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平家物語と方丈記5 初稿

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四部合戦状本

(4) 養和の飢饉
 養和(1181年七月~82年五月)の飢饉は、天変地異の凶作に加え、源義仲軍、武田軍に包囲され、地方からの食糧の供給が途絶えたことも原因となっているとのこと。
1) 諸本の差違
イ 大福光寺本
又、養和ノコロトカ久クナリテヲホエス。二年カアヒタ、世中飢渇シテ、アサマシキ事侍リキ。或ハ春夏ヒテリ、或ハ秋大風、洪水ナトヨカラヌ事トモウチツゝキテ、五穀事/\クナラス。【ムナシク春耕シ、】夏ウフルイトナミアリテ、秋カリ、冬ヲサムルソメキハナシ。是ニヨリテ、國々ノ民、或ハ地ヲステゝサカヒヲイテ、或ハ家ヲワスレテ山ニスム。サマサマノ御祈ハシマリテ、ナヘテナラヌ法トモヲコナハルレト、更ニ其ノシルシナシ。京ノナラヒ、ナニワサニツケテモ、ミナモトハヰナカヲコソタノメルニ、タヘテノホルモノナケレハ、サノミヤハミサヲモツクリアヘン。ネムシワヒツゝ、サマサマノ財物、カタハシヨリスツルカ事クスレトモ、更ニメミタツル人ナシ。タマタマカフル物ハ、金ヲカロクシ、粟ヲゝモクス。乞食路ノホトリニヲホク、ウレヘカナシムコヱ耳ニミテリ。マヘノトシ、カクノ如クカラウシテクレヌ。
アクルトシハ、タチナヲルヘキカトヲモフホトニ、アマリサヘエキレイウチソヒテ、マサゝマニ、アトカタナシ。世人ミナケイシヌレハ、日ヲヘツゝ、キハマリユクサマ、少水ノ魚ノタトヘニカナヘリ。ハテニハカサウチキ、足ヒキツゝミ、ヨロシキスカタシタル物、ヒタスラニ家コトニコヒアリク。カクワヒシレタルモノトモノ、アリクカトミレハ、スナハチタフレフシヌ。築地ノツラ、道ノホトリニ、ウヘシヌル物ノタクヒ、カスモ不知。トリスツルワサモシラネハ、クサキカ世界ニミチ満テ、カハリユクカタチアリサマ、目モアテラレヌコトヲホカリ。イハムヤ、カハラナトニハ、馬車ノユキカフ道タニナシ。アヤシキシツヤマカツモチカラツキテ、タキゝサヘトモシクナリユケハ、タノムカタナキ人ハ、ミツカラ家ヲコホチテ、イチニイテゝウル。一人カモチテイテタルアタヒ、一日カ命ニタニ不及トソ。アヤシキ事ハ、薪ノ中ニ、アカキニツキ、ハクナト所/\ニミユル木、アヒマシハリケルヲタツヌレハ、スヘキカタナキ物、フル寺ニイタリテ、佛ヲヌスミ、堂ノモノゝ具ヲヤフリトリテ、ワリクタケルナリケリ。濁悪世ニシモムマレアヒテ、カゝル心ウキワサヲナン見侍シ。イトアハレナル事モ侍キ。サリカタキ妻ヲトコモチタル物ハ、ソノオモヒマサリテフカキ物、必サキタチテ死ヌ。ソノ故ハ、ワカ身ハツキニシテ、人ヲイタハシクヲモフアヒタニ、マレ/\エタルクヒ物ヲモ、カレニユツルニヨリテナリ。サレハ、ヲヤコアル物ハ、サタマレル事ニテ、ヲヤソサキタチケル。又、ハゝノ命ツキタルヲ不知シテ、イトケナキ子ノナヲチヲスイツツ、フセルナトモアリケリ。仁和寺ニ隆曉法印トイフ人、カクシツゝ、數モ不知死ル事ヲカナシミテ、ソノカウヘノミユルコトニ、ヒタイニ阿字ヲカキテ、縁ヲ結ハシムルワサヲナンセラレケル。人カスヲシラムトテ、四五両月ヲカソヘタリケレハ、京ノウチ、一條ヨリハ南、九條ヨリハ北、京極ヨリハニシ、朱雀ヨリハ東ノ路ノホトリナルカシラ、スヘテ四萬二千三百アマリナンアリケル。イハムヤ、ソノ前後ニシヌル物オホク、又、河原、白河、西ノ京、モロモロノ辺地ナトヲクハヘテイハゝ、際限モアルヘカラス。イカニイハムヤ、七道諸國ヲヤ。崇德院ノ御位ノ時、長承ノコロトカ、カゝルタメシアリケリトキケト、ソノ世ノアリサマハシラス。マノアタリメツラカナリシ事也。
【ムナシク春耕シ、】は、前田家本より。
ロ 方丈記流布本
又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五穀ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひなに事につけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。念じわびつゝ、さまざまの寳もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重くす。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。さきの年かくの如くからくして暮れぬ。
明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみうちそひて、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出でたるあたひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれり。これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。
又あはれなること侍りき。さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。
ハ 源平盛衰記
於巻 第二十七
太神宮祭文東國討手帰洛附天下餓死事
治承三年の秋八月に、…略…。去程に去年諸國七道の合戦、諸寺諸山の破滅も猿事にて、天神地祇恨を含給ひけるにや。春夏は炎旱夥、秋冬は大風洪水不斜、懇に東作の勤を致ながら、空西収の営絶にけり。三月雨風起、麦苗不秀、多黄死。九月霜降秋早寒。禾穂未熱、皆青乾と云本文あり。加様によからぬ事のみ在しかば、天下大に飢饉して、人民多餓死に及べり。僅に生者も、或は地をすて境を出、此彼に行、或は妻子を忘て山野に住、浪人巷に伶■、憂の音耳に満り。角て年も暮にき。
明年はさりとも立直る事もやと思ひし程に、今年は又疫癘さへ打副て、飢ても死ぬ病ても死ぬ、ひたすら思ひ侘て、事宜き様したる人も、形を窄し様を隠して諂行く。去かとすれば軈て倒臥て死ぬ。路頭に死人のおほき事、算を乱せるが如し。されば馬車も死人の上を通る。臭香京中に充満て、道行人も輙らず。懸ければ、余に餓死に責られて、人の家を片はしより壊て市に持出つゝ、薪の料に売けり。其中に薄く朱などの付たるも有りけり。是は為方なき貧人が、古き仏像卒都婆などを破て、一旦の命を過んとて角売けるにこそ。誠に濁世乱漫の折と云ながら、心うかりける事共也。仏説に云、我法滅尽、水旱不調五穀不熟、疫気流行、死亡者多と、仏法王法亡つゝ、人民百姓うれへけり。一天の乱逆、五穀の不熟、金言さらに不違けり。
ニ 四部合戦状本
去シ自治承年中世間飢渇シ此五月亘リ人種子可殘ル不見ヘ、築イ地傍道邊餓死者不知數車馬無行キ通フ道、目不被当悲死伏事、仁和寺隆曉法印云フ上人語ヒツ、上人ヲ太多、毎ト見其首ヘ額イ書阿字被爲結縁之態知ト人數計ヘタル四五両月京中一條以リハ南九條以リハ北、京極以リハ西朱雀以リハ東都ヘ有リ四萬二千四百餘リ況ヤ其前後死骸多シ。又河原白河西京北山以下加ヘ辺地ナン不可有限リモ何ン況ヤ諸國七道乎ヲヤ。崇德院御宇長承比有ン斯ル爲師承

