岡倉天心の愛した六角堂での平曲(平家琵琶)演奏会 小秘事「祇園精舎」
4 鴨長明とその周辺人物
(1) 鴨長明
方丈記の作者である鴨長明は、下鴨神社の祢宜の子として生まれ、幼くして父に死に別れ、歌を俊恵に学び、琵琶は楽所預の中原有安に学びつつ、父代わりともいうべき交わりをしていた。源家長日記によれば、和歌所寄人になってから和歌の催しなどがあれば常に参加し、真面目に勤めたとある。俊頼の子の俊恵直伝の愛弟子であるという自負があったのであろう。
琵琶奏者としてもかなり有名で、方丈記の中にも、「琴、琵琶各々一張を立つ。いはゆる折琴、継琵琶これなり。」や「もし、余興があれば、しばし、松の響きに秋風樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。」とある。なお、「流泉」は、源博雅が逢坂の蝉丸に「啄木」とともに教わったと伝えられる秘曲(今昔物語他)として、有名である。
この啄木について、秘曲づくしという催しをして、啄木を弾いたというので、孝道という楽士から密告され、勅答を奏して反論したが、後鳥羽院やむを得ず配流を決め、長明は、耐えきれなくなって出家し、伊勢に落ちのび、二見浦に方丈の庵を建てたと音楽口伝の文机談で書かれている。もっとも文治二年に西行の庵を訪ねた伊勢記と日野の方丈の庵の事が、間違って覚えられていて、秘曲づくしも後から作られた物語の可能性が大きい。
ここでもうひとつ興味深いのは、方丈記(又は伊勢記)が、「件の記録はいまだ世のもてあそぶ物なれば、定めて御らんじたる人もをはしますらん。」と音楽士の間でも広まっていたという事実である。
また、名器「手習」という琵琶を後鳥羽院が所望し、家長を勅して、使いに渡した時に、和歌を撥に書いてあったと家長日記にある。
文机談
さて、有安には、鴨長明と聞へしすき物もならひ伝へり。わづかに、楊真操までうけとりて、のこりはゆるさずしてうせにけり。長明は和哥のみちさへ聞へければ、世上の名人にてぞ侍りける。…略…賀茂のおくなる所にて秘曲づくしといふことをぞはじめける。…略…願主の長明、年ごろおもひけるにはなをこよなくまさりておぼえければ、かむにたへかねて比巴の啄木といひける曲を数反弾きけり。なにとはしらずおもしろき事、いひやるかたなし。我も人もこの世なぬせかいにうまれ、しらぬ國きたりぬる心ちして、耳ををどろかし、めをそばだてずといふ事なし。まことにしてもかゝる事にあひまじはらではななとせとぞきこえける。…略…これにたへずして、ついに長明洛陽を辞して修行のみちにぞ思ひたちける。たまくしげふたみの浦といふ所に方丈の室をむすびてぞ、のこりのすくなき春秋をばをくりむかへける。…略…件の記録はいまだ世のもてあそぶ物なれば、定めて御らんじたる人もをはしますらん。 九重のみやこをのがれいでゝ旧宅をいで侍りけるとき、みづからつくりたりける紫藤の小比巴一面をば院(後鳥羽院)へまいらせあぐ。ばちをば黒木といふ物にてつくる。一首の哥をゑりつけてぞたてまつる。…略…かるがゆへにこの比巴を手習と号せらる。後には院御師範定輔の大納言給はりて…略…。
家長日記
すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず。
「手習ひといふ琵琶を持たりし、尋ねよ」と仰せ侍りしかば、大原へ消息して侍りしかば、使につけて參らすとて、撥に書きつけたりし歌、
かくしつつ峰の嵐のおとのみやつひにわが身を離れざるべき
払ふべき苔の袖にも露しあれば積もれる塵も今もさながら
これを御覧じて、「返事せよ」と仰せられしかば、
これを見る袖にも深き露しあれば払はぬ塵はなほもさながら
山深く入りにし人をかこちても半ばの月を形見とは見ん
十訓抄 九ノ七
近ごろ、鴨社の氏人に菊大夫長明といふものありけり。
和歌、管絃の道に、人に知られたりけり。社司を望みけるが、かなはざりければ、世を恨みて、出家してのち、同じくさきだちて、世を背きける人のもとへ、いひやりける。
いづくより人は入りけむ眞葛原秋風吹きし道よりぞ來し
