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平家物語と方丈記2 初稿

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3 平家物語各本の方丈記との類似性
 方丈記の四大災害の記述は、平家物語に多く引用されていることが知られており、それぞれ各伝本系によって取り扱い方はまちまちであることから、それぞれを災害ごとに平家物語の各本とのまとめてみた。

(1) 安元の大火
 安元の大火(1177年)は、多くの貴族の館が焼けただけでなく、大極殿の焼失というに事態に、八月には治承と改元まで行われた。
1)諸本の差違
イ 方丈記大福光寺本
去安元三年四月廿八日カトヨ。風ハケシクフキテシツカナラサリシ夜、イヌノ時許ミヤコノ東南ヨリ火イテキテ、西北ニイタル。ハテニハ朱雀門、大極殿、大学レウ、民部省ナトマテウツリテ、一夜ノウチニ塵灰トナリニキ。ホモトハ桶口、冨ノ小路トカヤ。舞人ヲヤトセルカリヤヨリイテキタリケルトナン。フキマヨフ風ニトカクウツリユクホトニ、扇ヲヒロケタルカコトクスヱヒロニナリヌ。トヲキ家ハ煙ニムセヒ、チカキアタリハヒタスラ焔ヲゝ地ニフキツケタリ。ソラニハハヰヲフキタテタレハ、日ノヒカリニエイシテ、アマネククレナヰナル中ニ、風ニタエス、フキゝラレタルホノホ、飛カ如クシテ、一二町ヲコエツゝウツリユク。其中ノ人ウツシ心アラムヤ。或ハ煙ニムセヒテ、タウレフシ、或ハホノヲニマクレテ、タチマチニ死ヌ。或ハ身ヒトツカラウシテノカルゝモ、資財ヲ取出ルニオヨハス、七珍萬宝サナカラ灰燼トナリニキ。其ノ費エ、イクソハクソ。其ノタヒ公卿ノ家十六ヤケタリ。マシテ其外、カソヘシルニヲヨハス。惣テミヤコノウチ三分カ一ニヲヨヘリトソ。男女シヌルモノ数十人、馬牛ノタクヒ、邊際ヲ不知。人ノイトナミ、皆ヲロカナルナカニ、サシモアヤウキ京中ノ家ヲツクルトテ、タカラヲツイヤシ、コゝロヲナヤマス事ハ、スクレテアチキナクソ侍ル。
ロ 方丈記流布本
いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口、富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝし心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。

ハ 一方系 高野本
巻第一 内裏炎上
おなじき四月廿八日ゐのこくばかり、ひぐちとみこうぢより、火出で來てたつみの風はげしう吹きければ、京中おほく燒けにけり。大きなる車輪の如くなるほむらが、三ぢやう五ぢやうをへだてて、いぬゐのかたへとびこえとびこえ燒けゆけば、おそろしなンどもおろかなり。あるいはぐへいしんわうのちぐさどの、あるいはきたのの天神のこうばいどの、きついつせいのはひ松殿、おにどの、高松殿、かもゐどの、とうさんでう、ふゆつぎのおとどのかんゐんどの、せうぜんこうのほりかわどの、是を始めてむかしいまの名所卅余かしょ、くぎやうの家だにも十六箇所まで燒けにけり。そのほか殿上人、しよだいふの家々はしるすに及ばず。はてはだいだいにふきつけて、しゆしゃくもんより始めて、おうでんもん、くわいしやうもん、だいごくでん、ぶらくゐん、しよし、はつしやう、あいたんどころ、いちじがうちにくわいじんの地となりにける。家々の日記、代々のもんじよ、しつちんまんぽうさながらちりはひとなりぬ。其のあひだのついえいかばかりぞ。人の燒け死ぬる事すひやくにんぎうばのたぐひは数を知らず。是ただことに…略…。
