(2) 治承の辻風
治承四年四月二十九日(ユリウス暦1180年5月25日グレゴリオ暦6月1日)に中御門から六条大路までの約2kmに渡り竜巻が起こり、多くの屋敷が破壊された。
1) 諸本の差違
イ 大福光寺本
又、治承四年卯月ノコロ、中御門京極ノホトヨリ、ヲホキナルツシ風ヲコリテ、六條ワタリマテフケル事ハヘリキ。三四町ヲフキマクルアヒタニ、コモレル家トモ、ヲホキナルモチヰサキモ、ヒトツトシテヤフレサルハナシ。サナカラヒラニタフレタルモアリ。ケタ、ハシラハカリノコレルモアリ。カトヲフキハナチテ、四五町カホカニヲキ、又、カキヲフキハラヒテ、トナリトヒトツニナセリ。イハムヤ、イヱノウチノ資財、カスヲツクシテソラニアリ。ヒハタ、フキイタノタクヒ、冬ノコノハノ風ニ亂ルカ如シ。チリヲ煙ノ如ク吹タテタレハ、スヘテ目モミエス、ヲヒタゝシクナリトヨムホトニ、モノイフコヱモキコエス。彼ノ地獄ノ業ノ風ナリトモ、カハカリニコソハトソ、ヲホユル。家ノ損亡セルノミニアラス、是ヲトリツクロフアヒタニ、身ヲソコナヒ、片輪ツケル人、カスモシラス。コノ風、ヒツシノ方ニウツリユキテ、ヲホクノ人ノナケキナセリ。ツシ風ハ、ツネニフク物ナレト、カゝル事ヤアル。タタ事ニアラス。サルヘキモノゝサトシカ、ナトソウタカヒハヘリシ。
ロ 方丈記流布本
また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けたはしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほどに置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。
ハ 高野本
飈
おなじき五月十二日むまのこくばかり、京中はつじかぜおびたたす吹いて、じんをくおほくてんだうす。風なかみかどきようごくよりおこッて、ひつじさるの方へ吹いて行くに、むねかどひらかどをふきぬいて、四五町十町ふきもてゆき、けた、なげし、柱なンどは、こくうにさんざいす。ひはだ、ふき板のたぐひ、冬のこのはの風に亂るるが如し。おびたたしうなりどよむ音、かの地獄のごふふうなりとも、これには過ぎじとぞみえし。ただしやをくの破損するのみならず、命を失ふ人も多し。牛馬のたぐひ、數を盡くして打ちころさる。是ただ事にあらず、…略…
ニ 城方本
辻風のあひ
おなじき五ぐわつ十二にちのむまのこくばかりに、つじかぜおびただしうふきて、じんをくおほくてんだうす。かぜはなかみかどきやうごくよりおこつて、ひつじさるをさしてふきけるに、むなかどひらかどふきぬきふきぬき、三ちやう五ちやうをへだてつつ、なげすてなげすてしけるうへは、けたはしら、なげしなどはこくうにあがり、ひはだぶきいたのたぐひはふゆのこのはのかぜにみだるるがごとし。ひともあまたいのちをうしなひぎうば六ちくのたぐひかずをつくしてうちころさる。これただごとにあらず…略…
ホ 百二十句本
第二十七句 金渡し 医師問答
さるほどに、同じく五月十二日の午の刻ばかりに、京中は辻風おびたたしう吹いて行くに、棟門、平門を吹き倒し、四五町、十町吹きもつて行き、桁、長押、柱なんどは虚空に散在す。檜皮葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。おびたたしう鳴り、動揺すること、かの地獄の業風なりともこれには過ぎじとぞ見えし。舎屋破損するのみならず、命失ふ者もおほかりけり。牛馬のたぐひ、数をつくしてうち殺さる。「これただ事にあらず…略…。
ヘ 元和九年本
巻第三 つじかぜ
