![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/d8/d11288aa79f172bd6b2edea180f79dcf.jpg?1699566375)
源氏物語 須磨
前栽の花いろいろ咲き乱れ、おもしろき夕暮に、海見やらるゝ廊に出で給ひて、たゝずみ給ふ御さまの、ゆゆしう清らなること、所がらはましてこの世のものと見え給はず。白き綾のなよゝかなる、紫苑色など奉りて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて、「釈哥牟尼仏弟子。」と名のりて、ゆるゝかに読み給へる、また世に知らず聞こゆ。 沖より舟どもの歌ひのゝしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるゝも、心細げなるに、雁のつらねて鳴く声、楫の音にまがへるを、うちながめ給ひて、涙のこぼるゝをかき払ひ給へる御手つき、黒き御数珠に映え給へるは、ふるさとの女恋しき人々の心、みな慰みにけり。 初雁は恋しき人のつらなれや旅の空飛ぶ声の悲しき とのたまへば、良清、 かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はその世の友ならねども 民部大輔、 心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな 前右近将監、 常世出でて旅の空なるかりがねもつらにおくれぬほどぞ慰む 友惑はしては、いかに侍らまし。と言ふ。 親の常陸になりて下りしにも誘はれで、参れるなりけり。下には思ひくだくべかめれど、誇りかにもてなして、つれなきさまにしありく。![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/1a/7701bf1072eeb49158b8bfa3c7ae5492.jpg?1699566439)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/81/ea59f3ac96cb7b7b4985ec1a765e385b.jpg?1699566439)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/34/ae8f6123f3dbbd9b4133b44fb0e7ac51.jpg?1699566439)
藤原惟光 漁舟 源氏 源良清 前栽 土佐光成 (正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年)) 江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。 土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。 画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。 令和5年10月29日 七點七伍/肆