母とぢこれをき
くにかなしくて、なく/\又かさねてけうくんしけるは、
さやうの事有べしともしらずして、けうくんしてまゐらせ
つる事のうらめしさよ。まことにわごぜのうらむるもことわ
りなり。但わごぜが身をなげば、いもうとのぎ女もともにみを
なげんと云。わかき娘どもをさき立て、年おいよはひおと
ろへたる母、命いきても何にかはせんなれば、我も共に身をな
げんずる也。いまだ死期もきたらぬ母に、身をなげさせん
ずる事は、五ぎやく罪にてや有んずらん。此よはかりのや
どりなれば、恥ても恥ても何ならず。只ながき世のやみこそ
心うけれ。今生で物を思はするだに有に、後生でさへあく道
へおもむかんずる事の悲しさよと、さめ/\とかきくどき
ければ、ぎわう涙をはら/\とながいて、げにもさやうにさ
ふらはゞ、五逆罪うたがひなし。一たんうき恥をみつる事の
口をしさにこそ、身をなげんとは申たれ。ささぶらはゞじが
いをば思ひとゞまりさふらひぬ。かくて都に有ならば、又も
うきめをみんずらん。今はたゞ都の外へ出んとて、ぎわう
廿一にて尼になり、さがのおくなる山里に、しばの庵を引
むすび、念仏してぞゐたりける。いもうとのぎ女是を聞
て、あね身をなげば、我も共に身をなげんとこそ契しが
ましてさやうに世をいとはんに、誰かおとるべきとて、十九
にてさまをかへ、あねと一所にこもりゐて、偏に後生をぞ
ねがひける。母とぢ是を聞て、わかき娘共だに、さまをかふる
世の中に、年おいよはひおとろへたる母、しらがを付ても
なににかはせんとて、四十五にてかみをそり、二人の娘もろ共に、
一向せんじゆに念仏して、後生をねがふぞ哀なる。かくて
春過夏たけぬ。秋のはつ風ふきぬれば、星合の空を眺
つつ、あまの戸わたるかぢのはに、思ふ事かく比なれや。
夕日のかげの西の山のはにかくるゝをみても、日の入給ふ
所は、西はう浄土にてこそあんなれ。いつか我らもかしこに
生て、物も思はですごさんずらんと、過にしかたのうき事
共思ひつゞけて、ただつきせぬ物は涙なり。たそかれ時も過
ぬれば、竹のあみ戸をとぢふさぎ、燈かすかにかきたてゝ、
おやこ三人もろ共に念仏してゐたる処に、竹のあみ戸を
ほと/\と打たゝく者出來たり。其時尼共きもをけ
し、あはれ是は、いふかひなき我らが念仏してゐたるを、
さまたげんとて、まえんの來たるにてぞ有らん。ひるだ
にも、人もとひこぬ山里の、しはの庵のうちなれば、夜更
て誰かは尋ぬべき。わづかに竹のあみ戸なれば、あけず共
おしやぶらん事やすかるべし。今はたゞ中/\あけて入ん
と思ふなり。それになさけをかけずして、命をうしなふもの
ならば、年比たのみ奉る、みだの本ぐわんをつよくしんじ
て、ひまなく名号をとなへ奉るべし。聲を尋ねて向へ
給ふなる聖主の來かうにてましませば、などか引ぜふ
なかるべき。相かまへて念仏おこたり給ふなとたがひに心をいま
しめて、手に手を取くみ、竹のあみ戸を明たれば、まゑんに
てはなかりけり。仏御前ぞ出きたる。ぎわうあれはいかに、仏御
せんと見参らするは。夢かやうつゝかと云ければ、仏御前涙を
おさへて、かやうの事申せば、すべて事あたらしうは侍らへ
共申さずは又思ひしらぬ身共なりぬべければ、始よりし
てこま/\と有のまゝに申也。もとよりわらはゝ推参
の者にて、すでに出され参らせしを、わごぜの申じやうに
よつてこそ、めしかへされてもさふらふに、女の身のいふか
ひなき事、我身を心にまかせずして、わごぜを出させま
いらせて、わらはがおしとゞめられぬる事、今にはづかしう
かたはらいたくこそさふらへ。わごぜの出られ給ひしを、みし
に付てもいつか又我身の上ならんと、思ひゐたればうれし
とは更に思はず。しやうじに又、いづれか秋にあはではつべき
とかきおき給ひし筆の跡、げにもと思ひ侍しぞや。いつ
ぞや又わごぜのめされ参らせて、今やうをうたひ給ひし
にも、思ひしられてこそ侍らへ。其後は在所をいづくとも
しらざりしに、此程きけは、かやうにさまをかへ、一つ所に念
仏しておはしつる由、あまりにうら山しくて、つねはいとま
を申しか共、入道殿更に御もちひましまさず。つく/\物
をあんずるに、しやばのゑい花は夢のゆめ、たのしみさかへ
て何かせん。人身はうけがたく、仏けうにはあひがたし。此
度ないりにしづみなば、たしやうくわうごふをばへだつ
共、うかびあがらん事かたかるべし。老少不定のさかひな
れば、年のわかきを頼べきにあらず。出るいきの入をも待べか
らず。かげろふいなづまよりも猶はかなし。一たんのゑい花
にほこつて、後生をしらざらん事のかなしさに、けさまぎれ
出て、かくなつてこそ参りたれ」とて、かづいたるきぬを打
のけたるをみれば、尼になりてぞ出來たる。かやうにさまをかへ
て参りたるうへは、日比のとがをばゆるし給へ。ゆるさんとだに
の給はゞ、諸共に念仏して、一つはちすのみとならん。それ
にも猶心ゆかずは、これよりいづちへもまよひ行、いかならん苔
のむしろ、松がねにもたをれふし、命のあらんかぎりは
念仏して、往生のそくわいをとげんと思ふなりとて、袖をか
ほにをしあてゝ、さめ/\とかきくどきければ、ぎわう涙を
おさへて、わごぜのそれ程まで思ひ給はんとは夢にもし
らず、うき世の中のさがなれば、身のうきとこそ思ひしに、
ともすればわごぜの事のみうらめしくて、今生も後
生も、なまじひにしそんじたる心ちにて有つるに、かやう
にさまをかへておはしつる上は、日比のとがは、露ちり程もの
こらず、今は往生うたがひなし。今度そくわいをとげん社、
何よりも又うれしけれ。わらはが尼になりしをだに、よに
有がたき事のやうに人も云、我身も思ひさふらひしぞ
や。それはよをうらみ、身をなげいたれば、さまをかふるもこ
とわり也。わごぜはうらみもなくなげきもなし。ことしはわ
づか十七にこそなりし人の、それ程までゑとをいとひ、
浄土をねがはんと、ふかく思ひ入給ふこそ、誠の大道心とは
覚えさふらひしか。うれしかりけるぜんぢしきかな。いざ
もろ共にねがはんとて、四人一所にこもりゐて、朝夕仏前
にむかひ、花かうをそなへて、たねんなくねがひけるが、ち
そくこそ有けれ、みな往生のそくわいをとげけるとぞ聞
えし。さればかの後白河のほふわうの長かうだうのくは
こちやうにも、ぎわうぎ女仏とぢらがそんりやうと、
四人一所に入られたり。有がたかりし事共なり。