深き恨みの心の闇は、しばしの迷ひなりけれど、この思ひをしもしるべにて、眞の道に入るといふこそ、生死、涅槃ところ同じく、煩悩、菩提一つなりけることわり、たがはざりとおぼゆれ。
この人、のちには大原に住みけり。方丈記とて假名にて書き置きけるものを見れば、はじめの詞に、
行く水の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
とあるこそ、
世閲人而爲世 人苒々行暮 世は人を閲べて世を為す 人苒々として行き暮れぬ
河閲水而爲河 水滔々日度 河は水を閲べて河を為す 水滔々として日に渡る
といふ文を書けるよ、とおぼえて、いとあはれなれ。しかれども、かの庵にも、折琴、繼琵琶などをともなへり。念佛のひま/\には、絲竹のすさみを思ひ捨てざりけるこそ、數奇のほど、いとやさしけれ。
そのゝち、もとのごとく和歌所の寄人にて候べき由を、後鳥羽院より仰せられければ、
沈みにきいまさら和歌の浦波に寄らばや寄らむ海人の捨て舟
と申して、つひに籠り居て、やみにけり。
世をも人をも恨みけるほどならば、かくこそあらまほしけれ。
(2) 源季広
源季広は、平安末期から鎌倉初期の人で、千載集、新古今和歌集、続後撰、新後撰、続後拾遺、新続古今に各一首、新勅撰に二首撰歌されている歌人で、九条兼実の家司を勤め、藤原定家の日記「明月記」にも所々登場するとのこと。正五位下で下野守を勤めた。信濃小路家とよばれる系統とのこと。
何故、季広が方丈記と関係があるかというと、新勅撰和歌集 巻第十 釈教歌に
十二光佛の心をよみ侍りけるに、不断光佛 源季広
月影はいる山の端もつらかりきたえぬひかりを見るよしもがな
とあり、これが方丈記の流布本の巻末に記載されている。このため、藤岡朔太郎博士は方丈記偽書説を採られた。
何故流布本の巻末にこの歌が記されたのか不明である。
また、延徳本には別の歌が入っており、これは誰の歌か不明である。
墨ぞめの衣ににたるこゝろかととふ人あらばいかゞこたへむ
(3) 藤原行長
藤原行長は、平家物語作者の諸説の中で、全ての解説書、研究書にまず記載されていると言ってよい、吉田兼好が書いた徒然草に作者と明記されている。葉室兼時の孫、左大弁の行隆の子で、同じく尊卑分脈で作者と擬されている葉室時長とは、従兄弟の関係にあり、両者は共に九条兼実の家司を勤めている。また、下野守を勤めている。
漢詩に精通しており、徒然草でも、白楽天の新楽府を論じる際に、召されていたと記載があるほどである。
元久二年、九条良経が企画し、後に後鳥羽院も参加した元久詩歌合の出詠者でもある。当初はメンバーではなかったが、院の参加が急遽決まり、漢詩側の作者として加えられたものである。後鳥羽院の北面の武士である藤原秀能と番われており、勝敗は残されていない。
この元久詩歌合には、もう一人鴨長明が出詠している。つまり共に身分は低いものの、方や源俊頼・俊恵の和歌の伝統を継承し、琵琶の才能にも優れた長明と漢詩については深い知識を有した行長がここで会していることとなる。この詩歌合には定家は出席していないが、かれの日記である明月記には、歌合の席順などが記されており、身分の低い者は、庭に席が設けられており、共に五位以下であるため、両者は顔を合わせていると考えて良い。
学者にとって漢詩は得意だが和歌は弱い。逆に和歌が得意な者は漢詩が苦手。ましてや管弦の才能、有職故事、歴史、仏教までとなると、三舟の才の藤原公任、源経信、慈円、九条良経など、歴史上でも数人しかいない。
詩歌、有職故事の行長、和歌、管弦の長明などの才能が結集しないと文化の総合芸術である平家物語は出来ない。
元久詩歌合
春
卅三番 海隅求泊雲無跡 湖上停船月作隣
卅四番 楊柳一村江縣緑 煙霞万里水郷春
秋
五番 鳥路煙均河漢上 竜門水冷洛陽西
六番 行人随月過鑪岫 旅客與雲宿碧嵆
春
廿九番 持 長明 けふも又おなじ霞や深緑かひある春の跡をたづねて
卅番 持 長明 ひばりたつみつの上野にながむれば霞ながるる淀の川なみ