さるほどにおなじきごぐわつじふににちのうまのこくばかり、きやうちうにつじかぜおびたたしうふいて、じんをくおほくてんだうす。かぜはなかのみかどきやうごくよりおこつて、ひつじさるのかたへふいてゆくに、むねかどひらかどふきぬいて、しごちやうじつちやうばかりふきもてゆき、けた、なげし、はしらなどは、こくうにさんざいし、ひはだ、ふきいたのるゐ、ふゆのこのはのかぜにみだるるがごとし。おびたたしうなりどよむおとは、かのじごくのごふふうなりとも、これにはすぎじとぞみえし。ただしやをくのはそんずるのみならず、いのちをうしなふものもおほし。ぎうばのたぐひ、かずをしらずうちころさる。これただごとにあらず…略…
ト 嵯峨本系
巻第三 飈
さるほどに同じき五月十二日午の刻ばかり京中には飈夥しう吹きて人屋多く顛倒す。風は中御門京極より起つて坤の方へ吹いて行くに棟門平門を吹き抜いて四五町十町ばかり吹きもて行く。桁長押柱などは虚空に散在す。檜皮葺板の類冬の木の葉の風に乱るるが如し。夥しう鳴り響む音かの地獄の業風なりともこれには過ぎじとぞ見えし。ただ舎屋の破損するのみならず命を失ふ者も多し。牛馬の類数を知らず打ち殺さる。これ只事にあらず…略…
チ 盛衰記
巻第十一 旋風事
六月十四日、旋風夥吹て、人屋多く顛倒す。風は中御門、京極の辺より起て、坤の方へ吹以て行。平門棟門などを吹払て、四五町十町持ち行て抛などしける。上は桁梁垂木こまひなどは、虚空に散在して、此彼に落けるに、人馬六畜多く被打殺けり。屋舎の破損はいかゞせん、命を失ふ人是多し。其外資財雑具、七珍万宝の散失すること数を知ず、これ徒事に非とて…略…
リ 延慶本
巻第三 十九 つじかぜあらくふくこと
六月十四日、つじかぜをびたたしくふきて、じんをくおほくてんだうす。風はなかのみかど、きやうごくのへんよりおこりて、ひつじさるのかたへふきもてゆくに、むねかどひらかどなむどをふきぬきて、しごちやう、じつちやうもてゆきて、なげすてなむどしける上は、けた、うつばり、なげし、むなぎなむどこくうにさんざいして、あしこここにおちけるに、じんばろくちく多くうちころされにけり。ただしやをくのはそんずるのみにあらず、命をうしなふ者多し。そのほかしざいざふぐ、しつちんまんぽうのちりうせし事、かずをしらず。このこと、ただことにあらずぞ。…略…
ヌ 長門本
巻第六 旋風
同年六月十四日、おびただしく吹て、人の家多くてんだうす、風は中御門京極の辺より起りて、未申の方へ吹きもて行く、棟門平門などふきぬきて、四五町十町ふきもてゆきて、なげすてなどしけるうへは、桁、うつばり、なげし、柱などは虚空に散在して、かしここにぞちりける、人馬六ちく多くうちころされにけり。ただ舎屋の破そんするのみならず、命を失ふもの多し。法勝寺の九重のたうも上六重は吹落す、おたぎの十三重の塔も僅に二重ばかりぞ残りける、此時の風に堂舎、仏閣、禁裏、仙洞皆ことごとく破損しぬ。そのほか資財雑具七珍万宝のちり失せし事いかばかりぞ、此事ただ事にあらずぞ…略…
ル 四部合戦状本
同ク十日余ノ比ロ、従中御門京極ノ裎ト大飈吹テ、六条ノ邊リニテ震(ヲヒ)タシキ吹懸(クテ)三四町吹間、籠ル其中屋共多ク破レテ為一ト不残。乍佐平ニ被ルモ吹伏有ケリ。桁(ケタ)柱ヲ許(ハカリ)□有リ。吹キ放ツ門ヲハ、置キ四五町裎、吹拂垣與ト隣リ成ル。□□ヤ家ノ内資財雑具尽ク数在空(ソラ)ニ。檜皮葺(ヒハタフキ)ノ板ナ類クヒ、如シ、秋木葉ノ散ルカ風ハ似タリ、拂塵如ク是ノ吹立ケレバ、惣ヘテ目モ不見エ。不恠泣揺裎ニ、不聞エ物云声モ。彼ノ地獄ノ業ノ風モ、覚エシ是非(カクヤトス)。家ノ損亡セルノミニ、是ヲ取リ療(ソク)ロフ間損ンサレテ身ヲ片輪付ク者、不知数ヲ。此風移リテ未方、成ス多ク人歎ヲ。辻シ凡ハ世ノ常吹ク物ナレトモ有ル斯ル事ヤハ。是レモ非只事ニ可。然事ノ里(サト)○シニヤトソ疑ヒ侍ル。
ヲ 屋代本
2) 治承の辻風のまとめ
