それでは、元明天皇は毎日藤原京から夫草壁皇子の陵を見ていたのだろうか?
草壁皇子は、高取町束明神古墳に葬られているらしいことが明らかになっている。藤原京大極殿から、その墓陵が見えるか?と考えたが、どの山がそうか区別が付かない。そこで、その山である真弓丘の東から藤原京方面の眺望をGoogle Earthによって海抜177mの視点から見ると、図の通り藤原京大極殿が見える。
このことから、元明天皇は晴れた日は毎日、草壁皇子の墓陵辺りの山を見ていたこととなる。
ただし、墓陵は、標高が低い為に、マルヤマ古墳裏の真弓丘により際切られる。
万葉集巻第二167
日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴。
吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛。
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ。
我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも。
反歌
久堅乃 天見如久 仰見之 皇子乃御門之 荒巻惜毛
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
茜刺 日者雖照者 烏玉之 夜渡月之 隠良久惜毛
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも
写真は、高取町真弓丘と束明神古墳