秋
九番 右負 長明 と山より野べの朝霧わけかへて雲のいくへに日ぐらしのこゑ
十番 勝負不明 長明 袖にしも月かかれとは契りおかず涙はしるやうつの山ごえ(新古今 羇旅歌 入撰)
徒然草には、失意の出家後、兼実の弟、慈円の保護を受けて、平家物語を書いたとある。
故石田吉貞昭和女子大学教授によると、長寛二年(1164年)頃生まれ、長明の11歳下、定家の2歳下と推計している。同氏によると兼実日記の玉葉の建久五年に下野守という役職名で呼ばれ、藤原(三条)長兼の日記の三長記の建久六年は散位とあり、建久五年まで下野で勤めていたこととなるとのこと。なお、長兼も九条家の家司を勤めており、元久詩歌合の出詠者である。その後八条院に住む左大臣九条良輔の使いを何度か明月記に記載されている。
行長の出家を石田教授は、一代要記に土御門天皇承元四年(1210年)に
同(三月)十五日、於高陽院殿有楽府問答五番
とあり、「このよな特殊な論議が、そうたびたび行われようとも思わない」ことから、この論議の後で、主君良輔の死後の健保六年(1218年)とみている。
しかし、宮地崇邦氏によると、この時代三人も行長がいるというのである。一人はややこしいことに、源行長と言って、兼実のこれも家司をしている。つまり山田孝雄教授や池田教授が指摘している玉葉や三長記の一部は、この源行長であるというのである。そうであるならば、無理に行長の出家の年を良輔の死と整合させる必要は無くなる。
(4)藤原範季
徒然草に、「蒲冠者の事はよく知らざりけるにや」とあるが、同じ兼実の家司に藤原範季がいる。
彼は源義朝が討たれた後、子の範頼(蒲冠者)を引き取っている。つまり、行長は、範季に聞けば良いだけである。
範季は、早くに父を亡くし、兄に育てられ、兄の死後、甥や姪達を養育している。妻は平教盛の娘で、また育てた姪の範子が平時子の弟の能円と結婚している。
また、兼実の玉葉には元暦元年(1184年)九月三日に、今でも範頼と範季は親しいとある。
玉葉 元暦元年九月
三日己丑晴 早旦範季朝臣来たる。不思議の事を示す。參河国司範頼(件の男幼稚の時、範季子となし養育す。よつて殊に相親しむと云々)上洛の間、件の事聞かず知らざる由を答ふ。頗る疑殆あり。然れども事跡顕然、猶信ぜらるべからざるか。
摂関家と源氏、平家とも繋がりが深い。
さらに後鳥羽院が小さい頃まで養育を行い、養育していた二人の姪の範子と兼子が、後鳥羽院の乳母となった事から、天皇家とも深い繋がりを持った。その姪の範子の子供在子(が土御門天皇を産み、さらに自分の子供の重子が順徳天皇を産み、外祖父となっている。
その後、源義経を匿ったかどで、頼朝に睨まれ、官職を剥奪されている。
これだけ平家物語の表も裏も知り尽くしているのだが、範季自身は1205年76歳の高齢で死去していて、直接聞くことは出来なかったのかもしれないし、どんどん出世して最後は公卿である従二位まで昇進しているので、口を聞ける状況で無かったのかも知れない。しかし範頼と幼い時が一緒に過ごした子や甥などには樣子を聞けたのでは無いだろうか。
なお、範季自身の平家物語への登場はない。
(5) 慈円
天台座主を四度も務めた関白藤原忠通の子、兼実の弟で、新古今を代表する歌人でもある。九条良経の叔父にあたり、良経に和歌を指導した節がある。兼実、良経の死後、良経の子道家の後見も務めている。特に承久の変の準備を始める後鳥羽院に対して、執筆したと言われる愚管抄は有名である。
兼実の家司で出家した行長の才能を惜しんで召し抱えたと徒然草にあるとおり、平家物語に、制作総指揮(エグゼクティブ・プロデューサー)という役割があったとすれば、慈円ほど適任者はいない。
慈円も元久詩歌合の企画立案、そして出詠者でもある。
ただし、「山門の事を殊にゆゆしく書けり。」とあるが、ゆゆしくをどう解釈するかによる。山門の事を悪く書けば、立場上慈円は悪くなるし、慈円は、延暦寺内部の抗争などを見聞きして、あまり延暦寺を良く思っていなかった。良く書きすぎると慈円の考えから外れてくる。事実。当時の明雲座主のことを愚管抄ではかなり批判している。
