(ウェップリブログ 2007年10月20日~)
(2)かささぎの 家持の場合
鵲のわたせる橋に置く霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける
新古今和歌集巻第六冬歌620 中納言家持
これは、百人一首にもある有名な大伴家持の歌です。
とはいっても、本当にそうかというと確かな事はわからないと言うのが正解です。
家持は、万葉集の編纂に携わったとされ、特に万葉集巻第十七から第二十は、彼の私家集とも呼ばれ、彼の歌や彼の周辺の歌を掲載しております。
しかしこの歌は、万葉集には無く、家持集に掲載され、新古今和歌集の撰者に撰ばれました。この歌集は、かなりいい加減で、万葉集で彼の歌と確認できるもの、異なる人の歌と確認できるもの、万葉集に掲載されていないもの、古今集や後撰集のものがあり、この歌も伝大伴家持と言える部類に属します。
現在のHPでも家持は武人なので、宮廷の当直警備の時の歌だとまことしやかに書かれているものもあります。中納言なのに。
七夕の伝説が日本に伝わり宮中行事となったのは、奈良時代で、遣唐使によってもたらされたものとされ、万葉集にも沢山撰歌されております。
なお、万葉集第十の柿本人麻呂の七夕歌があり、それには作成した年号も書かれていることから、天武天皇時代には既に伝わっていたとのこと。(天武・持統時代は遣唐使がないことから、天智天皇時代かと思います。もしくは百済人や中国渡来人がもたらしたかも。)
恋に溺れて仕事を怠けた牽牛(アルタイル)と織り姫(ベガ)を天の川で分かち、逢瀬を年に一度とした。その年に一度の逢瀬の為に天の川の橋となるのが、かささぎとされております。中国では乞巧奠として手芸、芸能の向上を星に願うものでした。
確証は無いのですが、かささぎとは星の位置からはくちょう座(デネブ)ではないかと思います。
これらの三つの星は夏の大三角形と呼ばれ、10~0時頃(夜更け)は、11月上旬まで見られます。
万葉集には七夕の歌があるといいましたが、具体的には
第八 憶良12首、湯原王2首、市原王1首
第九 長短2首
第十 98首
前述の柿本人麻呂の歌は、
天の漢 安の河原に 定まりて 神競者磨待無(読み方不明)
第十七 1首
第十八 この夕降り来る雨は彦星のはや漕ぐ船の櫂の散りかも 読人不知
新古今集では異伝され山部赤人の歌とされました。
又大伴家持には長歌1首の後の反歌として
天の川橋渡せばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも
第十九 1首
第二十 家持8首
と120首もあり、この習慣が広まった事が判ります。ただ天の川を牽牛が渡るのは、棚橋や船、渡し守となっており、かささぎが橋となって渡すとはなっていません。
かささぎは元々日本にはおらず、もっぱら漢詩の影響で使われているとの事で万葉集には一首もありません。16世紀末期に朝鮮よりもたらされ佐賀平野にいるカチガラスと呼ばれています。
七夕のかささぎ伝説は一首も入っていない事から万葉集以降と大胆ですが推察致しました。
鵲の橋を宮中の橋だとする説が江戸時代の賀茂真淵(1697~1769年)らがあります。
やはり、七夕伝説と霜の矛盾から来たのではないかと思います。
百人一首の各解説本もこの矛盾が解決出来ず「季節が冬だと気が付く」等珍解釈していました。一部「満天の星の比喩と思いたい」と書いてあり、素直な説だと思います。
この歌は家持集では、雑部にあり、その前後は、
千鳥鳴く佐保の川霧立ち濡らし山の紅葉葉色変はりゆく(古今賀歌と忠岑集に下句「山の木の葉も色まさりゆく」で読み人知らず、拾遺で壬生忠岑で「山の木の葉も色変わりゆく)
と佐保山に錦織りかく神無月時雨の雨をたてぬきにして(古今冬314にもあります)
があり、家持集を撰歌材料とした新古今集でも冬歌に分類されています。面白い事に前後の歌は共に佐保(家持の屋敷があった所)を歌ったものですのでかささぎの歌も佐保の歌かも知れませんね。
空気中の水蒸気が気温の低下により葉などに付いて水滴の露となるそうですが、霜は更に氷点下の気温により、水蒸気が昇華して直接凍るものだそうです。葉に付くのは、氷核活性細菌がいるためだと、昔講演を聴いた記憶(難しすぎて・・・)があります。早霜や遅霜は農作物に大きく影響及ぼしますので、茶畑では扇風機を回して防ぎます。