2) 養和の飢饉のまとめ
 平家物語では、盛衰記と四部合戦状本のみ記載があり、その他では、「治承、養和の飢饉、東國、北國の合戦に、人種はみな滅びたりといへども、なほ残りて多かりけるとぞ見えし。」(百二十句本など)、「去る治承・養和の比より、諸國七道の人民百性等、源氏のためになやまされ、平家のためにほろぼされ、家かまどを捨て、山林にまじはり、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにも及ばず。いかにしてか様の大礼もおこなはるべきなれ共、」(高野本など)などと言ったもののみ記載があるだけである。
 四部合戦状は、冨倉 徳次郎「平家物語と方丈記」によると、「また、四部合戦本では、巻六に見える。」と記載があり、「今便宜四部合戦状のの本文を記す。」とある。仏像を薪として売る話はなく、隆暁法印が餓死者の数を数えた話、崇徳院の時代にもあったとが載っていて、「この文を見るとき、これが方丈記の文章と類似するとことの多いことは、ここに説明する必要がないことと思う。」としている。
 源平の闘いでは、治承四年(1180年)十月二十日の富士川の合戦で大勝した源頼朝関東勢が、直ぐに京に攻め込まず、寿永2年(1183年)七月二十七日の木曽義仲北陸信濃勢に入京を先んじられた。また、疲弊している中で、大軍の食料調達を京中で賄おうとしたため、人心の離反を招き、宇治川の合戦に、源義経に敗れた一因とも言われる。また、義経は、軍を京中に置かなかったのも、このためといわれる。このように重要な事態であるにも関わらず、平家物語諸本で取り上げるものが少なかったのは、あまりに悲惨で生々しいことであるので、娯楽としての平曲には馴染まなかったのかもしれず、記載がされず、若しくは削除されたのではないかと思う。
 盛衰記では、大福光寺本「秋大風」、流布本「秋冬大風」となっており、「秋冬は大風」の盛衰記は、流布本を参考引用にしていると推察されるが、大福光寺本の「アカキニツキ」、流布本の「につき」と盛衰記「朱」のということで、逆に大福光寺本を参考引用しているのではと思う部分もある。丹は「あか」とも訓じるのででその色だけで表現したのかも知れない。「洪水」(大福光寺本、盛衰記)、「大水」(流布本)は、ともに訓でよむと「おおみず」と読むのでどちらとも言えない。
大風や洪水は、台風シーズンに起こることから、冬を入れるというのも、春夏、秋冬の対句的表現をしたのかもしれない。


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