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平家物語と方丈記4 初稿

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(3) 福原遷都
 平清盛は、治承四年六月、一門や多くの貴族の反対を押し切って、摂津國の福原(神戸市兵庫区、北区)へ遷都を強行し、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇の行幸が行なわれた。当時の宋貿易の要である大和田泊港を強化する目的と前年の後白河法皇幽閉の人心一身を狙ったものかと思う。しかし、平家一門や貴族達の不満、源氏の旗揚げに対応するため、新嘗祭の五節だけ行われ、半年で京都に還幸している。賀茂神社は、元々賀茂氏の氏神であったが、平安遷都以降、王城鎮護の神社として代々天皇家の崇拝を受け、皇女を斎院として置くなど、賀茂家は平安京と共に発展してきた。これも諸行無常として、方丈記では災禍と同じく捉えている。

1) 諸本の差違
イ 大福光寺本
又、治承四年ミナ月ノ比、ニハカニミヤコウツリ侍キ。イトヲモヒノ外也シ事ナリ。ヲホカタ此ノ京ノハシメヲキケル事ハ、嵯峨ノ天皇ノ御時、ミヤコトサタマリニケルヨリノチ、ステニ四百餘歳ヲヘタリ。コトナルユヘナクテ、タヤスクアラタマルヘクモアラネハ、コレヲ世ノ人ヤスカラスウレヘアヘル。實ニ事ハリニモスキタリ。サレト、ゝカクイフカヒナクテ、帝ヨリハシメタテマツリテ、大臣公卿ミナ悉クウツロヒ給ヒヌ。世ニツカフルホトノ人、タレカ一人フルサトニノコリヲラム。ツカサ、クラヰニ思ヲカケ、主君ノカケヲタノムホトノ人ハ、一日ナリトモトクウツロハムトハケミ、時ヲウシナヒ、世ニアマサレテ、コスル所ナキモノハ、ウレヘナカラトマリヲリ。ノキヲアラソヒシ人ノスマヒ、日ヲヘツゝアレユク。家ハコホタレテ淀河ニウカヒ、地ハメノマヘニ畠トナル。人ノ心ミナアラタマリテ、タゝ馬クラヲノミヲモクス。ウシクルマヲヨウスル人ナシ。西南海ノ領所ヲネカヒテ、東北ノ荘薗ヲコノマス。ソノ時、ヲノツカラ事ノタヨリアリテ、ツノクニノ今ノ京ニイタレリ。所ノアリサマヲミルニ、【ソノ地、ホドセハクテ、デウリヲ割ルニタラス。北ハ山ニソヒテ高ク、】南ハ海チカクテクタレリ。ナミノヲトツネニカマヒスシク、シホ風コトニハケシ。内裏ハ山ノ中ナレハ、彼ノ木ノマロトノモカクヤト。ナカナカヤウカハリテ、イウナルカタモハヘリ。ヒゝニコホチ、カハモセニハコヒクタスイヱ、イツクニツクレルニカアルラム。ナヲムナシキ地ハオホク、ツクレルヤハスクナシ。古京ハステニ荒テ、新都ハイマタナラス。アリトシアル人ハ皆、浮雲ノヲモヒヲナセリ。モトヨリコノ所ニヲルモノハ、地ヲウシナヒテウレフ。今ウツレル人ハ、土木ノワツラヒアル事ヲナケク。ミチノホトリヲミレハ、車ニノルヘキハ馬ニノリ、衣冠布衣ナルヘキハ多クヒタゝレヲキタリ。ミヤコノ手振里タチマチニアラタマリテ、タゝ、ヒナタルモノゝフニコトナラス。世ノ亂ルゝ瑞相トカキケルモシルク、日ヲヘツゝ世中ウキタチテ、人ノ心モヲサマラス、タミノウレヘツヰニムナシカラサリケレハ、ヲナシキ年ノ冬、ナヲ、コノ京ニ帰リ給ニキ。サレト、コホチワタセリシ家トモハ、イカニナリニケルニカ、悉クモトノ樣ニシモツクラス。ツタヘキク、イニシヘノカシコキ御世ニハ、アハレミヲ以テ、國ヲゝサメ給フ。スナハチ、殿ニカヤフキテモ、ノキヲタニトゝノヘス、煙ノトモシキヲミ給フ時ハ、カキリアルミツキ物ヲサヘユルサレキ。是民ヲメクミ、世ヲタスケ給フニヨリテナリ。今ノ世ノアリサマ、昔ニナソラヘテシリヌヘシ。
注:【ソノ地、ホドセハクテ、デウリヲ割ルニタラス。北ハ山ニソヒテ高ク、】は前田家本より
ロ 方丈記流布本
又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京にうつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひたゝれを着たり。都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元のやうにも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