ニ 八坂系・城方本
内裏炎上
おなじき二十八にちのよのねのこくばかりにみやこにはひぐちとみのこうぢよりひいできてをりふしたつみのかぜはげしうふいてきやうちうおほくやけにけりきたののてんじんのこうばいどのぐへいしんわうのちくさどのさい三でうかもゐどのとう三でうそめどのふゆつぎのおとどのかんゐんどのていじんこうのこ一でうせうぜんこうのほりかはどのたちばなのいつせいがはいまつどのおにどのにいたるまでむかしいまのめいしよきうせき二十よケしよくぎやうのしゆくしよだに十七ケしよまでやけにけりそのほかしよだいぶさぶらひのいへいへはなかなかまをすにおよばずしやりんのやうなるほむらが三ちやう五ちやうをへだてつつとびこえとびこえいぬゐをさしてやけゆけばおそろしなんどもおろかなりはてはだいだいにふきつけたりしゆじやくもんよりはじめておうでんもんくわいしやうもんだいごくでんしよし八しやうぶらくゐんあいたんどころくわんのちやうだいがくれうにいたるまでただ一じがあひだのくわいじんのちりとぞなりにけるいへいへのにつきだいだいのもんじよ七ちん万ぱうさながらちりはひとなるそのほかのつひえいくばくぞやひとのやけしぬることす百にんぎうばのたぐひかずをしらずこれただごとに…略…
ホ 百二十句本
第九句 内裏そのほか京中焼失の事
同じき四月二十八日、樋口富の小路より火出できたりて、京中おほく燒けにけり。折節辰巳の風はげしく吹きければ、大きなる車輪の如くなる炎が、三町、五町をへだてて、飛びこえ、飛びこえ、燒けゆけば、おそろしなんどもおろかなり。或は具平親王の千種殿、或は北野の天神の紅梅殿、橘の逸成の蠅松殿、鬼殿・高松殿・鴨居殿・東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀河殿、昔、いまの名所三十四箇所、公卿の家だに十六箇所まで燒けにけり。殿上人、諸大夫の家々は記すに及ばず。遂には内裏に吹きつけ、朱雀門より始て、応天門、会昌門、大極殿、豊樂院、諸司八省、朝所にいたるまで、一時が内に灰燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍万宝さながら麈灰とぞなりぬ。その間の費えいかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人、牛馬のたぐひ数を知らず。これただごとに…略…
ヘ 元和九年本
巻第一 内裏炎上
おなじきにじふはちにちのよのいぬのこくばかり、ひぐちとみのこうぢよりひいできたつて、きやうぢうおほくやけにけり。をりふしたつみのかぜはげしくふきければ、おほきなるしやりんのごとくなるほのほが、さんぢやうごちやうをへだてて、いぬゐのかたへすぢかへにとびこえとびこえやけゆけば、おそろしなどもおろかなり。あるひはぐへいしんわうのちぐさどの、あるひはきたののてんじんのこうばいどの、きついつせいのはひまつどの、おにどの、たかまつどの、かもゐどの、とうさんでう、ふゆつぎのおとどのかんゐんどの、せうぜんこうのほりかはどの、これをはじめて、むかしいまのめいしよさんじふよかしよ、くぎやうのいへだにもじふろくかしよまでやけにけり。そのほかてんじやうびと、しよだいぶのいへいへはしるすにおよばず。はてはたいだいにふきつけて、しゆしやくもんよりはじめて、おうでんもん、くわいしやうもん、だいこくでん、ぶらくゐん、しよしはつしやう、あいたんどころ、いちじがうちに、みなくわいじんのちとぞなりにける。いへいへのにつき、だいだいのもんじよ、しつちんまんぽうさながらちりはひとなりぬ。そのあひだのつひえいかばかりぞ。ひとのやけしぬることすひやくにん、ぎうばのたぐひかずをしらず。これただごとに…略…。
