新古今和歌集 巻第七賀歌
永保四年内裏
子日に
大納言經信
ねのひするみかきの
うちのこまつはら
千代をはほかの
ものとやはみる
歌:子の日する御垣の内の小松ばら千代をば外の物とやは見る
読み:ねのひするみがきのうちのこまつばらちよをばほかのものとやはみる
意味:子の日の行事を行う宮中の小松の原の千年の年を数える松も、万代の天皇の御代に比べれば少ない日数です。
作者:源経信1016-1097帥大納言。桂大納言、源都督と称された。詩、歌、管弦に優れた。
備考:新古今注、十代集抄
○文政八乙酉二月
文政八年(乙酉) グレゴリオ暦 1825年
○鷹司殿諸大夫小林筑前守
小林 良典(文化5年(1808年) - 安政6年(1859年))。幕末の地下人。小林元次男、母は小森頼望女叙子。
尊皇の志篤く、青蓮院宮尊融法親王や近衛忠熙、三条実万らと交流する一方で、日下部伊三治・橋本左内ら志士たちとも接点を持ち国事に奔走した。将軍継嗣問題や水戸藩への密勅降下では主家鷹司政通を説いて攘夷派の重鎮へと転換させた。また一橋派に属して政通・輔煕父子を補佐する。しかし安政五年(1858年)安政の大獄に連座して江戸に捕えられる。翌安政6年水戸・福井藩を密勅降下のために入京させたとして遠島刑となる。後に肥後人吉藩預かりに減刑されるも、江戸に獄中で病没した。
○近衛
近衛 忠煕(文化5年(1808年) - 明治31年(1898年))公武合体派として活動した。翠山と号す。
経歴
安政4年(1857年)左大臣となるが、将軍継嗣問題で一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し、落飾謹慎する。
文久2年(1862年)に復帰して関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞す。
官歴
文化13年(1816年)元服し、従五位上に叙位。左近衛権少将、左近衛権中将。
文化14年(1817年)従三位に昇叙、権中納言に転任、左近衛権中将は元の如し。
文政2年(1819年)8月17日、権大納言。
文政4年(1821年)8月11日、正三位に昇叙。
文政6年(1823年)3月16日、従二位に昇叙。
文政7年(1824年)左近衛大将を兼任、左馬寮御監を兼帯。正二位に昇叙。
6月28日、内大臣に転任、左近衛大将・左馬寮御監は元の如し。
天保5年(1834年)従一位に昇叙、内大臣・左近衛大将・左馬寮御監は元の如し。
9月22日、左近衛大将・左馬寮御監を辞す。
○増田周造
不明
平成27年7月15日 肆點壱