ハ 高野本
五之巻
都帰
同十二月二日、にはかに都がへりありけり。新都は北は山にそひてたかく、南は海ちかくしてくだれり。浪の音つねはかまびすしく、鹽風はげしき所也。
八之巻
緒環
さる程に、筑紫には内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、いまだ宮こも定められず。主上は岩戸の諸境大蔵の種直が宿所にわたらせ給ふ。人々の家々は野中田なかなりければ、あさの衣はうたねども、とをちの里ともいッべし。内裏は山のなかなれば、かの木の丸殿もかくやとおぼえて、中々ゆうなる方もありけり。
ニ 城方本
巻第五
富士川合戦
されどもふくはらには、しんとのことはじめあるべしとて、さとだいりきらぎらし、うつくりいだしたてまつつて、おなじき十一ぐわつ七かのひごせんかうとぞきこえし。されどもこのみやこは、きたはやまにそうてたかく、みなみはうみちかくてくだれり。つねはなみのおと、しほかぜはげしくして、かまびすきところなり。だいりはやまのなかなれば、きのまろどのもかくやとおぼえてなかなかいうなるところもあり。ひとびとのいへいへはのなかたなかなりければあさのころもはうたねども、とをちのさとともいつつべし。
ホ 百二十句本
第四十九句 五節の沙汰
同じく、福原に、十一月十三日、内裏造り出だして、御遷幸あり。この京は北は山そびえて高く、南は海近うして低ければ、波の音つねにかまびすしく、潮風はげしき所なり。ただし内裏は山の中なれば、「かの木の丸殿もかくやらん」とおぼえて、なかなか優なる方もありけり。人々の家々は、野の中、田の中なりければ、麻の衣はうたねども、「十市の里」とも言ひつべし。
第七十二句 宇佐詣で
平家は筑前の國三笠の郡大宰府に都をたてて、「内裏つくらるべき」と公卿僉議ありしかども、いまだ都もさだまらず、主上、当時は岩戸の少卿大蔵の種直が宿所にぞましましける。人々の家々は、野の中、田の中なりければ、麻のころもは打たねども、「十市の里」とも言ひつべし。内裏は山の中なれば、「かの木の丸殿もかくやありけん」と、なかなか優なるかたもありけり。
へ 元和九年本
十四 都還
しんとはきたはやまやまにそびえてたかく、みなみはうみちかくしてくだれり。なみのおとつねにかまびすしく、しほかぜはげしきところなり。さればしんゐん…略…
巻第八
緒環
ひとびとのいへいへは、のなかたなかなりければ、あさのころもはうたねども、とをちのさとともいつつべし。だいりはやまのなかなれば、かのきのまるどのも、かくやありけんと、なかなかいうなるかたもありけり。まづうさのみやへぎやうがうなる。…略…。
ト 嵯峨本系
巻第五
都還
同じき十二月二日俄に都還ありけり。新都は北は山々に沿うて高く南は海近くして下れり。波の音常はかまびすしく潮風烈しき所なり。…略…
緒環
平家は筑紫に都を定め内裏造らるべしと公卿僉議ありしかども都も未だ定まらず主上はその比岩戸の小卿大蔵種直が宿所にぞましましける人々の家々は野中田中なりければ麻の衣は打たねども十市の里とも云つつべし。内裏は山の中なればかの木の丸殿もかくやありけんと中々優なる方もありけり…略…
チ 盛衰記
礼巻 第十七
新都有様事
去程に治承四年六月二日、都を福原へうつされて、既に八月にも成にけり。平安の故郷は日に随て荒行、公卿殿上人上下の北面に至るまで、人々の家々、或筏に組、或は舟に積て漕下る。所々に家居しけれ共、福原の新都も未ならず。有とある人は皆浮雲の思をなせり。本より此所に住ける者は、田畠を失ひ、屋舎を壊て愁、今移居たる人は、土木の煩旅宿を悲て歎く。路の辺を見れば、車に乗べきは馬に乗、衣冠を著すべきは直垂を著たり。都の振舞忽に廃れて、ひたすら武士に不異。…略…
賦巻 第三十二
平家著太宰府付北野天神飛梅事
八月十七日に、平家は筑前國御笠郡太宰府に著給へり。菊地次郎高直、宍戸諸卿種直、臼杵戸槻松浦党を始として、奉守護主上、如形被造皇居たり。彼大内は山中なりければ、木丸殿とも云つべし。人々の家々は野中田中なりければ、草深して露繁し。麻のさ衣うたね共、十市の里とも云つべし。
リ 延慶本
八 第四 五  へいけのひとびとあんらくじにまうでたまふこと
したがひたてまつるところのつはもの、きくちのじらうたかなほ、いはどのせうきやうたねなほ、うすき、へつぎ、まつらたうをはじめとして、おのおのさとだいりざうしんす。かのだいりはやまのなかなれば、きのまろどのもかくやとぞおぼえし。人々の家々は野の中、たなかなりければ、鹿のさごろもうたねども、とほぢのさとともまうしつべし。をぎのはむけのゆふあらし、ひとりまろねのとこのうへ、かたしくそでもしほれにけり。いちもんのひとびと、あんらくじへ参り、つやして詩を作りれんがをしたまひて、なきかなしみたまひける中に、きうとをおもひいだして、しゆりのだいぶつねもりかくぞえいじたまひける。
ヌ 長門本
巻第九
新都の道のほとりを見れば、車にのるべきものは、馬にのり、衣冠布衣なるべき者は、多く直垂を着たり、都の手ぶり忽に改りて、ただひなびたる武士に異ならず…略…
巻第十五 義仲行家任官之事
かの内裏は山の中なれば、木丸殿もかくやとこそ覚えしか、人々の家々は野中田中なりければ、麻の衣はうたねども、とをぢの里とも申つべし。
ル 闘諍録
五 平家の人々、筑紫に内裏を建てらるる事
然程に、筑紫には内裏を造り出だして主上を渡し奉る。大臣以下の人人も館共を卜めにけり。三重彼の大内は山の中なれば、木丸殿とも謂つつべし。人人の家家は野中田中なりければ、麻の衣はうたねども、遠路(ゑんろ)の里とも申しつべし。