ト 源平盛衰記
巻第四 京中焼失事
四月廿八日亥刻に、樋口、富小路より燒亡あり。是は…略…燒にけり。折節巽の風はげしく吹て、乾を指て燃ひろごる。融大臣鹽竈や川原院より燒そめて、名所卅餘箇所公卿家十七箇所燒にけり。染殿と申すは忠仁公の家也。正親町京極小一條殿と申は、貞仁公の家とかや。近衞東洞院染殿の南には、淸和院、小二條、款冬殿と申は、二條東洞院也三條宮の御子、左の小藏宮とぞ申ける。照宣公の堀河殿、大炊御門、冷泉院、中御門の高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼三位の山井殿、鷹司殿、大炊殿、押小路町の鴨井殿、六條院、小松殿、公任大納言の四條殿、良相公の西三條、高明御子の西宮、三條朱雀に、朱雀院、神泉苑、勧学院、奨学院、穀倉院、東三條近衞院、滋野井本院、小野宮、冬嗣大臣の閑院殿、北野天神紅梅殿、梅苑、桃苑、高松殿、中務の宮の千種殿、枇杷殿、一院京極殿、天の橋立に至まで、一字も殘らず燒にけり。まして其外家々は數を知ず、はては大内に吹付たりければ、朱雀門、應天門、會昌門、陽明、待賢、郁芳門、淸涼、紫宸、大極殿、豊樂院、天透垣、龍の小路、殿上の小庭、延喜の荒海、見參の立板、動の橋、諸司八省までも、皆燒亡ぬ。淺增と云も疎也。大炊御門堀川に…略…。
巻第十一 旋風事
六月十四日、旋風夥吹て、…略…命を失ふ人是多し。其外資財雑具、七珍萬寶の散失すること數を知ず。
チ 延慶本
一ノ四十 きやうぢゆうおほくぜうしつすること
四十 廿八日ゐのときばかりに、ひぐちのとみのこうぢよりひいできたる。をりふしたつみのかぜはげしくふきて、きやうぢゆうおほくやけにけり。つひにはだいりにふきつけて、しゆしやくもんよりはじめて、おうでんもん、くわいしやうもん、だいこくでん、ぶらくゐん、しよしはつしやう、だいがくれう、しんごんゐん、くわんがくゐん、こくさうゐん、ふゆつぎのおとどのかんゐんどの、これたかのみこのをののみや、くわんしようじやうのこうばいどの、むめどの、ももどの、よしあきらのおとどのたかまつどの、ぐへいしんわうのあきをこのみしちくさどの、さんだいのみかどのたんじやうし給しきやうごくどの、ちゆうじんこうのそめどの、せいわのゐんの、ていじんこうのこいちでうのゐん、やまぶきさきしこにでうのゐん、せうぜんこうのほりかはどの、かやのごてん、かうやうゐん、くわんぺいのほふわうのていじのゐん、えいらいのさんゐのやまのゐどの、しうんたちしきんたふの大納言のしでうのみや、しんぜんゑんのとうさんでう、おにどの、まつどの、はとのゐどの、たちばなのいつせい、ごでうのきさきのとうごでう、とほるのおとどのかはらのゐん、かやうのめいしよ三十よかしよ、くぎやうのいへだにも十六かしよ、やけにけり。ましててんじやうびと、しよだいぶのいへはかずをしらず、ちをはらひてやけにけり。ひぐちとみのこうぢよりすぢかへにいぬゐのかたをさして、くるまのわばかりなるほむらとびゆきければ、おそろしといふもおろかなり。これただことに…略…
リ 長門本
巻第一