慈円が平家物語では、「慈鎮和尚の未慈円阿闍梨にて御座ける時」(源平盛衰記「山門堂塔事」)、「てんざいざすじゑんだいそうじやう、そのときほふいんにておわしけるが」(延慶本)、と比叡山の様子を描いたところに出てくるが、盛衰記の慈鎮和尚は死後の諡であることから、後の世になって追加された可能性が大きい。
(6)藤原範光
藤原範光は、範季の甥で、幼くて父が死んだ後、叔父に育てられている。つまり源範頼と一緒に育ってきたということである。後鳥羽院の側近として、下野守などを経験して、紀伊守となっている。この時、叔父の範季は、役職を辞して甥が紀伊守に付かせたとある。範光の妻は範季の娘である。
平家物語の範光の登場は、法住寺合戦で後鳥羽院を守っていた側近の一人として名があり、また、範光が、平家が都落ちした際、範子が後鳥羽院も連れて行こうとした時、止めた部分がある。新古今の撰歌を取って付けたように書かれているだけで、余り好意的に書かれてはいない。自分が止めたから後鳥羽院は天皇になれたのだということをアピールはしている。
徒然草 第二百二十六段
後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、 五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて 書き載せたり。蒲冠者の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、 東國の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。
(7) 藤原定家
ここに唐突に藤原定家を出してきたのは、彼も九条兼実と息子の良経の家司を勤めているからである。
藤原俊成の子で、俊成が勅撰撰者である千載和歌集(1188年)の編纂を手伝い、新古今和歌集(1205年)では、名目上の撰者で後鳥羽院親撰の一次収集者の一人であり、そして新勅撰和歌集(1235年)で撰者となっている。しかし、新勅撰でも後鳥羽院を始めとする承久の変関係者を孫の九条道家から削除を命じられている。
ここでは、取り上げなかったが、有名な「忠度の都落ち」で、
さゞなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(千載集 春歌上 忠度集)
と忠度が俊成に託した歌が、千載集にある。
この「その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。」(高野本)とあるように、読み人知らずとして入撰したことを知り得る数少ない人物の一人である。賀茂重保が百首歌を人々に勧めて上賀茂神社に奉納した寿永百首のうちの一つである忠度朝臣集は冷泉家の時雨亭文庫に残されている。平家物語にある忠度が直接俊成に渡した巻を見た事も十分あり得ることである。
延慶本・長門本には、忠度の都落ちに追加していて、行盛の歌が新勅撰に撰歌されるエピソードを追加しており、その場面に登場する。
付け加えて、定家も元久詩歌合の企画から参加して、題を考えた者であり、歌側の出詠者である。
(8) 菅原為長
これも唐突だが、正徹によって、十訓抄の作者の一人に擬されている菅原為長も九条家の家司であり、元久詩歌合の作者である。
為長は、紀伝家の菅家として、文章博士や土御門天皇の侍読となり、以降順徳、後堀河、四条、後嵯峨と五代に渡り勤めた。建暦元年(1211年)には漢学者としては異例の従三位として公卿の仲間入りをして、承久の変以降の承久三年(1221年)には正三位になった。
平家物語との関係では、、十訓抄の中の「ものかはの蔵人」は、平家物語にもエピソードとして挿入されている。
正徹物語
拾訓抄は、爲長卿の作かと覺ゆる也。哥仙、有職、能書にて有りし也。官の廳にて侍りしかば、文を以て先とせし也。面白き事共を書きたる物也。我も持ち侍りしを今熊野にて燒き侍りし也。