2) 福原遷都のまとめ
 諸本の差違を表三に示す。

 方丈記の福原遷都の記述は、平家の福原遷都と緒環の筑紫に作った里内裏の両方に利用されている。
 丸殿は、斉明天皇の御時百済救済の西征の際、筑紫、今の福岡県朝倉市山田に置かれた行宮が、粗末な造りにしたとあり、その時皇太子だった天智天皇が、
朝倉や木のまろ殿にわがをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
の歌を作ったと伝承されており、俊頼髄脳にこの歌があるので、源俊頼の子俊恵の弟子であり、新古今和歌集編纂のための和歌所寄人であった鴨長明であれば、知って当然のこととなる。ただし、この歌は、古事記や日本書紀にはなく、この類歌は催馬楽にある。天智天皇の歌だということも確証はない。
 福原の貴族達の樣子は、読み本系の盛衰記と長門本が、後から方丈記の部分を挿入したと考えるべき。
 延慶本、闘諍録は、丸殿以外は方丈記を挿入して居らず、熱田本、平松本、四部合戦状本は全く挿入していない。
 なお、大福光寺本には、【ソノ地、ホドセハクテ、デウリヲ割ルニタラス。北ハ山ニソヒテ高ク、】が欠落しており、高野本、城方本、百二十句本、元和九年本、嵯峨本系が記載していることから、大福光寺本を参考としていないことが判る。そのうち、元和九年本「やまやまにそびえて」、嵯峨系本「山々に沿うて」と多少誤写がされている。
 方丈記にないが、正治二年後鳥羽院初度御百首・新古今和歌集の式子内親王の歌
  更けにけり山の端近く月冴えて十市の里に衣打つ声
を全ての諸本が、引用している。盛衰記のみ「さ衣」としているが、途中の誤写からと思われる。和歌的には新古今の宮内卿
  まどろまで眺めよとてのすさびかな麻のさ衣月にうつ聲
と「十市の里」ではない物の、「麻の狭衣」の用例は多い事からこちらを重視したこともあり得る。
 「十市の里」は、「とをち」と読まれ、いつの間にか「遠路(とをぢ、とほぢ、ゑんろ)」(延慶本、長門本、闘諍録)と誤写されている。福原や筑紫であれば、意味的にいえば、本来は遠路とされていたのかもしれないが、引歌との整合がなくなる。

平成26年3月30日全面改定


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