廿四日亥の刻ばかりに樋口、富小路より火出来けるが、辰巳の風はげしく吹て、京中多く焼にけり。昭宣公の堀川殿、忠仁公の閑院殿、冬嗣大臣のそめ殿、よしすけ公の西三条、具平親王の千草殿、高明親王寛平法皇の亭子院、北野天神の紅梅殿、神泉苑、鴨居殿をはじめとして、名所廿一ヶ所、公卿の家十七ヶ所焼にけり。殿上人、諸大夫の家は数を知らず。のちには大裏へ吹付けて、朱雀門より始て応天門、会昌門、大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、真言院まで焼ほろびにけり。家々の日記、代々の文書、資財、雑具、七珍萬寶さながら灰塵となりぬ。人の焼死る事数百人、牛馬犬の類数を知らず。総じて都三分一は焼にけり、樋口、富小路よりすぢかへにいぬゐの方をさして、大裏へしやりんばかりなるほむらとび行けり、おそろしなどはいふばかりなし、只事に非ず、…略…
ヌ 嵯峨本系
巻第一 内裏炎上
同じき四月二十八日亥の刻ばかり樋口富小路より火出で来て京中多く焼けにけり。折節巽の風烈しく吹きければ大いなる車輪の如くなる焔が三町五町を隔てて乾の方へ筋交へに飛び越え飛び越え焼き行くは恐ろしなどもおろかなり。或いは具平親王の千種殿或いは北野天神の紅梅殿、橘逸勢の蠅松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条殿、冬嗣大臣の閑院殿昭宣公の堀川殿これを始めて昔今の名所三十余箇所公卿の家だにも十六箇所まで焼にけり。その外殿上人諸大夫の家々は記すに及ばず。果ては大内に吹きつけて朱雀門より始めて応天門、会昌門、大極殿、豊楽院、諸司八省朝所一時が内に灰燼の地とぞなりにける。家々の日記代々の文書七珍万宝さながら塵灰となりぬ。その間の費いかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人牛馬の類数を知らず。これ徒事に…略…
ル 源平闘諍録
廿一 禁中・洛中炎上の事
 同じき廿八日、亥の時計りに、樋口・富小路より火出で来て、辰巳の風劇しく吹きて、京中多く焼け失せにけり。名所も三十余ケ所、公卿の家十六ヶ所、殿上人・諸大夫の家は数を知らず。終には大内に吹き著けて、朱雀門より始めて、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司・八省・大学寮・真言院も焼け失せにけり。樋口・富小路より角違ひに戌亥の方を指して、車輪計りの如くなる燗飛び行きけり。恐ろしとも言ふ量り無し。能有大臣の本院殿、冬嗣の大臣の閑院、維高御子小野の宮の小野宮殿、若松殿、北野の天神の紅梅殿、橘逸勢の高松殿、円融大臣の河原院、中務宮の千草殿、永頼三位の山の井、五条の后の東五条、忠仁公の染殿、貞仁公の小一条、公任大納言の四条宮、東三条、西三条、此れ等の名所も焼けにけり。家々の代々の文書、資財雑具、七珍万宝、純ら塵灰と作りぬ。其の外の費え何計りぞ。人の焼け死ぬること数万人、牛馬の類ひは数を知らず。都て北の京は三分が一焼けにけり。
ヲ 真字平松本
同廿七日亥剋計樋口富小路火出来テ折節乾ノ風烈シク吹ケレバ大ナル車輪ノ猛(ホノホ)三町五町ヲ隔テ巽差テ○超焼行京中多ク焼ニケリ。怖何土トモ疎ナリ。或ハ良相公ノ西三条北野天神紅梅殿或ハ具平親王千種殿忠仁公染殿照宣公鴨居殿鬼殿高松殿始昔今ノ名所共廿余ヶ所、公卿ノ家十六カ所及焼ニケリ。其他殿上人大夫ノ家ハ数ヲ不知。終ハ大内吹付朱雀門ヲ始陽明待賢應田門會昌門豊樂院諸司八省朝所迄テ一時ガ中ニ灰燼ノ地トゾ成。家家之日記代々ノ文書七珍万宝乍左塵灰トソ生リニケリ。其間費ヘ如何計ゾ。人ノ焼死事数百人、牛馬ノ類イ数不知。是…略…