奈良で霜の降りる時期はいつ頃かと調べてみると平年は11月9日が初霜となっておりました。
この時のはくちよう座は西の山に沈む直前となります。かろうじて地上の霜の可能性は残っています。
万葉集の歌の中で日付の判っているものの最後のものは大伴家持の天平宝字三年(739年)の正月元旦、因幡の国庁の饗に
新しき年の始の初春の今日降る雪のいや頻け寿詞
この歌が家持42歳の作と考えられています。
勿論この後25年生き、延暦4年(785年)8月28日68歳で亡くなっいます。この25年間歌が全く記録されていないが、全く歌を作っていないとは思えない。かささぎの歌がこの25年間に作られ、家持集に掲載されたとも言えるが、他に確証は無いのも事実です。
大伴氏は、天平宝字元年の橘奈良麻呂の変で古麻呂、古慈斐以下一族の大半を失い、藤原良継の乱で家持は一時官位を剥奪任され、薩摩守に左遷され、藤原仲麻呂の乱以降鳴かず飛ばずで、早良親王の春宮大夫となり、氷上川継事件に連座を疑われ、長岡京遷都時に持節征東将軍として奥州に出張させられ、半年後帰京後に死亡したそうです。しかし死後二十日後藤原種継射殺事件に連座して官位剥奪、早良親王は流刑途中で憤死となったそうです。家持が罪人となった事で彼の歌が棄てられた可能性もあります。
この早良親王が春宮時代に家持が献上したのが万葉集と言われています。現在までに残った事は上記の政変からは奇跡に近いかと思います。
家持集の中に七夕の歌がどれくらいどういう歌が入っているか調べてみました。(番号は新国歌大観第三巻による)
秋歌の部には
97~106 10首
用例として
天の川 9首
彦星と天の川瀬 1首
雑歌の部には
195~218、300、304 26首
用例として
天の川 15首
天の川原 3首
七夕 2首
彦星 1首
天の川と七夕 2首
天の川と彦星 1首
鵲橋 2首
計318首中36首とかなり入っている事がわかります。
出典は
万葉集巻第八 憶良3首
巻第十 読人不知14首
巻第十七 家持1首
他紀友則2、貫之2、後撰1、出典不明14
この中で注目すべきは雑歌の部
206 かささぎの橋作るより天の川…
213 かささぎのつばさにかけて渡す橋…
共に出典不明ですが、この用例からすると、この集の編者はかささぎが織姫と彦星の間にある天の川の橋となって年に一度の逢瀬を手助けする伝説を知っていた事になります。
(参考家持集全釈 島田良二著風間書房)
では問題の268かささぎの渡せる橋…が雑部でも冬歌の中に入っていたのでしょうか?
結論としては、編者は天の川伝説は知っていたが、霜がある為銀河の比喩とは考えなかったのでは?これが新古今の撰者に引き継がれ百人一首の一首に撰ばれ今日の混乱になったと思います。
月が落ちた途端、まるで霜が置いた様に満天の星が輝き出す。その感動を歌にしたと思います。
補追
かささぎの早い用例は、菅原道真(903年死去)の
彦星の行きあひの待つかささぎの渡せる橋をわれにかさなむ
(作者に疑義ありという説があります)(新古今和歌集雑歌下1698)
ということで900年頃には鵲の七夕伝説が伝わった事が推定され、『かささぎの渡せる橋』とどちらかの歌が本歌取りした可能性が大きい。
又伊勢(宇多帝期)の
中空に君もなりなん鵲の行きあひの橋にあからめなせそ(古今和歌六帖)
心のみ雲居のほどに通ひつつ恋こそまされかささぎの橋(伊勢集 後から古歌を入れられたと言われている)
もあります。
大和物語第125段に、壬生忠岑が、左大臣宅を酔って泉大将ともに訪ね
鵲の渡せる橋の霜の上を夜はに踏み分けことさらにこそ
と左大臣宅を天の川の橋に例えています。
追補2
俊頼髄脳に、
夜や寒きころもやうすき片ぞきのゆきあはぬまより霜やおくらむ(神祇歌)
の歌について
「かたそぎを、かささぎと書ける本もあるか。歌論義に互に争へることあり。鵲といひては心も得ず。」
と片削ぎを鵲と書いる歌もあって、歌論義で争うこともあるとある。
しかし、これを家持の歌に当てはめて、「かたそぎ」を「かささぎ」と逆に間違って書写したとしたらどうなるのであろうか?
片削ぎした千木の渡している端に置く霜と考えた場合、天の河とも何の関係もなく冬歌として生きてこないだろうか?
根拠も乏しく、荒唐無稽な論ではあるが、誰も考えていないことであるので、これを記します。