岡部
ただひとり、嵐の風の身にしみて、憂き事いとど大井川、しかいのなみを分け、涙も露も置きまがふ墨染めのそでしぼりもあへず行くほどに、するがの國岡部のしゆくといふ所に着きて、荒れたる御堂に立ち寄り休みてゐたりけるに、何となくうしろとのかたを見やりたりけれるに、古きひがあ懸けられたるを、あやしと見るに、過ぎにし春の頃都にて、たがひにさき立たばけんらいゑこく、さいしょいんぜふの契りを結びし同行の東の方へ修行に出でし時、あながち別れを悲しみしかば、これを形見にとて
がふあいしんみやう たんじやくむじやうだう
(我不愛身命 但借無上道)
と書きたりしが、かさはありながらぬしは見えざりしかば遅れさき立つ習ひ、はやもとのしづくとなりにけるやらむとあはれにおぼえて、涙を押さへて宿の者に問ひければ、
京よりこの春、修行者の下りてありしが、この御堂にていたはりをして失せ侍りしを、犬の食ひ亂して侍りき。かばねは近きあたりに侍るらむといひけれど、たづぬるに見えざりければ、
笠はありその身はいかになるぬらむあはれはかなきあめの下かな
我不愛身命
但借無上道 妙法蓮華経 勧持品 第十三 我身命を愛せず ただ無上道を惜しむ。
遅れ先立つ
757 第八 哀傷歌 遍昭