ワ 真字熱田本
同二十八日之夜戌ノ剋計リ従リ樋口富ノ小路火出来テ、京中多ク焼ケニケリ。折節シ巽ノ風烈シク吹ケレバ如大ナル車輪ノ炎隔テ三町五町乾方筋違ニ飛ビ越々々焼ケ行ケバ惶愚也。或ハ具平親王千種殿或ハ小野天神ノ紅梅殿橘逸勢這松殿鬼殿高松殿鴨居東三条冬嗣ノ大臣閑院殿昭宣公堀川殿始メ是ヲ古シ今ノ名所三十余箇所公卿家ダニモ十六箇所マデ焼ニケリ。其外殿上人諸大夫ノ家家不及註スルニ。終ニハ吹キ着ケテ干大内従リ朱雀門始テ應天門會昌門大極殿豊樂院諸司八省朝所一時ガ中ニ皆為ニケリ灰燼ノ地トゾ○家々日記代々ノ文書七珍万宝流石為リヌ塵灰ト。○其間ノ幣ヘ幾多。人之焼ケ死ヌル数百人牛馬ノ類不知ラ数。…略…
カ 四部合戦状本
廿八日亥時計樋口冨小路火出來リ辰巳風劇シク吹、亰中多ウ燒失ヌ。名所融大臣河原院具平親王子草殿、北野天神紅梅殿、昭宣公堀河殿、冬副大臣閑院殿、東三條神泉苑鬼殿、鴨居殿、西三條小野宮款冬殿、高明親王西宮勧學院、穀藏院、天階立不知其數了。吹キ着ケ大内從朱雀門始メ応天門、會昌門、大極殿、豐樂院、諸司、八省朝所官廰燒ケ已自樋口冨小路違差乾方大内邊リ、車ノ輪ハ計焔飛行。怖無云計。几處日記代文書、資財難具、七珍萬寶、併成灰燼失ス。其間費幾乎。人民燒死事數百人、牛馬類不知。祖几此部三分一燒。是モ非只事…略…
ヨ 屋代本

2)安元の大火のまとめ
 方丈記と平家物語異本の主な差違は次の表の通り。

 方丈記との差違で、日付が異なるのが、「二十四日」長門本、「二十七日」が平松本、屋代本で、その他は一致している。発生時刻が、「子の刻」が城方本、平松本、屋代本、方丈記と一致して「戌の刻」なのが、百二十句本、熱田本、後は「亥の刻」となっている。公卿の焼けたカ所数が異なるのが、「十七個所」の城方本、盛衰記、長門、記載がないのが四部合戦状本で、他は方丈記と同じ「十六個所」となっている。兼実の玉葉には、「已上公卿十四人云々」とあり、検非違使の公式報告書には13カ所となっている。
 死者数は、方丈記大福光寺本の「数十人」、流布本の「数千人」に対して、多くは「数百人」、盛衰記、延慶本は記載無し。闘諍録では「数万人」となっている。
 方丈記の内裏の様子の「灰燼」も、平家物語では塵灰」、「七珍万宝さながら灰塵と」が平家物語は「塵灰」、唯一一致しているのが長門本である。
 方丈記は「馬牛の類」としているが、平家物語は全て牛馬(長門本は牛馬犬)とある。しかし、前田家本は、牛馬としており、平家物語と一致している。
 方丈記の「その費えいくそばくぞ」は、どれくらいかは不明であるが多くのという意味の「幾十許」の副詞であるが、「いかばかりぞ」高野本、百二十句本、元和九年本、嵯峨本系、源平闘諍録、平松本、「いくばくぞ」城方本、「幾多」とする熱田本、「幾乎」とする四部合戦状本、「如何とぞや」とする屋代本、辻風において「散失すること数を知ず」と利用している源平盛衰記、この部分がない延慶本、長門本と「その間の費え」として平家物語は、一致するものがない。幾十の例は土佐日記や古今集、拾遺集などで、和歌においては、鎌倉前期までは多くの使用例がみられる。

平成26年3月15日全面改定。

平家物語熱田本


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