(ウェップリブログ 2007年12月14日~)
4 南紀の雪 佐野の渡り
駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪のゆふぐれ(巻第六 冬歌 671 藤原定家)
この歌は万葉集巻第三 265 長忌寸奥麻呂の
苦しくも降り来る雨か三輪の崎佐野の渡りの家もあらなくに
苦毛 零来雨可 神之埼 狭野乃渡尓 家裳不有国
の本歌取で雨を雪に変えたとあり、定家が後に撰歌した新勅撰和歌集にもよみ人知らずで掲載されました。
源氏物語の東屋には、薫大将が、浮舟の三条の隠れ家を訪れた時、
「佐野のわたりに家もあらなくに」など口ずさびて、里びたる簀子の端つ方に居たまへり
「さしとむる葎やしげき東屋のあまりほど降る雨そそぎかな」と打ち払ひたまへる追風、いとかたはなるまで、東の里人も驚きぬべし。
と良く知られた歌でした
三輪山は神の住む山として、万葉集に多数詠まれており、新体系本によるとそれぞれミワを
神:156、265、1226、1403
三輪:17、18、712、1095、1517
弥和:1118
三和:1119、1684
とあります。
佐野とは狭野とも書き、南紀の新宮市三輪崎の木ノ川にある佐野と言われております。これは万葉集1226の
三輪の崎荒磯も見えず浪立ちぬ
とあり江戸時代の契沖(1640ー1701)は、三輪崎を熊野の地と定めたとのこと.
又群馬県高崎市に佐野の船橋があり、万葉集に
上野佐野の船橋取り放し親は放れど我は離るかへ
とあり、能因歌枕にもあります。この地には中世、上野の謡曲「鉢木」が生まれました。何故か定家を祭る神社があります。
藤原定家のこの歌は、どうやら奈良の三輪山の辺りを当該地と思って作ったらしいです。
平安末期に書かれた藤原範兼か著した五代集歌枕に三輪崎を大和、順徳院が書かれた八雲御集には三輪崎、佐野を大和と、鎌倉末期の1303年澄月が書いた歌枕名寄には佐野を大和に分類しています。
この中で特に順徳院は直接定家から聞いた可能性が大きい。
室町時代の謡曲「船橋」に
所は同じ名の、所は同じ名の、佐野のわたりの夕暮に、袖うち払ひて御通りあるか篠懸の
とあり群馬県ではなさそうです。
また、同地の同じく謡曲「鉢木」には定家の佐野を大和路と言っております。
では、海の無い奈良で三輪崎の崎とは、どういう意味か調べた所、山裾が平地や海に突き出た所を指し、海に限らないとの事。崎の付く内陸部の地名があることに納得します。なお万葉時代、家とは自分若しくは妻の家を指し、他人の家は言わないとの事。万葉時代に開けていたはずの三輪山周辺でも納得が行きます。定家は人家も無いと解釈したみたいです。
南紀の新宮市の冬場の気温をみると最低平均気温では12/上6.9℃、12/中5.6℃、12/下4.7℃、1/上4.2℃、1/中3.7℃、1/下2.7℃、2/上2.9℃、2/中4.0℃、2/下3.9℃
観測史上最低気温は
12月ー0.8℃、1月ー3.4℃、2月ー4.6℃、3月ー1.7℃
となっており、熊野灘を黒潮が通っているので、冬場は温かい。雪が降らないとは言えないが、袖払うほど降り続き一面雪になるとは思えません。
以上の結論としては、佐野は、万葉集では大和と熊野の可能性は半々、定家の佐野は大和の桜井市の三輪山周辺となりました。
書き直し