平家物語巻第一
十三 御こしふりの事去程に山門には、国司かゞの守師高をるざいにしよせられ、目代こんどう判官師經をきんごくせらるべきよし、奏聞度〃及ぶといへ共、御さいきよなかりければ、日吉のさいれいを打とゞめて、安元三年、正月十三日の、たつの一天に、十禅師ごんげん、まらうど八王子、三社の神よをかざり奉て、ぢんどうへふり上奉る。さがり松、きれづゝみ、かもの河原、ただす梅ただ、柳原、とうぼくゐんの邉に、神人、宮
じしら大衆、せんたうみち/\て、いくらと云かずをしらず。神よは一条を西へ入せ給ふに、御神ほう天にかかやいて、日月地におち給ふかと、おどろかる。これによつて、源平両家の大将軍に仰て、四方のぢんとうをかためて、大しゆふせぐべき由、仰せ下さる。平家には、小松の内大臣の左大将、しげもり公、其勢三千よきにて、大宮おもてのやうめい、たいけんゆうはう、三つの門をかため給ふ。おとゝ宗盛知もり重ひら、おぢのり盛、經盛などは、西南の門をかため給ふ。源氏には、大内しゆごの源三位より政、らうどうには、わたなべのはぶく、さづくをさきとして、其勢わづかに三百よき、北のもん、ぬひどのゝぢんをかため給ふ。所はひろし勢はすくなし、まばらにこそみえたりけれ。大衆無勢たるによつて、北の門ぬひどのゝぢんより、神よを入奉らんとするに、より政の卿、さる人にて、いそぎ馬よりとんでおり、甲をぬぎ、てうづうがひして、神よをはいし奉らる
兵共もみなかくのごとし。頼政の卿より、大衆の中へししやを立て、いひおくらるるむね有。其使はわたなべの長七、となふとぞ聞えし。となふ其日のしやうぞくには、きちんのひたゝれに、小桜をきにかへしたる鎧きて、しやくどう造りのたちをはき、廿四さいたる白はの矢おひ、しげどうの弓わきにはさみ、甲をばぬいでたかひもにかけ、神よの御前に畏て、しばらくしづまられ候へ。源三位殿よりしゆとの御中へ、申せと候とて、今度山門の御そせう、りうんの条もちろんに候。御さいたんちゞこそは、よそにてもいこんに覚え候へ。神よ入奉らん事、しさいに及ばず。ただし頼政無勢に候。あけて入奉るぢんより、いらせ給ひなば、山門の大衆は、めだりがほしけりなど、京わらんべの申さん事、後日のなんにや候はんずらん。あけて入奉れば、せんじをそむくにゝたり。又ふせぎ奉らんとすれば、年比ゐわう山王に、かうべをかたぶけて候身が、けふより後ながく
弓矢の道にわかれ候なんず。かれと云これといひ、かた/\なんぢのやうに覚え候。東のぢんどうをば小松殿大勢にて、かためられて候。其ぢんより入せ、給ふべうもや候らんといひをくりたりければ、となふがかくいふにふせがれて、神人宮司しばらくゆらへたり。若大衆悪僧共は、なんでふ其義有べき。只此ぢんより、神よを入奉れやと、云やからおほかりけれ共、○是に老僧の中に、三たふ一のせんぎしやと聞へし摂津のりつしやがうゝん、すすみ出て申しけるは、此義尤さいはれたり。我ら神よを先立参らせて、そせうをいたさば、大勢の中を打やぶりてこそ、後代の聞もあらんずれ。なかんづく此頼政の卿は、六孫王より此かた、源氏ちやく/\の正とう、弓矢を取ても、いまだ其ふかくをきかず。およそはぶげいにも限らず、哥道にも又は勝たる男也。一年近衛の院御在位の御時、たうざの御会有しに、深山の花といふ題を出されたりけるに、人〃皆よみ煩はれたりしを、頼政卿
深山木の其梢とはみえさりし桜は花にあらはれにけり
といふ名哥仕て、御かんにあづかる程の、やさ男に、いか/\時にのぞんで情なうちじよくをばあたふべき。ただ神よかきかへし奉れやと、せんぎしたりければ、す千人の大しゆ先ぢんより後ぢんまで、尤〃とぞ同じける。さて神よかきかへし奉り、東のぢんとう、待賢門より入奉らんとしけるに、らうぜき忽に出來て、ぶし共さん/\にいたてまつる。十禅師の御こしにも、矢共あまたいたてけり。神人宮仕ゐころされ、しゆとおほくきすをかうふつて、おめきさけぶ聲は、ぼん天までもきこへ、けんらう地神もおどろき給ふらんとぞ覚えける。大衆神よをば、ぢんどうにふりすて奉り、なく/\本山へぞかへりける。