(ウェップリブログ 2008年01月07日)
7 かはず鳴く 古池と蛙
かはづ(蛙)は、アオガエル科カジカガエル属のカエルの事で、万葉集にも多数撰歌され、以後フィーフィーと鳴き方があわれということで、古今集仮名序にも「水に住む蛙の声を聞けば」と記述されて多数歌に詠まれました。
カジカの名は鳴き方が牡鹿に似ていて、河の鹿ということです。
平安中期になると普通のカエルと区別が無くなり、歌語としてカエル全般を指す様になりました。
かはづなく神なび川に影見えていまや咲くらむ山吹の花(春下 161 厚見王 万葉集 巻第八 1435)
あしびきの山吹の花散りにけり井手のかはずは今や鳴くらむ(春下 162 藤原興風)
折りにあへばこれもさすがにあはれなり小田の蛙の夕暮の声(雑上 1476 藤原忠良)
忠良の歌は明らかに普通のカエルとして歌っており、ゲコゲコ鳴く下品な蛙の声も流石に夕暮時に聞けばあはれを感じるとしているようです。
鴨長明が書いた無名抄の井手款冬蛙事(いでのふきかわずのこと)には
それにとりて、井手の川づと申す事こそ様ある事にて侍れ。世の人の思ひて侍るは、たゞかへるをば皆かはづと云ふぞと思へり。それも違ひ侍らね共、かはづと申すかへるは、外にはさらに侍らず、只井手の川にのみ侍るなり。色黒きやうにて、いと大きにもあらず、世の常のかへるのやうにあらはに跳り歩くこともいとせず、常に水のみ棲みて、夜更る程にかれが鳴きたるは、いみじく心澄み、物哀なる声にてなん侍る。春夏の此必ずおはして聞き給へ。
とあり、当時でもかはづとかへるの区別が付かなくなって来ていたことがわかります。井手にしかいない訳ではないのですが、形からかはづの本来は、カジカガエルに間違いは無い事がわかります。
魚のカジカ(鰍)は、カサゴ目カジカ科で、一生川で過ごすもの(大卵型)、稚魚の時海に出て川に戻って戻るもの、琵琶湖に住み着いているもの(小卵型)などいるそうです。金沢ではゴリとして料理されます。
絶滅した地区が多く、数が少なくなりました。季語としては秋。
カジカガエルと混同され、この魚があの鳴き声を出すとの勘違いが名の由来と聞いたことがあります。
蛙が、万葉集にどこで歌われたかを調べてみると(見落としがあるかも)(番号は新大系本による)
佐保川 1004、1123
吉野川 913、920、1106、1723、1868、2161
神奈備川(竜田か飛鳥か初瀬)1435、2162
三輪川(初瀬) 2222
飛鳥川 324、356
木津川(泉の里) 696
内部川(三重) 1735
不明の川 2163、2164、2165
香火屋の下 2265、3818
と20首あり、有名な井手は出てきません。
なお巻第十 2161ー5は秋の雑歌で「蝦を詠み五首」として蝦をヒカガエルの事としておりますが、訳は川辺の情景を歌っていますのでカジカガエルとなっております。
かはづが春夏となっていないで秋というのも興味深いですね。
又香火屋の下ニ首は、
2265 朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我恋めやも(読人不知 秋相聞 漢字は蝦)
3818 朝霞香火屋の下の鳴くかはづ偲びつつありと告げむ児もがも(河村王 漢字は川津)
があり、「かひや」は未詳ながら鹿猪を追い払う為の火を炊く小屋(万葉集事典他)としています。これは明らかに室内にいるヒカガエルの事と思われます。蝦蟇の鳴き声はあはれ深いとは言えませんが、もの淋しさを訴えていると解釈出来ます。しかも稲刈りの後の晩秋の情景になりますね。
なお、現在の飼屋は蚕を飼う為の小屋、蚕室で、暖を入れる為火を焚きます。
