(ウェップリブログ 2007年12月11日~)
3 都に住まぬ都鳥
名にしおはばいざ言問はん宮こ鳥我が思ふ人はありやなしやと
(伊勢物語 東下り 在原業平 古今集騎旅)
在原業平らしき男が、京に居られなくなった為、三河、駿河と来て隅田川まで来た時の歌です。
新古今でも丹後、斎宮女御(徽子女王)がこの歌を本歌取して
おぼつかな都に住まぬ都鳥こととふ人にいかがこたへし(騎旅歌977 宜秋門院丹後)
人をなほ恨みつべしや都鳥ありやとだにも問ふを聞かねば(騎旅歌908 徽子女王)
など有名になりました。
また、東京都墨田区に業平という地名、業平橋という駅名、墨田公園と浅草の間の隅田川に掛かる橋に言問橋、橋からの道路を言問通りの語源となりました。
川にいた鳥は「白き鳥の嘴と足と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥…」とユリカモメに間違い無いそうで、今の時期(12月)隅田川に多数浮かんでいます。
さて伊勢物語の東下りの場面を少し遡ると
三河の八橋という所で
からころも
きつつなれにし
つましあれは
はるばるきぬる
たびにしぞおもふ
で縦に読むと杜若になる歌を詠んでおります。(カキツバタの開花の見頃の時期は五月上~中旬)
又駿河では6月末~7月上旬に富士山を
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらむ(雑歌上 1614)
と歌っております。(業平作とは疑わしい)
実はユリカモメは渡り鳥で11月から沢山飛来するそうです。
とすれば駿河を6月下旬に通過して隅田川に到着したのが12月以降となり、半年間どこをほっつき歩いていたのでしょうか?
伊勢物語は、実際の話しではなく、業平作を始め多くの人のそれぞれの歌に合わせて話を作ったもの。しかし後世本当の業平の物語と信じられ、高階師尚が業平と斎宮恬子内親王との狩の使いの密通で出来た子とか真しやかに伝えられました。
初冠をみても、源融(822年生)の歌を業平(825年生)が12歳頃本歌取できるはずがないし、融も15歳の歌のはずが無いのが判ります。
万葉集巻第一2に国見の歌として舒明天皇の
大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原は鴎立ち立つうまし国ぞ蜻蛉島大和の国は
があります。
ここで問題となるのは奈良の比較的に低い香具山(標高約200m)から海は見えず、まして鴎(かまめ)が見えるはずもないことです。それをある方が内陸部にまで飛んで来るユリカモメという説を唱え、各万葉解説本に取り上げられ通説となりつつあります。
しかしここで前述を思い出して頂きたいのは、在原業平らしき男が隅田川で見た都には見えぬ鳥としてユリカモメを詠んだ伊勢物語です。都人がよく見るのでは話が進まないし、後世の人も琵琶湖に浮かんでいたなら直ぐ分かったはずです。
実際見えたわけではなく、秋津島(日本)を統治する天皇として日本全体を捉えて歌にして、神々と臣下に対して示したと考えるのが素直な考えかと思います。八隅知し大君なのですから。
千三百年も経って昭和43年以降琵琶湖にはユリカモメが多数飛来しているそうです。環境が変化した為でしょうか?都にも住む都鳥となりますね。
なお、現在のミヤコドリは、チドリ目ミヤコドリ科の別の種だそうです。渡り鳥で嘴と足が赤いから名が付いたのでしょうか?
もう一つ都鳥があります。
万葉集巻第二十 4462
舟競ふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも
布奈芸保布 保利江乃可波乃 美奈伎波尓 伎為都々奈久波 美夜故杼里香蒙
とあり、天平勝宝八歳、聖武天皇の行幸の際、難波堀江で作ったとあります。
この都鳥が、在原業平が見たユリカモメであるかどうかは不明ですが、少なくとも756年から80年足らずでユリカモメが近畿地方で絶滅し、都鳥をだれも見たことが無くなるとは思えないし、ましてや東人の隅田川の渡し守が古事を知ってこの鳥の名を言ったとは思えません。
めそめそと鳴いてうるさい都人をからかって、いつもうるさく鳴くユリカモメに譬えてそう言ったと考えた方が、良いかと思います。
補追
ふと思い付いたのですが
国見と言えば、仁徳天皇(大鷦鷯天皇)が有名で、日本書紀に
四年春二月己未朔甲子詔群臣曰 朕登高台以遠望之 烟気不起於域中。以為百姓既貧 而家無炊者。…
七年夏四月辛未朔天皇居台上 而遠望之烟気多起。是日語皇后曰。朕既富矣。豈有愁乎。皇后対諮。何謂富焉。天皇曰。烟気満国 百姓自富歟。…
と三年間課役を免除してカマドの煙が多く立ち、皇后に国の民が豊かであれば宮殿の直す事が出来なくともと天皇は豊かだと。
仁徳天皇は、都を難波高津宮に造られたとされます。
難波(大阪)ならカモメが飛んでいても可笑しくありません。
この聖帝と言われる先祖天皇の国見の故事を舒明天皇が踏まえて、香具山で詠んだ歌が万葉集に撰ばれたと考えてはどうでしょう。
万葉集の巻一38の人麻呂の吉野宮で吉野と持統天皇(う野讃良天皇)を讃える歌に
八隅知し我が大王は、神ながら神さびせすと、吉野川たぎつ河内に、高殿を高知りまして、登り立ち国見をせせば、たたなはる…
と難波高津宮での故事を踏まえていると思います。持統天皇を仁徳天皇の血と徳を受け継いでいると讃える為に。