治承の辻風の方丈記と平家物語異本の主な差違は次の表の2の通り。
辻風の部分に関しては、多くの異本において、参考としたと考えられる部分はとても少ない。
ところが、四部合戦状本に至っては、ほぼ全部が方丈記の大福光寺本に一致すると言っても過言ではない。
四部合戦状本以外について、述べると、日付に関しては、方丈記の治承四年の4月(流布本は4月29日)となっているが、平家物語の語り本系では、平重盛の死と関連づけて、治承三年のこととし、高野本、城方本、百二十句本、元和九年本、嵯峨系本は5月12日。一方読み本系の延慶本、長門本は、6月14日としている。
吹き飛ばされる家屋の距離は、ほとんどが、「四五町十町」としている。城方本のみ「三町五町」と平家物語の安元の大火と同じで、内裏炎上の部分をそのまま引用したものと思える。
吹き飛ばされる物とその樣子の「檜皮葺板の類、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし」は、高野本、城方本、百二十句本、元和九年本、嵯峨系本の読み本系において一致している。
「地獄の業風」においては、高野本、百二十句本、元和九年本、嵯峨系本、屋代本において一致している。
四部合戦状本においては、まさに方丈記大福光寺本を平家物語に真字で写し、当てはめ、「さながらひらにたふれたるもあり」や大福光寺本の「煙ノ如ク吹タテタレハ」、流布本の「塵を煙のごとく吹き立てたれば」を「塵如ク拂フニ是ノ吹立ケレバ」など多少の差違は、四部合戦状本の写本による違いと言える。読み下しの訓は多少違うが、これは後から読み下しを書いた者の読み方の違いとも言える。
辻風が起こった年は他本と違い、その前に「四月一日親院自厳島」とあり、高倉院の厳島神社御行の後に記載されているので、発生した年は、正しいが、日付のみ「同じく十日余り」とあり、四月に読めるが、同じくの前に空白があり、ママと注があるので、他本のとおり書写者は五月と思われたのかも知れず、方丈記と違う点である。また、冬ではなく、「秋の木の葉」としている。
その他の部分を比較すると、大福光寺本の「三四町ヲフキマクルアヒタニ、コモレル家トモ」と流布本にある「三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家」とあり、四部合戦状本の「懸三四町吹間、籠ル其中屋共」と「懸けて」と「その中」が流布本と同じで、「間」は大福光寺本に同じであり、四部合戦状本は、大福光寺本と流布本の両方を参考としたと考えてよい。
もしくは、四部合戦状本は、大福光寺本と流布本の書写する前のオリジナルの方丈記を写し、両異本とも誤写した部分が差違となっているかも知れない。上の写真の前田家本の「三四丁を可けてふきあくるあひ堂爾そ能中爾こもれる家」(変体仮名のまま)とあり、「ふきまくる」と「ふきあくる」の違いは、前田家本の系統を参考とした考えるべきであろう。書写年代は、大福光寺本、前田家本より遅いと考えられている諸異本の「保冣本(野中春水蔵)」、「氏家本(天理図書館蔵)」、「嵯峨本(伊藤健氏蔵)」、「兼良本(戸川浜男氏蔵)」、{近衛本(陽明文庫蔵」)は、「三四町をかけて吹きまくる間に其の中に」と四部合戦状本と同じである。
簗瀬氏は、全注釈の補説の中で、「長明の文章には、くくり書きが存在すること」として「間に」を正統とし、「『間にその中に』では、いかにも稚拙」と「以上の推定が許されるとすると、この辻風の条は、後人の手が加わった伝本が多い」としている。しかし、稚拙の根拠だが、方丈記の養和の飢餓でも「ヒタスラニ家コトニコヒアリク」の用例もあることから当たらない。
従って前田家本系の方がよりオリジナルに近いと考えられる。
平成26年3月22日全面改定