これをみると、万葉集ではカジカガエルに限っていないのではと思います。
井手は、京都府井手町で中央に玉川が流れ、万葉集の選者の一人とされる左大臣橘諸兄の旧宅がありました。
玉川は山吹、カジカガエルが有名で、古今集春下 よみ人知らず(ある人曰く橘清友と左注)に
かはずなく井手の山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を
とセットで歌われ、以後歌枕の地となっています。
又新古今には前述の興風の歌以外にも
駒とめてなほ水かはむ山吹のはなの露そふ井手の玉川(春下 159 俊成)
があります。
その他八大勅撰集に掲載されたものとして
後撰 104 宮こ人きてもをらなんかはづ鳴くあがたの井戸の山吹の花
拾遺 71 沢水にかはづ鳴くなり山吹の移ろふ影や袖に見ゆらん
後拾遺 158 沼水にかはづ鳴くなりむべしこそ岸の山吹盛りなりけり
千載 112 山吹の花咲きにけりかはづ鳴く井手の里人今や問はまし
千載 113 九重に八重山吹を写しては井手のかはづの心をぞくむ
千載 117 山吹の花のつまとは聞かねども移ろふなへに鳴くかはづかな
千載 203 あさりせし水にみさびにとちいられてひしの浮き葉にかはづ鳴くなり
後撰の京都御所にある県井と後拾遺の沼水、千載のみさびは普通の蛙と考えて良さそうです。
後撰集巻第十八 雑四には、
蛙を聞きて よみ人しらず
我が宿にあひ宿りして住む蛙夜になればや物は悲しき
と鳴いていない蛙を歌った珍しい歌ですが、家の中にいるカエルを詠んでいます。ヒキガエルの可能性が高いですね。
伊勢物語第二十八段には、
水口に我や見ゆらむかはづさへ水のしたにてもろごゑになく
百八段には、
よひごとにかはづのあまたなく田には水こそまされ雨は降らねど
洗面器になくや田んぼで雨が降ると鳴くのはアマガエルぼいですね。
万葉集にはヒキガエルの事をタニグク(蟾蜍、谷具久)としてニ首あります。
巻第五800 山上憶良 万葉仮名は多尓具久
父母を見れば尊し…この照らす日月の下は、天雲の向伏す極み、たにぐくのさ渡る極み、食す国のまほらぞ…
巻第六971 高橋連虫麻呂 万葉仮名は谷潜
白雲の龍田の山の…伴の部を班ち遣はし、山彦の応へむ極み、たにぐくのさ渡る極み、国状を見したまひて…
これは古事記に少彦名神(スクナビコノナノカミ)が小さな舟で現れた時、ヒキガエルが案山子なら知っていると博学を示しました。何故ならヒキガエルは地の果て隅々まではい回り、知識が豊かだと信じられていてからです。
グクは鳴き声から来ているとの説が有力です。
かへるの用例として後撰集恋四 804 よみ人知らずに
…田のほとりに蛙の鳴けるを聞きて
葦引の山田のそはづうちわびてひとりかへるの音をぞ泣きぬる
があり、帰ると蛙の懸詞になっています。
顕昭が著した袖中抄にはかひやを
顕昭云かひやがしたとは、ゐ中にこかひするに別室のうちつくりもなきを造てその屋にたなをあまたかきて、其にてこをかふ。それをかひやといへり。そのたなのしたにみぞをほりたれば、水たまりなどしてかはづなくこと一定なり
と蚕室だと述べております。
鎌倉時代の古今著聞集には、「寛喜三年(1231年)夏高陽院の南大路にて蝦合戦の事」とあり、突然夏に蝦が一カ所に集まって共食いを始めたとの記録があります。
やめさせようとして、蛇を放ってもなんの効果も無かったとのこと。後に述べる蛙軍とはちょっと違う気がしますが。
寛喜の飢饉といって異常気象が続き、前年には旧暦の6月に雪がふったりして餓死者が京都や鎌倉にあふれたとのことでした。
続く